戯画化されたエリートの世界
古屋兎丸『帝一の國』という漫画作品をご存知だろうか。同名の実写映画の公開を控え、都内では、輝く男子高校生たちが描かれた宣伝車が走っている。
- 著者
- 古屋 兎丸
- 出版日
- 2011-03-04
主人公帝一が、日本一の超名門海帝高校に入学し、生徒会長を目指す物語である。日本の未来のエリートが集うこの高校で生徒会長になることで、将来の内閣入りが確約される。総理大臣になり、自分の国を作るという夢を叶えるため、帝一は命をかけて権力闘争を戦うのだ。海帝高校は中高一貫の男子校。男たちは男の世界で戦う、耽美ともいえるこの漫画の世界観。作中は昭和。一応、海軍兵学校が前身の私立校という設定である。現実にはそのような学校は存在しない。激しい選挙戦、これも楽しいフィクションである。戯画化された世界。
この元になる「男子高校生」たちは、現代の彼らではない。
旧制中学、旧制高校に通った、男子生徒たちであろう。
(いや、男子、と付ける必要はないのだ。男子しか通わなかったのだから)
日本の中枢に立つことが約束された選ばれし者、それが旧制中学、そして旧制高校だった。戦前、中等教育機関として、旧制中学から旧制高校はエリートになるには必須であった。もちろん、男子のみだ。
当時の教育制度は、男女に別れていた。女子は旧制中学には上がれず、女学校に進学した。これは、現在にもある、単なる男女別学とは違うのだ。教育目的も、カリキュラムも違う。
同じ教育を受けている今の時代からすると中々想像もつかないが、深い分断があった。性別、そして階層。そんな時代の、エリート意識。男子生徒、いや、「学生」の意識。
例えば太宰治、三島由紀夫の作品など、名作と言われる作品を読むと、私はその若者男性の意識がうざったく、まあなんというかムカついたりするのだが、当時を知ればなんてことない。時代背景や、構造も含め、楽しむことができるのだ。
この楽しむ、という……私が読書において彼らに向ける視線は、作中、主人公が女性へ向ける視線と、酷似していると思う。
例えば、最近私が読んだ三島由紀夫『青の時代』は、実在の事件「光クラブ事件」をモデルに、エリート青年のマチズモさを、三島由紀夫らしく描いている。主人公は、当然のごとく女性蔑視である。蔑視している意識もないだろう。違う生き物なのだから。私は、女性蔑視をする彼を、時代を超えて、創作作品と読者という枠の中で、蔑視に近い感情を持って、「萌え」る。彼は違う生き物だ。哀れさだとも思う。マチズモゆえの、女性への屈折した感情を、私という女性から、蔑まれているのだ。とまあ、屈折した感情を屈折した感情で返しているというわけだ。
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
- 1971-07-27
若者の歴史に女性はいなかった。
エリートの歴史とはつまり、男性の歴史である。
「少女文化」は、戦前の女学校時代から、女性独自の文化として、探究が重ねられてきたが、若者文化、少年、青年文化はどうであろうか。当然、探求されてきた。しかし、「男性の」と付けられることは少なかった。
戦前のエリートたちの、「男性の歴史」を知るにあたっておすすめの書籍がこちらだ。
『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』
- 著者
- 竹内 洋
- 出版日