細川忠興は、信長から秀吉、そして家康に仕え、細川家を繁栄させた人物です。家を存続させるための努力は、尋常ではないものがありました。この記事では、そんな彼の生涯や、意外な逸話、さらに文化人としても活躍していた彼に関するおすすめの本をご紹介していきます。
細川忠興(ほそかわただおき)は1563年、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えていた細川藤孝(ふじたか)の長男として生まれました。
1565年、「永禄の変」が起き、義輝が殺害されてしまいます。その後父の藤孝は明智光秀らとともに、義輝の弟の義昭を次の将軍に擁立しましたが、織田信長と義昭が対立しはじめ、それ以降は信長側につくことになりました。
まだ幼い忠興は、信長の息子・信忠に仕えることになります。
1577年に初陣、翌年に元服、1579年には信長の仲介で、明智光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚しました。
1582年、「本能寺の変」が起こります。光秀は義息子である忠興を何度も味方に誘いましたが、忠興は拒否。さらにガラシャを丹後へ幽閉してしまいます。
この迅速な対応で、本能寺の変の後も光秀との関係を疑われることがなく、勢力を伸ばしている豊臣秀吉と通じることができました。丹後一国を秀吉から貰い、その後は彼のもとで戦功をあげ、羽柴姓も与えられて七将のひとりとなりました。
1598年に秀吉が亡くなると、石田三成らと対立し、当時大老のトップだった徳川家康に接近。この年に豊後国6万石を加増され、丹後と合わせて18万石の大名となっています。
この年に豊後国6万石を加増され、丹後と合わせて18万石の大名となっています。1600年に起きた「関ヶ原の戦い」では東軍に与することをいち早く表明し、他の大名たちにも影響を与えました。ちなみに大阪城内にいた妻のガラシャは、西軍の襲撃を受けたときに自害しています。
関ヶ原の戦いの戦功で、忠興は丹後から豊前国中津33万9000石に加増、国替えとなります。豊後と合わせて39万9,000石の大名となりました。その後小倉城の大規模改修をおこない、完成後は小倉藩初代藩主として小倉城に藩庁を移しています。
1615年、「大阪夏の陣」に参戦したものの、1620年には病のため三男の忠利(ただとし)に家督を譲りました。忠興は隠居、出家し、三斎宗立と名乗っています。
1632年に肥後熊本54万石に加増・移封され、忠興は9万5000石を貰い隠居領としました。1646年に82歳で死亡。武士としても、政治家としても、文化人としても優れた人物でした。気が短く、冷徹であったとも言われています。
ちなみに若いころ千利休に師事していて、茶の湯についても造詣の深い人物。利休七哲のひとりに数えられています。
細川家の家紋は「九曜」という大きな円の周りを8つの円が囲んでいるもの。これはもともと信長が使用していたのですが、幼いころの忠興は刀の柄についていたその模様を気に入っていたらしく、ガラシャと結婚した際に使用を許可されました。
そもそもこの結婚は信長の仲介によって実現したものですし、もっとさかのぼれば「忠興」という名前は元服の際に信長の息子の信忠から受けたもの。彼が大変気に入られていた様子がわかります。
細川忠興は文化人でもあり武将としても非常に優秀でしたが、一方で非常に短気な一面があり部下の僅かなミスも許さず手討ちにすることも少なくありませんでした。その気性は晩年まで続いていたといわれています。
忠興は「和泉守兼定」という室町時代から伝わる刀を愛刀としていて、晩年になって隠居した後に2代目・忠利の家臣のおこないが悪いとして自分の館に呼び出し、次々に首を跳ねたといいます。
自分が斬った家臣の数を数えると36人であったことから、和歌で有名な「三十六歌仙」になぞらえて、自分の刀を「歌仙兼定」と名付けたといわれています。
1:鼻の傷は妹につけられたもの
本家の細川家は室町時代からずっと続く管領の家系でしたが、忠興の細川家も分家ながら各大名と友好関係を築いていました。
ところが本能寺の変が起こると、光秀は細川家との姻戚関係を引き合いにして、細川家に対して味方をするよう迫ります。細川家は秀吉に付きますが、忠興の義弟である旧家の一色義定は光秀に付こうとしました。すると忠興は、親族に裏切者が出ると細川家が危険なので、義定を暗殺してしまったのです。
しかし義定の妻は、忠興の妹。兄のおこないを恨んだ彼女は忠興を呼び出すと、自ら短刀を持って斬りかかります。間一髪でかわすことができましたが、彼はこの時、顔に横一文字の傷を負ってしまいました。それ以来、隠すことができないこの傷について触れることはタブーとなりました。
2:秀次切腹事件と細川家改易の危機とは
時の関白・豊臣秀次が、秀吉のあとを継ぐことができなくなって切腹した出来事は、思わぬ形で細川家にも危機を及ぼしました。 忠興はかねてから秀次に黄金100枚を借り入れていたことから、秀次と結託していたのではないかと疑われてしまうのです。
仲の良かった前田玄以から危機を伝えられると、忠興は潔白を訴えますが、秀吉はそれを証明するために「黄金100枚を秀吉に支払うこと」と、「秀次に連座した前野景定(長康の息子)に嫁いでいた娘を捕らえること」を命じてきす。
