大友宗麟に関するおすすめ本5選!キリシタン大名の生涯

更新:2021.12.18

大友宗麟はキリシタン大名として有名です。現在の大分県にキリスト王国を築こうとし、南蛮との貿易も盛んに行いました。今回はそんな宗麟に関する本をご紹介します。どのような生涯を送り、なぜキリスト教の洗礼を受けることになったのでしょうか。

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キリシタン大名、大友宗麟とは

大友宗麟は、1530年豊後にて大友氏当主・大友義鑑の嫡男として生まれました。1550年、義鑑は溺愛していた三男の塩市丸に家督を譲ろうと考え、宗麟側の家臣を殺害していきます。そこで宗麟派の重臣は謀反を起こし、居館2階にいた塩市丸とその母親を殺害しました。その時義鑑も負傷し、2日後に死去。これを二階崩れの変と呼んでいます。これにより宗麟は家督を継ぎ、大友氏21代当主となりました。

1551年に周防国の大内氏当主が自害したことを受け、大内氏との対立も解消、博多を得ることができました。その後は、筑前、筑後、豊前、豊後と領土を広げていきます。1554年には菊池氏も滅亡させて肥後も確保。九州一の勢力を誇りました。

この頃宗麟はフランシスコ・ザビエルと出会ったことでキリスト教に興味を示し、領内でのキリスト教の布教を許可します。それにより謀反なども起こることとなってしまいました。1554年頃から宗麟は室町幕府との関係を強化しており、多くの献金を行って1559年に豊前・筑前国守護に任ぜられ、さらに九州探題にも補任されています。ここが大友氏の全盛期となりました。

1562年、中国から勢いを伸ばしていた毛利元就に門司城の戦いで敗戦。この年に出家し、休庵宗麟と名乗りました。毛利家とは一旦和睦したものの、再び毛利が北九州を攻めてきたため和睦は解消されます。豊前や筑前でも毛利家と内通するものが現れましたが、立花道雪らにより平定させました。

1576年、家督を長男の義統に譲り、二元政治を始めました。1577年からは薩摩国の島津義久が北上してきたため、宗麟も出陣。しかし1578年耳川の戦いで大敗してしまいました。翌年には筑後の勢力が離反、宗麟と義統との対立も起こり、大友家は衰退していくことになります。

宗麟は耳川の戦い直前に洗礼を受け、洗礼名「ドン・フランシスコ」として正式にキリスト教徒となりました。


その後、謀反や島津の侵略で大友氏は滅亡寸前となります。1587年軍事的支援を懇願していた豊臣秀吉軍が九州に到着し、島津軍を追い払っていきました。しかし今にも島津義久降伏というときに、宗麟は病死してしまいます。58歳のことでした。

九州平定を成し遂げた秀吉は、その後義統に豊後一国を与えています。

宗麟は文化人として書画、茶道など多くの活動をし、また南蛮貿易、日朝貿易を行うなど経済力や外交にも優れた人物でした。

大友宗麟にまつわる意外と知らない事実5つ!

1:出家する前の名前は「義鎮(よししげ)」

彼の本名は大友義鎮(おおともよししげ)といい、宗麟は出家したときの法号と言われています。

2:放蕩息子だった

宗麟は相当な放蕩息子だったと言われています。父の死後、父の弟にあたる義武の妻を自分の側室にし、非難されています。また父の名声を欲しいままに行使し、金で女を集め放蕩に明け暮れていたそうです。後にも彼は家臣に冤罪を被せ、その家臣の妻を無理やり側室にしています。 

3:日本に西洋医学を取り入れた

宗麟が若い頃、弟が鉄砲の暴発により怪我をしてしまい、その際、西洋医学による処置を見ていました。そして、1557年に日本で初めての西洋医学による手術を医師3名に行わせています。 さらに領内に診療所を設け、無償で身分・貧富の差関係なく診療を受けさせていたそうです。

4:死因は?

宗麟は後に豊臣秀吉の傘下に入り、島津氏との戦いの最中に58歳で病没します。その死因は皮肉にも彼が力を入れていた海外貿易が原因でした。船に乗り込んでいた鼠から「チフス菌」に感染し、身体を蝕まれることになります。後世に残る彼の功績が、結果的に彼を死に追いやったのです。

5:宗麟の刀「骨喰藤四郎」とは

彼の刀は薙刀を改造した特注品で、凄まじい切れ味だったと言われています。その名も「骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)」。性格の面で乱暴なことで知られる宗麟にぴったりの刀と言えるでしょう。

大友宗麟とキリスト教にまつわる逸話

1:信仰のための破壊

そもそも彼がキリシタンになった理由はこれまでの仏教を見限ったためです。しかし、そのことが後に反乱を多発させることになりました。

宗麟はキリスト教を信仰するあまり神社仏閣を破壊したこともあり、そのあまりの徹底ぶりは、自分の家に伝わるだダルマまで壊すほどでした。

2:キリスト教への信心が衰退の原因となった ?

