東横線を味わい尽くす 端正な住宅街と美食を思う本

更新:2021.12.6

東急東横線は、東京(渋谷)から西部のベッドタウンを通り、多摩川を越えて今度は川崎市のベッドタウンを覗き、横浜に辿り着く……繁華街と繁華街の間に身を寄せ合う人々の、生活圏を縫う路線である。それも「端正な」生活圏だ。 手が出ないほどではないけど家賃が高めで、新興住宅地ではないから背の高すぎる建物がなくて、治安も良い。さらに、グルメ圏でもある。特に渋谷に近い駅の周辺には、おいしくて雰囲気に凝ったお店が集まっている。

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原稿用紙の上のトカゲと日なたぼっこ

前回、山手線関連本を出さなかったから、今度は素直に東横線を舞台にした小説も選ぼう、と決めたのがこの作品『アルタッドに捧ぐ』。だったのだが、読み返してみると、登場するのは「天承寺」とか「中馬町」とか、架空の地名ばかり。これをどうして東横線だと変換してしまったのか、恐らくこの小説に描かれる日なたの光景が、とても東横線っぽい気がしたのだろう。

主人公・本間は、大学院の入試に落ちたことをきっかけに小説を書き始める。砂漠で暮らす「エニマリオ族」の少年の物語だ。本間は夢中で書き進めたが、ある日突然、その少年が自殺してしまう。作中で。作者の意図に反して。

“原稿用紙の上には、列車によって切断されたと思われる少年の左腕が、無造作に投げ出されていた。切断面からは黒インクが血液の如く流れ続けており、もはや執筆など続けられる状態ではなかった。”(p. 3)

否応なく、書きかけの物語は唐突に終わった。しかし、結びを断たれた原稿用紙の中から一匹のトカゲが這い出てくる。少年が大事にしていたトカゲ、名前はアルタッド。勝手に自殺した主人公と、こちら側の世界で確実に成長していくアルタッドのはざまで、本間は、書くこと、ひいては生きていくことへの苛立ちと執着を募らせていく。そのあけすけさは、この小説の作者の叫びにも重なるのだろうか。

書くとは何か。そんな混沌とした問いに向き合う舞台が、(たとえば)東横線の(たとえば)祐天寺駅あたりの住宅街の古びた一軒家の二階だったら。やっぱりなんとなく似合う気がする。 

 

著者
金子薫
出版日
2014-11-20

おいしい本をつまみ食い

ところで私は小さい頃、パフェの白玉が大好きで、家族で外食に行き、バニラアイスのまとわりついた白玉を口に入れるやずっと口の中で転がしていた。飴じゃないからいつまでも溶けずに、喋りづらくて、たいてい車に乗って帰る頃に諦めて噛んだ。

食べ物には全部、悔しさがつきまとう。口に留まるのはほんの短い間だけ。味覚の感動は飾っておけない 。おいしいものを食べることは、おいしいものを失うことだ。

ただ、大人になって知ったのは、胃に焼き付けられない代わりにその感動を言葉で書き付ける技がある、ということである。もちろん書くということは、アルタッドが教えてくれたようにそれはそれで難儀だが、この本はそれを素晴らしくやってのける。

『私的読食録』は堀江敏幸さんと角田光代さんによる『dancyu』の連載をまとめた、「食べ物を書いた本についてさらに書いた」ショートエッセイ集である。堀江さんと角田さん自身の記憶もかぶさって、いろんな味が二重に見える。

“(前略)食べたことはない。でも記憶している。読みながら食べたからだ。”(p. 29)

特に震えたのは、『長くつ下のピッピ』の回(p. 68)と『それからはスープのことばかり考えて暮らした』の回(p. 86)。ひと匙のスープを日常的に愛おしく思うことは難しいけれども、この本を読んだ日は、ひと匙のスープを、炊飯器のへりでつぶれた米粒を、そのためだけに顎を動かして歯を合わせて、食べてみようという気になるのだ。

 

著者
["角田光代", "堀江敏幸"]
出版日
2015-10-29

森を出るひとと保つひと

おいしいランチを求めて東横沿線のお店に入ると、育児から教育のフェーズに悩みが移行した女性たちの集団の隣に案内されることがしばしばある(東横沿線の、特に自由が丘には学習塾が異様に多いらしい)。彼女たちの話し声はよく通るので、私はそれを興味深く拝聴したりする。

この小説『英子の森』の世界では、「森」の中に家を建てることがひとつのステータスであるらしい。自分だけの家は、すなわち自分だけの森でもある。そこは、樹木が茂り、鳥がさえずる、完成された閉ざされた世界だ。

母と二人暮らしの英子は、毎朝自分の「森」を出て有楽町や東京駅に出勤する。森の家は母が守ってくれるお蔭でとても丁寧に整頓され、美しい花で飾られている。しかし、英子は不満だった。ブラックな英語教室の仕事や、定型の英会話しか必要とされない派遣の仕事。大学で英語を専攻した英子は、当然、通訳だとか翻訳だとか、語学を武器にした人生を歩めるはずだった。自分が選び、母が導いてくれた道への不安と、そんな娘の変化に気づきたくない母の期待。

“いつか。いつか。いつかたどり着けるんだろうか。(中略)黒いパンプスとストッキングをはいた英子の足の隙間をまるでパテのように泥がきれいに埋めてしまった。”(p. 27 )

“どうしてこの子は突然そんなことを言い出すのか。なぜこれまでのわたしたちを否定しようとするのか。こんなにしてやっているのに、それを理解してくれないのか。”(p. 31)

現代人は、森で雨を浴びて育つだけで満足できる花ではないから、自分のためにあつらえられた場所から毎日出てかなければならないし、外の世界に接すると、心地良かった森が本当に心地良い場所なのか分からなくもなってくる。それでも、我が居場所を必死に特別だと思おうとすることの痛み。

たとえば東横線には、端正で閑静な住宅街から通勤電車に乗って悩みを買いに行く人と、その端正さと閑静さをじっと守り育てる人が、同じ屋根の下で暮らさなければならないゆえのドラマが、落ちているような気もする。

 

著者
松田 青子
出版日
2014-02-10

そういうわけで、近々東横線沿線に移り住むことになった。私もトカゲを膝に置いて、森の中で、おいしいものを食べたり読んだりしたいなと思っている。

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