教養

ジャック・ラカンのおすすめ本3選!私はいかにして「私」になるか?

更新:2020.12.2 作成:2017.3.24

難解と言われる現代思想の中でもとりわけ難解な思想で有名なフランスの精神分析家ジャック・ラカン。超難解と言われるラカンの思想は、何故それでも多くの人を魅了するのでしょうか。ラカンの代表的な理論から、彼の思想の一端をご紹介します。

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ジャック・ラカンの生涯と思想の背景

ジャック=マリー=エミール・ラカンは、1901年にパリのブルジョワ階級の家に誕生しました。初めに高等師範学校にて哲学を学んだ後、1926年頃パリ大学に転学して医学、特に精神神経学の基礎研究を行うようになります。

卒業後、パリのサン・タンヌ病院で精神科医として勤務していたラカンは、1932年学位論文となる「人格との関係から見たパラノイア性精神病」を発表しました。パラノイア(=被害妄想を伴う人格障害)患者を観察したこの論文が、ラカンの思想的出発点となるのです。

1936年にマリエンバードで行われた国際精神分析学会(IPA)にて、現在でもラカンの代表的な理論とされる「鏡像段階理論」を発表したことで、ラカンは精神分析家として頭角を現わすことになります。

ラカンは様々な学会や教会に所属しますが、最終的にたった一人で新しい精神分析団体を設立することを宣言することになります。それが「パリ・フロイト派」です。1964年のことでした。

ラカンは他の多くの哲学者や思想家たちと比べ著作はそれほど多くはありません。その代わりに彼は、1951年頃から20年以上にわたってセミネール(セミナー)を開き、自身の理論を参加者たちに語ることで発表・展開させていきました。

ラカンは自身の思想もその発表のスタイルも、声の調子や身振りを含めて「語る」ということを非常に重要視していたことが伺えます。

ラカンの仕事をあえて一言で言うなれば、精神分析学の元祖であるフロイトの精神分析学を再評価し、構造主義的に発展させたことと言えるでしょう。(もっともラカン自身は構造主義を標榜していたわけではありませんが)「フロイトに還れ!」という言葉は有名ですね。

ラカンは、人間が「私」というものをいかにして認識するのか?人間は自己同一性や主体性というものをどのようにして獲得していくのか?そして精神分析において「語ること・語られること」は一体どのような意味を持つのか?といったことを「言葉」との関わりから明らかにしようとしました。

私が「私」であることを認識し、表明するときに言葉の存在は不可欠ですし、私の心の内を誰かに表すときにも言葉にするより他にはありません。ですから、「私」という存在や「心」の問題を考えるときに「言葉」の存在を重要視するのはいわば必然なのです。

鏡の中に人は〈私〉を発見する「鏡像段階理論」

初期ラカンを代表する理論で、ラカンの名を世に知らしめたのが「鏡像段階理論」です。この鏡像段階理論について書かれた論文「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」は、ラカンの論文集『エクリ1』で読むことができます。
著者
ジャック・ラカン
出版日
1972-05-25
鏡像段階とは、人間の赤ちゃんが生後6ヶ月くらいになると、鏡に映った自分の姿に興味を抱き、とても強い喜びを感じる現象のことを指します。そしてラカンの鏡像段階理論とは、この鏡に映る映像が「私」という主体を形成するのに重要な意味を持つことを解明した理論です。

生後6ヶ月程度の赤ちゃんはまだ喋ることも自分で移動することも出来ない無能力状態で、様々な運動や感覚がバラバラな混沌の内にあります。このような無能力感や統一性を欠いた身体感覚は、赤ちゃん自身と世界との「原初的不調和」の不快感となります。

この「原初的不調和」の不快感に苛まれる赤ちゃんが、ある日、鏡を見ているうちに、鏡に映り込んでいる像が「私」であることを直感する瞬間が訪れるのです。この瞬間にこそ、それまでバラバラの運動や感覚の「ざわめき」としてしか存在していなかった赤ちゃんが、統一的な目に見える像として「私」を捉えることになります。

要するに「これが“私”なのか!」と赤ちゃんは鏡の中に「私」を発見するのです。このような視覚的なイメージとしての「私」に赤ちゃんが初めて遭遇する経験こそが鏡像段階です。

