室町幕府を開き、初代征夷大将軍となった足利尊氏。彼は、逆賊とも英雄とも言われることがある不思議な人物です。実際はどんな性格をしていたのでしょうか。この記事では、経歴や肖像画に伝わる謎、逸話、後醍醐天皇とのエピソード、さらにはおすすめ本も紹介していきます。理解するのが難しい南北朝時代についてもよくわかりますよ。
1305年、足利貞氏の次男として京都で生まれた足利尊氏。1319年15歳で元服し、治部大輔に任ぜられています。1331年には父が亡くなり、兄も父より先に亡くなっていたため、家督を継ぎました。
同年、後醍醐天皇が倒幕のために「元弘の乱」を起こします。尊氏は幕府に命じられ、後醍醐天皇と彼に仕えていた楠木正成の攻撃に参加。勝利に貢献し、名声を得ました。
「元弘の乱」が失敗に終わったため、後醍醐天皇は隠岐島に流されます。しかし2年後に脱出し、今度は尊氏に倒幕の誘いを呼び掛けてきました。当時尊氏は、倒幕勢力を鎮めるための司令官を務めていましたが、天皇側につくことを決意、反旗を翻します。
幕府の役所であった六波羅探題を滅ぼして、鎌倉幕府を滅亡させました。
その後は朝廷中心となる「建武の新政」という政治がおこなわれす。尊氏は勲功第一とされ、鎮守府将軍の役を任じられ、さらには30ヶ所もの所領を与えられます。しかし「建武の新政」では武士は冷遇され、尊氏が理想としていたものとは違っていたのです。
1335年に北条氏残党の反乱が起こると、尊氏は天皇の許可を得ずに弟の直義がいる鎌倉に向かい、相模川の戦いで北条時行を駆逐しました。
尊氏はそのまま鎌倉に留まり、京都からの上洛命令も無視して独自に執務を始めます。これに対し朝廷側は、彼を討伐するために新田義貞を送ってきました。
当初尊氏は隠居して許しを求めますが、直義らが劣勢になると天皇と戦うことを決断、京都へ進軍します。一時劣勢にはなったものの、最終的には新田義貞、楠木正成らを破り、1336年6月に京都を制圧しました。後醍醐天皇から三種の神器を譲られたことで、光明天皇を擁立します。
尊氏は1338年に征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が誕生しました。
一方の後醍醐天皇ですが、京都を脱した後奈良の吉野に場所を移し、光明天皇に渡した三種の神器は偽物だとして、独自に朝廷を樹立します。ここから、50年以上にわたって朝廷が2つ存在する南北朝時代が始まりました。
尊氏は、政務については弟の直義に任せていて、自身は軍事指揮権をもっていました。これを「両頭政治」といいますが、権力が2つに分かれていたことが徐々に幕府内の対立を引き起こし、「観応の擾乱」と呼ばれる内紛へと繋がっていくのです。その結果、直義が政務を退きました。
尊氏は病気がちになり、嫡男の義詮を中心に政務が執りおこなわれることとなります。南朝との和睦が破られ戦いが続くなか、直義の養子となっていた直冬が、旧直義派の筆頭として攻めてきました。
尊氏は直冬軍を破りはしたものの、この合戦時の矢傷が原因で1358年に亡くなりました。
「尊氏を描いた肖像画」として、「騎馬武者像」が広く知られています。かつては歴史の教科書にも「尊氏像」として掲載されていました。
しかし近年では以下の3つの理由から、そこに描かれているのが尊氏ではないとされ、教科書でも「尊氏像」から「騎馬武者像」へ名称が変更されています。
・描かれている騎馬武者の太刀と馬具の家紋が、足利氏の家紋と異なる。
・肖像画の花押(署名用のハンコ)が尊氏の息子の足利義詮のものである。室町時代に将軍である父親び肖像の頭の上に、子どもが花押を押すのは常識ではありえない。
・兜をかぶっておらず、髪の毛が荒れており、刀は抜き身で、矢は折れている。征夷大将軍の身なりではない。
これらの理由から、「騎馬武者像」が尊氏の肖像画であるという説は、歴史教科書では否定されています。
1:歴史上で唯一、「征東将軍」と「征夷大将軍」を任命された人物