黄金100枚というのはすさまじい大金で、忠興には即金がありません。そこで金を貸してくれたのが家康です。娘の方も家臣の尽力で、無事生きながらえることができました 。
一説には、この時自分を陥れようとした石田三成と決定的に仲が悪くなり、以降殺したいほど憎むようになったといわれていますが、それが真実であるという確証はありません。
3:藤堂高虎との親交と生き残り戦略について
細川忠興と藤堂高虎は、信長・秀吉の小飼いという立場ながら、早くから家康についたという似た境遇をもち、非常に仲が良かったとされています。さらに高虎は、外様でありながら家康から重要視され、外様大名の取次役として朝廷にも顔が利く立場になっていました。
忠興はしばしば高虎に手紙を出して互いの親睦を確認しています。息子にも「何かあったら藤堂を頼りなさい」と伝えており、息子同士も非常に親密な仲でした。
九州の外様大名は往々にして幕府に疑われることが多く、何かと苦労が絶えなかったはずですが、忠興は高虎と交流を続けることで中央とのパイプを絶えずつないでおき、いざとなったら立場を翻していました。
彼の処世術は、決して優位ではない立場で生き抜いていくための術として、細川家に代々受け継がれていき、幕末も大きな被害を受けることなく明治を迎えるのです。
4:家を守るためなら息子でも切り捨てた
忠興は家を守る大名としてシビアな面を持っており、息子が間違いを犯したら容赦なく切り捨てました。長男・忠隆(ただたか)は前田利家の娘・千世と結婚していました。2人は仲睦まじい夫婦だったようですが、関ヶ原の頃になると家康は、利家亡き後の前田家の勢いを削ぎたいと考えていたようです。
忠興は前田家と姻戚関係である細川家を家康が危険視すると考え、忠隆に離縁を命じ、廃嫡しました。
次男・興秋(おきあき)は、一時分家の養子となっていたことと、三男の忠利が幕府から評判が良かったことから後継者としては見られずに家出をしてしまい、大坂の陣では豊臣家に付いてしまいます。忠興は戦後、容赦なく興秋に切腹を命じました。
このように彼は、自ら残酷な役目を買って家の安泰を導いたのです。
5:宮本武蔵と佐々木小次郎が狙った主君は忠興のことだった
巌流島の決闘で、武蔵と小次郎が誰の地位を巡って戦ったのかというと、実は忠興なのです。彼は小倉藩主時代に、剣術家として非常に高名だった小次郎を術指南役として召し抱えていましたが、武蔵はこの剣術指南役という地位を小次郎から奪いたくて決闘を挑んだのです。
佐々木家は、代々続く小倉の豪族という家系でしたが、秀吉時代にほぼ滅ぼされてしまいます。小次郎はその生き残りという説があるので、当初はよそ者でしかなかった忠興は、もしかしたら小倉藩の統治に彼ら地元勢力を利用したのかもしれません。
しかし、一方で忠興はキリシタン弾圧などと並行して旧勢力が大きくなりすぎることを恐れ、意図的に小次郎たちを排除したという説もあります。決闘の際、敗北した小次郎はまだ息があったにも関わらず武蔵の弟子に袋叩きにされて死んだという説もあり、その決闘の場所に余人を立ち入らせたのが忠興だというのです。
上記の話の真偽はさておき、武蔵や小次郎がいかなる人物であったのか、決闘に地位争奪以外の意味があったのか、彼はそれをすべて知っていることになりますね。
忠興を形作っていったものは、やはり父と妻であることには間違いありません。本書でも父、幽斎に関する話が多く登場します。忠興が文化面にも優れているのは、この父に育てられたからなのだと納得できることでしょう。また妻を愛す忠興の姿と、夫婦仲の良さが描かれています。しかしそれゆえに苦悩することも多くなり、心が痛みます。
- 著者
- 浜野 卓也
- 出版日
忠興は織田信長から豊臣秀吉、徳川家康とその時々に天下をとっていた人物に支え、うまく戦国の世を生き抜いて行きました。そんな忠興のもう一つの顔が茶人です。利休七哲の一人にも数えられるほどでした。そんな茶人としての忠興が生き生きと描かれ、知らなかった忠興の側面を見ることができます。
- 著者
- 矢部誠一郎
- 出版日
- 2014-12-25
うまく強いものについて細川家を存続させてきた忠興。熊本54万石の大名となりましたが、江戸と熊本は距離がありました。その距離を埋めるために活躍したのが、忠利の存存在です。細川家を守るため、父子で手紙を交わし政治を行っていく姿はさすがとしか言いようがありません。
- 著者
- 山本 博文
- 出版日
本書には3人それぞれの性格にまつわるエピソードが多数書かれており、楽しく読むことができます。特に細川家の特徴としては手紙をよく書いていたことです。忠興は忠利へ2000通ほどの手紙を送り、忠利もいろいろな人へ手紙を書いており、4000通以上も現在まで残されています。
- 著者
- 春名 徹
- 出版日
- 2010-10-30
細川忠興は妻であるたま(ガラシャ)をとても愛していたと言われています。本書でもその愛情ぶりは目に余るほど。しかし、たまの父、明智光秀の謀反によりたまを幽閉したり、たまは勝手にキリスト教の洗礼を受けたりと、2人がすれ違っていく姿には胸が痛くなります。
- 著者
- 藤見 よいこ
- 出版日
- 2014-01-30
細川忠興について知ることができたでしょうか。戦にも強く、文化人であり、政治力も優れていたにも関わらず、後世にその名があまり伝わっていないというのも不思議ですね。なかなか物語の主人公となる人物ではなかったのでしょう。ぜひこの機会に忠興にまつわる本を読んでみてくださいね。