鏡像段階は、単なるバラバラの感覚でしかなかった人間が「私」という統一された主体となるために必要不可欠な成熟の過程なのですが、ラカンは、それは決して良いことばかりではないと言います。

私たちは自分の顔を直接自分で見ることができません。鏡に映したり写真に撮ったりして初めて「私の顔」を見ることができます。しかし、鏡に映る像や写真は決して「私そのもの」ではありません。(例えば、鏡に映った姿は左右反転していますから、実際の私の顔とは異なります)つまり私が「私の顔」と思っているイメージは偽物、すなわち虚構に過ぎないのです。

ラカンは、私たちが「私」という自我をこの虚構に基づいて形成しているということが重要であると言います。私たちは、鏡に映った姿のような「私そのものではないもの」を「私」と見立てることで「私」となります。つまり「私」の原点は「私ではないもの」にあり、また私の内部ではなく私の外側にあるのです。

このように、私の外側にあって「私ではないもの」を自分自身として思い込むことで「私」を立ち上げるという人間の自己同一性の立ち上げはある意味で狂気的あり、人間は「私」になると同時に皆ある種の「狂気」を孕んでいると言えるでしょう。

世界は3つに分けられる。「現実界・象徴界・想像界」

私たちは鏡像段階を経て、仮初めであったとしても統一された自己の視覚イメージを獲得します。しかし私たちは成熟していく上で、鏡像段階から新たな段階へと進まなければなりません。私たちは「世界」へと、特に「言語が常に介入する世界」へと投げ込まれてゆくのです。

ラカンは、私たちが投げ込まれる世界の在り方を「現実界・象徴界・想像界」の3つに分類しました。この分類については、1974年から1975年にかけて行われたセミネール「R.S.I」にて詳述されていますが、残念ながら未だ邦訳が出ていないので、日本語で読むことはできません。

ですので、ここでは「象徴界」について触れられているラカンの著書『精神分析における話と言語活動の機能と領野 ―ローマ大学心理学研究所において行われたローマ会議での報告 1953年9月26日・27日』を挙げておきます。
著者
ジャック・ラカン
出版日
2015-02-09
この「現実界・象徴界・想像界」について理解するには、象徴界を基準に考えていくのが分かりやすいと思います。

「象徴界」とは、数学などの科学的なものも含んだ「言語活動」が行われる場のことを指します。人間は生きていく上で「言語」が必要不可欠です。私たちは物に名前をつける(=記号によって象徴する)ことによって世界を認識し、世界を分節していきます。

象徴界を理解する上で重要なのは、単に私たちが成長に伴って言語を習得するということだけではなく、「言語を習得する」ということは、自分のあずかり知らぬところで既に決められた掟に無条件に従うことを承認することである、ということです。

例えば、「犬」という動物を「犬」としか指し示さない言語を持つ人と「犬」だけではなく「柴犬」や「チワワ」など2つ以上の指し示す言語を持つ人とでは、「犬」の見え方(=世界)は変わります。ラカンにとって言語を習得するということは「自分はルールを受け入れるしかない受動的な存在である」という不条理を認識することでもあるのです。

それに対して、「想像界」は幸福や自由、平和といった、なんとなく想像はできるけれども、実体がなく正確に表現することがとても難しいような対象や世界のことを指します。心の中の心象の世界や妄想も想像界の中に含まれますね。

そして最後に「現実界」について、「現実」とついていることからも私たちの日常や生活世界などと誤解されやすいのですが、実はそうではありません。むしろ、私たちが決して触れることができない世界の客体的な現実のことを指します。

世界は私たちとは無関係に客体として存在しますが、私たちは「それそのもの」に触れたり、認識したりすることはできません。何故なら私たちは「言語」の介入なしには世界を認識し、説明することができないからです。

ラカンにとって「現実」とは、むしろ人間が触れることも手に入れることも「不可能」な領域のことなのです。すなわち「現実界」は「象徴界」にも「想像界」にも含まれません。

私たちは言語(象徴・記号)がある限り、決して「現実そのもの」に触れることはできません。しかし、私たちは言語がなければ世界(現実)を認識することができないのもまた事実なのです。つまり「現実とは決して言語で語り得ないものであるが、同時に人間はそれでも言語によって現実(=世界)を語るしかない」という一見すると逆説的なテーゼが成り立ちます。