日本では古来より大王・天皇から最高軍事指揮官として「征夷大将軍」という役職が任命されてきました。1935年に尊氏が北条時行を討伐する際、彼は後醍醐天皇に「征夷大将軍」を任命してもらうよう頼みました。
しかしそれは許されず、結局彼は天皇の清香を得ないまま進軍してしまうのです。この時後醍醐天皇は、彼にやむなく「征東将軍」を任命しました。
その結果、尊氏は歴史上で唯一「征東将軍」と「征夷大将軍」に任命された人物となったのです。
2:足利尊氏は清和源氏の家系。源頼朝、武田信玄、毛利元就などが親戚
足利氏は、清和源氏(第56代天皇の清和天皇を祖とする氏族)の流れをくむ家系です。清和天皇は858年から876年まで在位した天皇で、皇族から外れた子孫に源氏の姓を与えました。
清和天皇の子孫は、多くの有力な武家となっています。主な清和源氏の家系の武士は以下のとおりです。
・源氏の源頼朝、源義経
・甲斐武田家の武田信玄
・毛利家の毛利元就
・今川氏の今川義元
・美濃源氏の明智光秀 など
つまり足利尊氏は、源頼朝、武田信玄、毛利元就らと遠い親戚関係だということです。有力武家が多いことから、清和源氏は「武家源氏」とも呼ばれています。
3:室町幕府で「八朔」を公式の行事に取り入れた
「八朔」とは、旧暦の8月1日に初穂が実りはじめることから、普段お世話になっている人へ贈り物をする習慣のことです。鎌倉時代にも「八朔」がおこなわれていた記録はありますが、尊氏は室町幕府で、「八朔」を公式の行事として制定しました。
彼は気前がいい性格で、山のように届けられた贈り物をすべて人々へ分け与え、結局、手元には何ひとつ残らなかったといわれています。
4:連歌の名人だった
連歌とは、和歌の形式を複数人で連作する、鎌倉時代から室町時代にかけて大成された日本の詩形式です。
尊氏は連歌の名人で、『菟玖波集(つくばしゅう)』という連歌集に68句も掲載されています。これは武家としては2番目に多い数です。
5:出生地は不確定
尊氏の出生地は、実は確定されていません。足利氏の本拠地は下野国足利(現在の栃木県足利市)です。彼の父親の足利貞氏は鎌倉幕府の御家人で、本貫地である下野国に住み、役割を果たすのが慣例でした。そのため1990年代までは「足利尊氏は下野国(栃木県)生まれ」という説が有力だったのです。
しかし近年、丹波国何鹿郡八田郷(現・京都府綾部市)にある安国寺から、尊氏の出産時に使用されたとされる史料が発見されました。母方の上杉氏の本貫地は丹波国のため、母方で出産したという「足利尊氏は丹波国(京都府)生まれ」とする説が有力になっています。
北海道と沖縄を除いた全国にある安国寺は、尊氏と直義が建立したものです。
足利家の家紋は、「引両紋」のうちの「足利二つ引」と呼ばれるものが使われています。円の中(もしくは正方形の中)に平行線を引いたもので、「足利二つ引」はその名のとおり横に2本線が入っているものです。
この由来は平安時代にまで遡ります。政治経済の転換期に大きな役割を果たした源義家の孫、新田義重が上野国(こうずけのくに)で栄えていました。彼が「新田一つ引両」と呼ばれる、円の中心に横線が入っている家紋を使用していたのです。
義重の弟である義康は下野国(しもつけのくに)を相続し、そこで足利姓を名乗ります。義康は次男のため、「一つ引両」に線をもう1本足して「二つ引両」を家紋にしました。
その後は新田氏よりも足利氏の方が栄えていったため、後世では「二つ引両」の方が有名になっています。
名前にある「尊」は後醍醐天皇由来
尊氏が15歳で元服した時の名前は「足利高氏」でした。しかし後醍醐天皇と協力して鎌倉幕府を倒した際、天皇に即位する前の名前であった「尊治」の名前から、「尊」という文字を褒美として与えられます。
そして「足利高氏」から「足利尊氏」へ、改名することになったのです。
後醍醐天皇が崩御した際に泣き崩れた
