大人だからこそ魅了される珠玉の擬人化ストーリー

更新:2021.12.2

小さい頃に読んでいた絵本を覚えているだろうか。そこには、さまざまな生き物がお互いに言葉を話したり、人間のような生活をする世界が広がっていた。たとえば、いろんな動物がわいわい騒ぎながら一つの手袋のなかに次つぎに潜り込んだり、子ギツネが手袋を買いに行ったり、子グマがお母さんに誕生日会を開いてもらったり、仲良しのカエルが2匹出てきたり、魅力的で今でも鮮明に蘇るような描写がたくさんあった。

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小さい頃に読んでいた絵本を覚えているだろうか。そこには、さまざまな生き物がお互いに言葉を話したり、人間のような生活をする世界が広がっていた。たとえば、いろんな動物がわいわい騒ぎながら一つの手袋のなかに次つぎに潜り込んだり、子ギツネが手袋を買いに行ったり、子グマがお母さんに誕生日会を開いてもらったり、仲良しのカエルが2匹出てきたり、魅力的で今でも鮮明に蘇るような描写がたくさんあった。

この擬人化の世界に浸る機会は、大人になると激減する。アメリカの大手制作会社がつくった動物アニメのヒット作品を観に行くのが関の山といったところだろう。そしてその程度の機会であったとしてもなんの不便もないし不満もない。擬人化の物語に触れなくても十分に充実した時間を送ることができるのが大人なのだ。

しかしそんな大人をも魅了する、いや大人だからこそ魅了され、ときに人生を問い返されてしまう擬人化の物語があることを、わたしは知っている。
 

擬人化の王道は猫である?

『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』には人間の子どもである「かのこちゃん」と、メス猫である「マドレーヌ夫人」が登場する。人間の言葉を理解する猫がいないわけではない。が、基本的にはかのこちゃんの生きる人間の世界とマドレーヌ夫人の生きる猫の世界は交錯しない。そのような設定のもと、かのこちゃんを中心とした人間の世界のストーリーとマドレーヌ夫人を中心にした猫社会のストーリーが交互に綴られながら、物語は進んでいく。

この話、かのこちゃんと友だちのすずちゃんのチャーミングな人間模様もかなり魅力的だ。だが擬人化に注目してみるならば、この交互の綴りが面白い。人間の目から見たら、ご飯の時間にふらりと帰ってくる猫であり、テレビの上や室外機の上でまどろむ猫であり、気がつくと空き地にたむろしている猫たちである。つまり住宅街に住むいたって普通の猫なのである。

ところがぐるりとアングルが変わると、猫たちが生き生きと語り始める。まるで井戸端会議をしている人間のように。そうでありながら、仕草や行動、習性はやはりわたしたちの知っている猫なのだ。そしてまた人間目線に戻ると、猫たちは物言わぬ獣となる。この繰り返しが、近くにありながらも混じり合わない2つの世界を描くのだが、ひょんなことからマドレーヌ夫人がその均衡を崩し、不思議な交錯を始めるのだ。

物語のキーとなるのは、マドレーヌ夫人の夫である玄三郎だ。玄三郎は老犬である。本来、犬の世界は人間以上に猫の世界と混じり合うことはなく、人間の言葉を解する猫がいようとも、犬の言葉は猫にとって皆目見当がつかない外国語のはずだった。にもかかわらず、マドレーヌ夫人と玄三郎は出会ったときから会話をすることができ、そして心を通わせ夫婦となった。だが優しい老犬・玄三郎は、日に日に老い弱っていく。マドレーヌ夫人は夫の姿を心を痛めながら見つめ、帰る場所の温もりを教えてくれた玄三郎に感謝の気持ちを伝えたいと願う。

そんな種を超えた絆が物語を動かしていく。物語の終盤には、決断をせまられ玄三郎と過ごした日々をふり返り自らの生き方を見つめなおすマドレーヌ夫人が描かれるが、そのとき読み手は思わずわが身をふり返り、近しい人たちとの関係に想いを馳せてしまう。

これは、幼い頃に読んだ亀とウサギがなんの違和感もなく一緒に会話する世界とは違う。人間は人間であり、猫は猫であり、犬は犬である。そんな一見普通の日常に不思議なたて糸を織り込んでいくことで軽やかに我々を揺さぶる、万城目の作品ならではの味わいがそこにはある。そして、読み終わったあとには、自分のパートナーに感謝の気持ちを伝えたくなること請け合いである。

 

著者
万城目 学
出版日
2013-01-25

美しい雪の結晶の一代記

猫を擬人化した物語は、かの有名な『吾輩は猫である』を含め、わたしの書棚を探すだけでもいくつかある。しかし、擬人化できるものは、身近な動物だけではない。『雪のひとひら』は、タイトルにもあるようにひとひらの雪の結晶が主人公の物語である。

これは、空から生まれ落ち、地面に舞い降り、積もり、融け、川を下り、海へとたどり着き、また空へ還るまでを雪のひとひらの一生に見立てた一代記。雲から雪が生まれ、山から大海へと流れ着くのにどれくらいかかるのだろう。人間の一生と比べれば、それはとても短いものだろう。それゆえに、雪のひとひらの身に起きる出来事の一つ一つと、その度に雪のひとひらのなかに浮かぶ「なんのために生まれたのか」という問いが重みをもって描写される。