ラカンによれば、人間とはこの矛盾の中で、現実という不可能なものに触れることへの憧れと強い忌避との間で揺れ動く存在であるといいます。

つまり、私たちは言語によって媒介される「象徴界」で日々生活しながら、自分の頭や心の中に観念的な想像の世界、すなわち「想像界」を持つ存在であると言えます。そして、そのような存在である私たちの外側に決して触れられないにもかかわらず厳然と存在する客体としての世界が「現実界」なのです。

この3つの世界の分類は、ラカンの様々な思想の基盤となっています。

ラカン思想の原点「症例エメ」

先に紹介した2冊はいずれも論文集や学会での講演を文字に起こしたものであるため、専門家向けでかつラカンの難渋で回りくどい言い回しも手伝い、ラカン入門者にとっては非常にハードルの高い本だと言えます。

そこで、最後にラカンの著書の中でも比較的読みやすい『二人であることの病い パラノイアと言語』(以下『二人であることの病い』)をご紹介したいと思います。
著者
ジャック・ラカン
出版日
2011-12-13
『二人であることの病い』はラカンの初期の論文5編がまとまった論文集です。若きラカンが精神科医として臨床に専念していた頃に執筆されたものであるため、ラカンが実際に出会った具体的な症例を元にして書かれています。

高等師範学校を卒業した後、パリのサン・タンヌ病院で精神科医として勤務していたラカンは、そこで彼の思想的出発点となる一人の女性患者と出会います。パラノイア(=被害妄想を伴う人格障害の一つ)を患っていた彼女は、女優Zを襲う傷害事件を起こしてラカンの勤務する精神病院へと送られてきました。ラカンは彼女を「エメ」と名付け観察します。

鏡像段階で鏡に映ったイメージに自己を投影し、自分というものを認識するように、人は「理想的な自己イメージ」を持つ他者に自分を投影することで、「私」を構成します。ラカンはエメの場合、最初の理想像である「母親」への自己イメージの投影が失敗してしまったがために、その後の人生で姉達や同僚、そして女優Zに対して嫉妬と憎悪を抱くようになってしまったと言います。何故でしょうか。

「素敵なあの人のようになりたい!」という憧れは、時に「あの人だけが素敵で幸せなのは不公平だ」「何故私でなく彼女が幸せなのか」という被害妄想に反転してしまうからです。実際に、エメは自己の理想像を投影した女優Zに対して「女優Zは私を誹謗中傷し、息子を殺そうとしている」といった妄想に取り憑かれていました。

ラカンはこのようなエメの症状を治癒するには、〈鏡像(=他者に投影した理想の自己イメージ)と自己〉の二者関係に対して「第三者の視点」エメのケースの場合は「社会的な裁き」が必要であったと記述しています。だからこそエメは無意識的に救済を求めて、「社会的な制裁を受けるために」女優Zを襲撃する傷害事件を起こしたのだ、とラカンは結論付けます。

社会的な裁きという第三者の視点が介入される事によって(それはエメ自身が無意識のうちに呼び寄せたのかもしれません)、エメの〈鏡像と自己〉のいびつな撞着は引き剥がされたのです。

ラカンのこのような洞察は、後の「鏡像段階理論」や「父の名」という理論にも影響を及ぼしていきます。ですからラカンの思想に触れるための導入としては最適な一冊といえるでしょう。

また、ラカン本人の著作に挑む前の入門書としては、新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)や斉藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)などがオススメです。

ラカンは他の哲学者や思想家と比べて、現在でもなおラカンの解説書や研究書、入門書が数多く出版されています。それは、ラカンの思想が今なお汲み尽くせない謎の多い思想であり、現代にも通用するアイディアが多分に含まれているからであると言えるでしょう。

「ラカンは分カラン!」と言われるくらい、ラカンの思想は難解であることで有名です。

しかし、「心」の問題を言葉やコミュニケーションの水準から読み解こうとしたラカンの思想は、コミュニケーション能力」が重要視される現代において、そもそもコミュニケーションってなんだろう?人間はなぜコミュニケーションをとるのだろう?といったことを考える良いヒントになるのではないでしょうか。

ぜひ、20世紀を代表する知の巨人であるラカンの思想にチャレンジしてみてください!