学生時代、高田馬場に住んでいた。通学にも、バイトにも山手線。同じところをぐるぐる回って終点のない電車は、ときに、ただ居座るための場所にもなった。 目的はないが外に出たい。静かに籠もれる喫茶店じゃなくて、窓からの光に後頭部を暖めて、雑多な他人の生活をすぐそばで確かめながら、揺れるように本を読みたい。 晴れた日の昼間、本1冊と小銭を持ってホームに立ちます。1周が大体1時間だから、腕時計もいりません。すいた車輛に乗り込み、端の席に陣取って、手すりにもたれながら開くとしたら、どんな小説が良いだろう。
山手線は出てこない。
7つの短編、それぞれ舞台も時代もばらばらで、翻訳家の叔母の遺品整理をする女の子だったり、遊園地の駐車場で暇を明かす若者たちだったり、遠い国(どことも分からない、遠い国)の小さな町に越してきた画家だったり、あまり連関のなさそうな物語が、「月」「掌」「クローク」「半島」……小さなキーワードで緩く結ばれる。
ひとつひとつは短いから、遅読の人でも、山手線3分の1周ごとに1話。読み終えるごとに、あ、この人もしかして前の話のあの人、と物語が輪のように繋がっていく。
”たわむれに湯を割ると、月も割れて四方に砕け散った。”(p.140)
”そういえば、さみしいというのは、どうしていいかわからないことであった。”(p.147)
水彩画のような、輪郭ない色彩の世界に入り浸ったところで、ふと我に返り「いけぶくろ」の看板が目に入ったりしたら、無粋な都会が猛烈に憎らしくなるかもしれない。でもこんな都会の中にあっても、私の手の中には、光る言葉で形づくられた別の世界が収まっていて、私はいつでもそれを開くことができる。それは結構嬉しいことだ。
- 著者
- 吉田 篤弘
- 出版日
- 2013-11-22
入れ替わり立ち代わり、いろんな人が乗って来る。降りてゆく。渋谷から、高校生グループ。有楽町から、恋人同士。新宿から、上司部下。西日暮里駅へ、スーツケース連れの親子。おしゃべりを重ねて、笑い合う彼らは、しかし互いをどこまで知っているのだろう。
「馬鹿でブス」な自分を上手く認められない主人公は、「ちゃんとしないと」「みっともないことはできない」が染みついた実家暮らしのアラサー。家族や同僚との息が詰まる関係から抜け出そうともがくうち、よく知っているはずの人たちの別の顔が見えてくる。
”この子は誰なんだろう、と唐突に思う。この子の中にはなにが入っているんだろう。言葉で聞いても、なんど体を重ねても、本当はなんにもわからない。”(p.131)
如才なく生きているように見える誰もが、醜さを取り繕っている。しかしそれを知っても、私は彼らと向き合うことを、投げ出すことはできない。
最後まで登場人物の誰一人をも切り捨てることなく、他人と向き合うことの底知れなさと救いを描く。
読み終わったあとはすぐに下車せずに、自分自身のこと、自分が決めつけているかもしれない誰かのことを、もう一周ぶん考えたい。
- 著者
- 彩瀬 まる
- 出版日
- 2015-08-28
同じく人間の得体の知れなさを描きながらも、登場人物をことごとく切り捨てまくるのがこちらの小説。蜘蛛なぞ何匹でも潰せるような、糞、クソ、豚、莫迦が口癖の裏社会を描く短編集だ。
なにしろそれぞれの話のタイトルがヒドい。
「いんちき小僧」「マミーボコボコ」「顔が不自由で素敵な売女」、そして「デブを捨てに」。
しかも全部、だいたいタイトルの通りのストーリーだ。表題作は、借金まみれの男が闇金に自分の腕をもぎとられる代わりに、とあるデブの女を「廃棄」しにいく話。個人的には、「マミーボコボコ」が良かった。大家族モノ番組の出演料で食いつなぐ一家の、修復不可能な歪みを暴く。
どうしようもない。後味は悪い。それなのにどん詰まり感はない。ハイスピードで最悪なドタバタ劇が目の前を過ぎ去っていく感じ。読みだしたら止まれない。
最後のページを閉じたら、速攻下車して駅前のてきとーなラーメン屋でずるずる再読したい。本書はペーパーバックでカバー無し、中の紙も藁半紙みたいなやつだから、飛び散った汁と脂の跡がよく残るだろう。
- 著者
- 平山 夢明
- 出版日
- 2015-02-20
学生時代、山手線を回りながら読み切った思い出の本。なにしろ本当に、山手線みたいな小説なのだ。
舞台はフランスの、川の上。岸に繫がれた小船を家にして生活する一人の日本人。何があったのか、職を辞めてふらりと異国にやってきた。船を貸してくれた大家、郵便配達人、対岸で太鼓を演奏する男、市場の売り子、船に遊びに来る少女、ときおりファックスを送り合う日本の友人……。
かろうじて人との接点はあるものの、彼は船の中で、何をするでもなく、毎日音楽を聴いて本を読んでコーヒーを飲み料理をし、とりとめなく思索を巡らす。そう、とりとめのない、ほとんど「進まない」小説なのだ。読者には、語り手自身がどんな人間なのか、どんな人生を送ってきたのか、ほとんど明かされないままに、彼の日常と思考の揺れに付き合わされる。
ただし、そんな日常を無条件に愛でるような小説ではない。
語り手は、代わり映えのない停滞の日々を過ごしながら、人が「変わる」「成長する」ということについて考え続ける。同じ「ような」毎日を過ごすことは、本当に「同じ」毎日の繰り返しだろうか。安易に前に進むこと、安易に新しい道を選ぶことを拒み、ためらいつづけて、それでもその先には。
”高く舞うためにではなく、判で押したような日常をしぶとくつづけながら、あるとき、唐突に見たことも聞いたこともなかった領域へと彼らは飛び込んでいくのだ。”(p.265)
本を読み終えて、今日何度目かの高田馬場に辿り着き、乗る時と同じホームのまったく同じ点字ブロックを踏んだらば、もしかすると、ひとつ先の日常が始まっているかもしれない。
- 著者
- 堀江 敏幸
- 出版日
- 2008-04-25
山手線が舞台、あるいは山手線の駅が舞台の本は、あえて選ばなかった。
ただ、周りの人々が次々入れ替わっていく慌ただしい都会のど真ん中で、自分一人同じところを回り続ける、そういう贅沢な時間に適う本を、ぜひ。