ある一定数の人たちにとって、青春というものはその言葉自体が既にトラウマなのではないだろうか。学生時代に報われなかった思い出ばかりを抱えた青春ゾンビたち……わたしもその一人である。そしてそれはクラス内でこそ少数だが、視野を広げてみれば決してマイノリティとは言えないはずだ。だからこそ甘酸っぱい青春漫画と同じくらい、ヒリヒリするほど痛い青春漫画が今も尚描かれ続けているのではないだろうか。今回紹介する『さくらの唄』はそんな痛い青春漫画の金字塔である。
主人公の市ノ瀬利彦は画塾に通いながら美大を目指す高校3年生。絵は得意だが取り立てて目立つことはなく、しかし「みんながオレのこと変な目で見てる」と自意識過剰症状を偶に発症する、どこにでもいるような無気力モラトリアム学生だ。両親の海外赴任のため、離婚し出戻りした元ヤンキーの姉と二人暮らしをしているが、そこに不動産経営をしている金原夫妻が住み着いてきたことで家庭は徐々に崩壊していく。そんな暗澹たる青春を送る彼にとって唯一ともいえる救いは、学校のマドンナ的存在の仲村真理であった。彼女をヒロインにした映画を文化祭で上映することになり、市ノ瀬は思春期特有の葛藤と不純な衝動を抱えながらその制作に励む。
何かしたいけど勇気がない、何かになりたいけど自分になりたい、大人は汚いけどいつかそんな大人になってしまう不安、でも絶対に自分だけは違うんだという根拠のない自信、盛りのついた学生故の非生産的な衝動、それに伴う虚しさ。そんなルサンチマンとエネルギーに満ち溢れた上巻だけでも読みながら胸が張り裂けそうだ。
しかし、この作品は本領を発揮するのは下巻からだ。
市ノ瀬の家に転がり込んできた叔父の金原は非人道的なやり方で地上げを行い、他人を不幸のどん底に貶めながらやがて街を牛耳るようになる。そして市ノ瀬に美大を諦めさせ自分の会社を継がせようと、大金に物を言わせてあの手この手で彼の心を取り込もうとする。このやり口が、思わず目を背けたくなるほど酷いのだ。市ノ瀬がかつて想いを寄せていた女教師(彼女は妊娠により教職から退いている。そのことは市ノ瀬少年の純な心を傷つけた)の旦那に背負わせた負債をダシに、彼女を市ノ瀬の玩具に仕立て上げる。かつて好きだった女性を好きなようにしていいと言われたら彼も抗うことなど出来ず、罪悪感を覚えながらも欲に溺れていく。一度入った沼からはなかなか抜け出せない。そうして性的暴力、近親相姦、自殺、殺人計画といった“金、力、女”にまつわるありとあらゆる不幸とタブーが彼を蝕んでいく……。
壮大なカタストロフを描き切った本作だが、奇妙なことに何処かにいつも救いを感じる。それは、「生きていくしかない」という希望にも絶望にも似た救いだ。どんなに現実が酷かろうと、どんなに毎日が鬱屈していようと、生きていく以外に術はない。泥濘のような青春を過ごす市ノ瀬少年がそれを読み手に命がけで訴えかけてくるようだ。
作中から幾つかわたしの好きなセリフを抜粋する。
「ガサツな奴になりたいな」
「夢を希望をってどいつもこいつもお気楽に歌ってくれるな」
「詩はすばらしいが物事を深く考える人間をつくるのは善し悪しだ」
「ぼくは楽しかった 友達となにかを創るって文化祭の時と同じ高揚感があった ただそれが爆弾だったってだけさ」
このセリフに少しでも何か感じるものがあれば、この青春地獄絵巻を一度読んでみてほしい。
青春は汚い。確かに存在するその事実を真っ向から肯定した作品に心を救われる十代を過ごしてきた。誰かに心を喰われ、暗鬱とした衝動を抱え、それでも刻一刻と大人になる。もし青春に美しさがあるのなら、それは喪失の美しさなのかもしれない。それを物語るような、装丁の桜に絡みつく蛞蝓と蛇の絵が秀逸だ。