繰り返される暴力は、拳が繰り出しているものなのか、それとも――
ジェンダーという概念はそもそもどういったものなのか、というと、本当に辞書的な定義をするならば身体的・生理的な性差である「セックス」となります。対して、生得的なもののように見える性差が実は社会的・文化的につくられているものなのだ、というフェミニズム運動の主張から、社会的・文化的な意味での性である「ジェンダー」概念が生じたと言われています。この定義自体は、本などで読んだことのある方が多いと思われます。
この漫画は、親友の婚約者である早藤から性暴力を受け続けている高校教員・美鈴が主人公。彼女は自分が受けた「暴力」にとらわれ、自分を「汚れている」と感じながら、受け持ちの生徒・新妻と「許されない」恋に落ちます。親友である一方、どこかで美鈴を見下している美奈子、高校のアイドルでありながら処女を頑なに守る三郷佳奈、彼女のクラスメートであり美鈴の生徒の一人、いわゆる「ヤリチン」の和田島など、多彩な登場人物がそれぞれの思惑で行動するこの作品は、決してまとまりのある描き方をされていません。三郷の家族とのエピソードや、早藤と美奈子の結婚に向けての道のりなどは、一見すると不要なようにも感じられるかもしれません。しかし、この描き方こそが、女であること、男であることの暴力性と、その「逃げられなさ」を厚く、生々しく明らかにしているのではないでしょうか。「暴力」が身体的な差異のみにより生じているのではなく、「お嫁さん」になりたいという願望やグラビアアイドルの消費といった、社会的な通念によって形成されていることがまざまざと感じられるでしょう。
前回も少し言及しましたが、鳥飼茜氏の作品は現在連載中の『地獄のガールフレンド』や『おんなのいえ』も、どちらかといえば女性向けではありますがおすすめです。職場や家庭、学校で感じる女性特有のモヤモヤを屈託なく打ち明けられる「女子会」を垣間見ているかのような作品群で、登場人物たちと近い立場でない人も好奇心をそそられることでしょう。
女の欲望を「解放」しなくてはならない理由
セックスレスに悩むフツーのOL・藤崎マキが手伝うことになった家業は、実はアダルトグッズの問屋さんだった……という衝撃的な導入から始まる本作。もちろん、設定の奇抜さだけではなく、男と女のセクシュアリティについて考えさせてくれます。
「iroha」などに代表される女性向けアダルトグッズのヒット、「エロメン(女性向けアダルトビデオに出演する男優)」ブームが取り沙汰されても、やはり性的欲求、性的快楽は「男性のもの」とみなされることが多いように感じられます。セックスやマスターベーションなんて私的なこと、社会的なものにはなりえないはず……とお考えの人は、この漫画を読むと、決してそうではないことに気が付くでしょう。セクシュアリティというと、本来人間が持っている「自然な」欲望のように感じられるかもしれません。しかし、性的な欲望と快楽がつねに男と女の権力構造の上に成立し、ときに暴力や差別として表象する、そしてその表象が社会的な要因の上に成立しているということは、上で紹介した『先生の白い嘘』を見ても分かるとおりです。
マキはアダルトグッズの流通や商品開発に関与し、ときに偏見の目に悩みながらも、「その気にならせるのが女の仕事」「彼氏に女として見られてないのかも」といった、自分を取り巻く、女はこうであるべき・セックスはこうでないとならないという呪縛から、徐々に解放されていきます。もちろん単なる「お勉強」的な内容では全くありません。イケメンとの恋愛や三角関係アリで、ギャグも多く、比較的ライトに読める作品に仕上がっています。
セックスは、すごく私的でデリケートなことでありながら、「みんなが当たり前にしていること」でもあるがゆえに、マキのようにオープンになれないことが多く、何か悩みがあっても個人の中で処理してしまう人が多いのではないでしょうか。しかし、フェミニズム運動の重要なスローガンとして「個人的なことは政治的なこと(The Personal is Political)」というものがあります。性的な行為に限らず、おしゃべりやレジャーといったパートナーとの日々のやり取りにこそ、ジェンダーを考えるきっかけがたくさんあるはずです。
「男の子になりたいの?男の子の格好がしたいの?」という問い
前回の記事では「家族」をテーマに『弟の夫』(田亀源五郎)を取り上げましたが、性やパートナーシップも多様です。「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)という言葉は比較的一般的になったように思いますが、その中でも性に対する違和感には色々なものがあるでしょう。身体そのもの(セックス)を変更したいのか、社会的な性役割(ジェンダー)を変えたいのかという問題がありますし、服装やお化粧によって変わりたい人もいれば、公的な書類や手続きの上での性別を変えたい人もいるでしょう。
『放浪息子』は『こいいじ』や『青い花』などで知られる志村貴子氏による「男の子になりたい女の子、女の子になりたい男の子」が小学生から高校生になるまでを描いた漫画です。淡い色で塗られた美しいカラーイラスト、細い線、少なくも感性豊かな言葉で綴られる少年少女のやりとりとその成長は、吹けば飛ぶようにデリケートで、作者の登場人物に対する控えめな愛にあふれています。主人公の「女の子の格好させたらそこらへんの女子なんかよりべらぼうにかわいい」男の子・二鳥修一と、「男の子になりたい」ヒロイン・高槻よしのは、小学生から中学生へと成長し、声変わりや生理、胸のふくらみに悩みます。成長し、恋愛をする中で、自分が自分の性をどうしたいのか、どうありたいのか考え、与えられた中で密やかにそれを実現させていきます。
後述する『きのう何食べた?』をはじめ、『オクターヴ』(秋山はる)や『境界のないセカイ』(幾夜大黒堂)など、LGBTを描いた漫画は近年多く見られます。ボーイズラブやガールズラブ(ボーイズラブと比べると少数ですが)の流行も手伝ってのことでしょう。その中において『放浪息子』は、修一とよしのの状況に「性同一性障害」や「LGBT」といった言葉を与えなかった点が特徴的です。性への違和感、こうありたいと思う姿にはさまざまなグラデーションがあり、年齢や置かれた立場によって揺らぐこともあるでしょう。その揺らぎやグラデーションを、あえて言葉を与えないことで描く名作といえます。