特に、雨のひとしずくと出会い、結ばれ、そして試練を乗り越え、永遠の別れが訪れる、その一連の流れはシンプルであり、ゆえに限りある生が露わになり、激しく心を動かされる。短い時間のなかで一つ一つの出来事と想いが雪のひとひらの身に鮮烈に刻まれながら、雪のひとひら自身にも刻一刻と終わりのときが近づく。読み手は、まるで自らも雪のひとひらになって、その人生を駆け抜けるような、あるいは誰かの走馬燈を共に見ているような不思議な気分になる。

これが人間の一生だったらそうはいかない。人生こんなに単純なものじゃないということになる。わずか100ページ足らずの物語のあいだで、人間とは比べものにならない凝縮された短い生を全うするからこそ、雪のひとひらが生まれた意味を求め、愛を知り、そしてすべてを手放すその切なさや心細さが素直に読み手の心に流れ込んでくるのだろう。普段気に留めることもないささやかで儚い存在が主人公に据えられたことで、わたしたちはこの世にほんのひと時繋ぎ止められたいのちとしてのわが身をふり返ることになる。

この物語は、キリスト教的な世界観のうえに成り立っている。それゆえ、多くの日本人読者にとってはもしかするとなじみにくい表現や描写があるかもしれない。が、それを差し引いても尚、魅力あふれる美しい物語なので、一度手にとってみてほしい。

 

著者
ポール ギャリコ
出版日
2008-11-27

オオスズメバチに思わず共感

『風の中のマリア』の主人公は、なんとオオスズメバチである。オオスズメバチと言えば、人間をも殺す凄まじい殺傷能力を持った毒針の持ち主だ。畢竟、そのような昆虫に愛着を覚えるのは一部の専門家とマニアだけだろう。ところが、そんなオオスズメバチの生態を忠実に再現しながらもそこに人間らしい感情を乗せ、ある一匹のオオスズメバチの一生を臨場感たっぷりに描き切り、読み手を引き込んでいくことに成功したのがこの小説だ。読後、わたしはまんまとオオスズメバチが一気に身近な存在になったような錯覚におちいった。

舞台は人里近くの森に営巣するオオスズメバチの帝国である。主人公はワーカー(働き蜂)のマリアだ。約1か月の幼虫時代を経て10日あまり蛹のなかで眠り、成虫になると狩りや戦いのために危険な世界へと繰り出すオオスズメバチのワーカー。短く太く生きる勇ましいメス蜂たちの園で、マリアは一際勇敢なワーカーである。

ワーカーは、帝国のために身を粉にして働く。そのような生き方に疑問を抱く仲間や、他の昆虫との会話、また、季節外れのオスのオオスズメバチとの出会いを通して揺らぎながらも大切な妹たちや帝国を守り続けるマリア。そしてその帝国は、ついに変貌のときを迎える。女王蜂の世代交代だ。

メスに生まれながら子孫を残すことなくひたすら女王蜂の生み続ける妹たちを育て、巣を守るためにいのちをかける宿命にあるワーカー。ときには他の帝国の蜂を全滅させ、その帝国の未来を奪ってまで自らの帝国の未来を守る。遺伝子を守るためには、女王蜂すら殺す。新しく育つ女王蜂がより強い子孫を残すためには、交尾しようと飛んでくるオスの蜂とも死闘を繰り返す。そしてワーカーとの死闘の末に生き残ったオスは、ようやく実現した一度の交尾にすべてをかけていのちを終える。ワーカー、女王蜂、オス蜂。すべての蜂のいのちを賭した一連の営みは、次の世代へといのちを繋ぐためにこそあるのだった。

オオスズメバチは決して珍しい昆虫ではない。だが、そこで営まれる壮絶で異質な生と死のやり取りを、わたしは知らない。経験することもない。この本は、そんなすぐ隣にある異世界を垣間見させてくれた。子どもの頃読んだ本では、擬人化はファンタジックな世界を自由に広げる魔法であった。だが、ここではオオスズメバチの擬人化は、むしろ読み手である人間の方が蜂に近づいてその生き様を感じる魔法である。

そして、生き方も社会の在り方も感覚や思考の在り方もおそらくはまったく異なる蜂の物語に—それが百田の想像と創造の賜物であったとしても―限りなく感覚を寄せていったとき、異質な存在でありながらも、いやそれゆえに共感をおぼえる自分に気がつく。

マリアの根底に常に在り続ける、なんのために生き、なんのために帝国のために尽くすのか、という問い。その一方で、偉大なる母がつくり上げた帝国と切っても切れない絆で結ばれた自らの存在への本能的な肯定。その間で揺れながらも必死に生きるマリアの生涯が、わたしに強烈な印象を残すのだ。

 

著者
百田 尚樹
出版日
2011-07-15

今回とりあげた3冊の擬人化ストーリーは、あらためてふり返ると、全ていのちといのちを巡る愛の物語である。わたしたちは、異質な存在に人を重ねたとき、その異質性が浮き彫りになればなるほど、限りある存在である主人公たちに有限のいのちを授かった自分を投影するのではないか。そして、彼らの走馬燈のような人生を共有することで、自らの人生、そして身近な人や物との奇跡的な繋がりに感謝をせずにいられなくなるのではないか。そしてそのような想いが湧き起こるからこそ、大人を揺さぶる大人のための擬人化の物語は魅力的なのだ。と、少なくともわたしは思うのだ。

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