脳が揺れる小説、哀を孕んだ官能
脳が揺れる小説というのは、冒頭の一文で決まるのではないか。そう再確認したのが他でもない本書だ。これから始まる男子高校生と主婦との不穏な関係のはじまりを知らせる衝撃。哀を孕んだ官能。
ありふれた日常の中にある切なさ、虚しさといった感情に深く深く潜り、生々しく、強烈にえぐり出している。そこにあるのは圧倒的にリアルな絶望だ。
5つの物語は性が基盤となっているが、最後のテーマは出産。性から生へとバトンが渡される。セックスと出産は切っても切り離せないものなのに、両者の響きはどこか違うものを含んでいる。そこに触れてしまう皮肉が何とも女性らしくて堪らない。
人は皆どうしようもなく生きているということを真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに見つめた1冊。ふがいなさも、やっかいなことも、丸ごと肯定して生きていくしかないのだ。読了後の痛みが心地良いのは、そういった自分の抱きしめ方を教えてくれるからだろう。
幸せな家庭はみな似ているけど、不幸な家庭はそれぞれ違う
歳を重ねたという明瞭な境目など存在しないが、幸せを測る指標に悩み立ち止まってしまうことは、大人になれば誰もが経験することだ。
作中の女性たちは仕事や結婚、セックス、出産など、どれも普遍的で切実な現実に追い込まれている。惰性で続く日常。剥き出しになった欲望のはけ口を探す。欲しがることでしがみつき、「まだ求められる自分」を手に入れたかった。自分以外の誰かではなく、自分の中にある何かに対する恐怖がてらてらと浮かび上がる。アラフィフ女性心理の的確さが恐ろしいほどだ。「幸せな家庭はみな似ているけど、不幸な家庭はそれぞれ違うっていうよね」というトルストイの引用が響く。
此処ではないどこかへ
東京に惹かれ上京したり、数年後結局故郷に戻ったり。地方都市で過ごす8人の女の子に共通しているのは、日常に退屈し、閉塞感を抱えていること。此処ではないどこかへという、漠然とした哀愁。地方都市の湿っぽさに嫌気が差し、東京という理想の境地に夢を見る。此処は自分の居場所ではないという焦燥感。「自分探し」なんて都合の良い言葉があるけれど、結局は故郷で浮いてしまった人間なのかもしれない。学生時代が充実し、地元で就職して友達もたくさんいるという若者には、残念ながら本書はいまいちピンと来ないのではないだろうか。
「十六歳はセックスの齢」は特に秀悦だ。回収しきれない自意識、まだ恋心も母性も持て余してしまう危うさがひりひりと描かれている。そこには私がいた。地方出身者の私にとって、胸を締め付けられる1冊だった。