宗麟は48歳で洗礼を受けますが、この頃から不可逆的な衰退の一途を辿っています。戦場では後方で礼拝ばかりするようになってしまい、家臣たちの不信感を募らせました。

その結果、キリスト教反対を訴える自国領民の反乱が起こってしまうのです。

まずはこの本で大友宗麟を知ろう

まずはこの『大友宗麟』を読むことをおすすめします。

人物叢書シリーズの1冊で、宗麟の人生が分かりやすくまとめられているからです。キリシタンとして有名で、北九州を治めていた大友宗麟の実像が浮かび上がります。

著者
外山 幹夫
出版日

宗麟は北部九州に領国を6ヵ国も所有していました。その領国の統治体制はどのようになっていたのでしょうか。

またキリスト教保護についての話や対外貿易に関してなど、なかなか詳しく知ることができない情報を本書から学ぶことができます。文章は読みやすく、歴史に関して初心者の人でも入りやすい本です。

遠藤周作のキリスト教文学、神へ安らぎを求めた大友宗麟の人生

遠藤周作が描く大友宗麟の人生は、キリスト教中心のものです。『王の挽歌』の宗麟は、常に苦悩し、神にすがるしかなかった弱い武将。名門に生まれ、「王」となることが定められていた宗麟ですが、家族との折り合いが悪く愛情の薄い人生でした。

そして神に頼りたくも、持っている地位や名声をなかなか手放せない宗麟。常に心の平穏を求めて祈り続ける、英雄ではない宗麟の姿が浮き彫りになります。

著者
遠藤 周作
出版日

宗麟はキリシタン大名として有名ですが、なぜキリスト教に心惹かれることになったのかということまでは、あまり知られていないのではないでしょうか。そこに焦点を当てているのがこの作品だと言えます。

人間の心の弱い部分に注目しているので、読んでいて苦しくなることもあります。しかしそれが宗麟の苦悩なのです。暗闇の中にある光としてキリスト教が描かれています。

本書では宗麟は、憂鬱で優柔不断で全く魅力のない人物に見えます。

「主よ、私はもう疲れました」(『王の挽歌』より引用)

このようにいつも祈っていた宗麟。優秀な家臣を持ち、次々と領土を広げていった武士としての側面ではない宗麟の生涯について思いめぐらすことができる本です。

遺跡物からみる豊後府内の発展

大友宗麟が生きた時代を、発掘から明らかにしていこうとする『大友宗麟の戦国都市・豊後府内』。このシリーズは「発掘には感動がある」として、発掘の様子やそこから導き出される当時の姿をまとめていくものです。

豊後府内は、宗麟が九州に築こうとした地域王国で、キリスト教と南蛮貿易を基礎としたものでした。ポルトガルからはBUNGOという一つの国だと見なされていた豊後について詳しく知ることができる1冊です。

著者
["玉永 光洋", "坂本 嘉弘"]
出版日

本書からは、当時の町並みの様子、南蛮貿易、キリスト教の布教について明らかになります。陶磁器やキリシタン墓地など、人々の暮らしが分かるような遺物を発掘しながら、豊後について述べられていく様子にワクワクしてしまいます。

日本地図や豊後府内の地図もあり、当時の様子が目に見えてきます。宗麟が作り上げようとしたBUNGOを、豊富な写真から読み取ることができることでしょう。

大友宗麟はなぜキリシタン大名となったか

九州の覇者であり、キリスト教を信仰していた大友宗麟の波乱の生涯を描く『王国燃ゆ』。宗麟は父に愛されず、結果的に殺してしまうことになる二階崩れの変で、心に傷を負います。この傷が宗麟の性格や行動を変え、キリスト教と西洋文化に傾倒し生きていく姿が書かれています。

著者
赤瀬川 隼
出版日

本書はキリスト教が、この時代どのような役割を果たしていたのかを知ることができます。宗麟が大きな影響を受けることになるザビエルについてや、宣教師がどういったことを行っていたのかということはなかなか普通の歴史小説には出てこないことです。宗麟の心情も詳しく記されているので、なぜキリシタンとして生きることを選んだのかも読み取れることでしょう。

問題の多かった女性問題についても描かれ、宗麟の屈折した愛情を感じ取れます。それも自身が両親から愛情を受けることがなかったことに起因しているのでしょう。守護大名の嫡男として生まれながら、それに苦悩し心の拠り所を探すことになった宗麟の人生に触れてください。

平和なキリシタンの国を望んだ大友宗麟

『幻のジパング』では、戦国という世にありながら、戦争のない平和な国を豊後に作ろうとした大友宗麟の生涯が描かれます。理想の国作りのために、キリスト教を広め、領民にも改宗を勧めていくのです。しかし、南から攻め上がってくる島津は、それを許しませんでした。宗麟は平和で静かな「ジパング」を作ることができるのでしょうか。

著者
桜田 啓
出版日

48歳でキリスト教の洗礼を受けた大友宗麟。着々と領土を広げて九州を制圧しましたが、本当に望んでいたものは、心の平穏だったのです。宣教師を保護したり、教会を作ったりする宗麟の姿に、静かに生きたいという気持ちを見ることができます。

しかし宗麟の生涯は、平穏からはほど遠いものでした。キリシタンとなった後は、それまでの勝ち続けていた戦とは違う、島津との戦いが始まります。キリスト教布教の様子に加え、九州の情勢を壮大に描く歴史小説です。読みごたえたっぷりで、他には例を見ないキリシタン大名の姿に驚くことでしょう。

大友宗麟は悩んで悩んでキリスト教に救いを求めた人物だったようですね。大友氏を九州一の王国へと導きながら、結局は衰退させてしまった波乱の人生についてぜひ知ってみてください。

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