1333年、尊氏と後醍醐天皇は協力して鎌倉幕府を倒しました。しかしその後、後醍醐天皇は公家による政治を、尊氏は武家による政治を望み、2人は決別します。尊氏がいる北朝と、後醍醐天皇がいる南朝に分かれ、南北朝時代が始まりました。かつての戦友が、ライバルになってしまったのです。
後醍醐天皇は1339年に病で亡くなります。その知らせを聞いた尊氏は悲観に暮れ、仏事を七日七晩おこない、天龍寺を建立し弔いました。
たとえ袂を分かっても、ともに戦った師であり盟友を想う気持ちを持ち合わせている、尊氏の優しさを感じることができます。
29歳のとき、尊氏は六波羅探題を滅ぼすために、上洛を試みます。本書は、そこからはじまった彼の半生を描いた物語です。
理解しにくい南北朝時代も分かりやすく読み取ることができ、弟の直義との関係も新たな視点で見つめることができます。
作者の杉本苑子は、直木賞をはじめとした数々の賞を受賞している歴史小説家。『マダム貞奴』と『冥府回廊』は、NHK大河ドラマの原作にもなっています。
- 著者
- 杉本 苑子
- 出版日
本作での尊氏は人間味に溢れており、家族思いの優しい心を持っています。そして彼を支える直義もまた清廉潔白で、兄思いの凛々しい男なのです。これまでにない人物像で、2人を取り巻く世界に引き込まれることでしょう。
さらに、「観応の擾乱」では尊氏兄弟よりも中心人物だったと言っても過言ではない、尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)。彼も格好よく描かれていて、兄弟が対立した「観応の擾乱」がまた違った雰囲気を帯びてくるのです。
読者を惹きこむ筆致で、時代小説が得意でない人も最後まで飽きることなく読み切ることができますよ。
最初に本書が書かれたのは、40年以上前のこと。それから再版を重ね、今でも中世を知るための貴重な資料として使われています。
南北朝時代というのは、いろいろな動きや思惑が入り混じっていて、分かりにくいもの。本書は、後醍醐天皇や、尊氏と直義の関係などを、エピソードや史料を元に分かりやすくまとめています。
- 著者
- 佐藤 進一
- 出版日
本書では、尊氏がなぜ後醍醐天皇から離れていったのかということを、2人の目指していた体制を明らかにしながら説明していきます。南朝に正当性があり、尊氏は逆賊であるという戦前の通説を批判し、正しく歴史を見つめ直しているので、説得力があってよく理解できるでしょう。
足利家の内乱では、尊氏が直義側に立ったり、結局は追放したりと、一貫性がないように見える行動をとりました。淡々と述べられる史実から彼の葛藤が伝わってきて、その背景を探ることができます。
また武士や貴族、王権のそれぞれの特異な性格も浮き彫りにされていて、イメージが浮かびやすく、中世という時代を知るためには必読の書といえるでしょう。
尊氏の評価は、時代によってさまざまで、逆賊と悪く言われることもあれば、反対に良く言われることも。本作は、そんな彼が青年時代を過ごした関東を巡りながら、その実像を探っていこうというものです。ゆかりの地である足利や鎌倉を、まるで旅をするように読むことができますよ。
作者の清水克行は、日本中世史が専門の歴史学者。大学教授を務める傍ら、多くの書籍を発表し、テレビ番組で時代考証を務めるなど幅広く活躍しています。
- 著者
- 清水 克行
- 出版日
- 2013-10-24
本書から読み取れるのは、尊氏は何事にも執着心がなかったということです。そのため、器が大きいと感じる人もいれば、反対に無責任だと思う人もいて、捉え方が異なっています。
その執着心の薄さは、どうやら彼の育ちに由来しているようです。尊氏が当主になるまでの軌跡を探っていくと、彼の性格がどのように形成されていったのか、よく分かることでしょう。
本書によると、戦前の尊氏は大悪人と考えられていて、その一族や子孫はとても生きづらかったのだとか。彼の墓が小学生に蹴られて、傷つけられたこともあったそうです。
しかし近年はその評価も変わってきました。本当の彼の姿に迫ることができる一冊です。
本書は尊氏と直義の関係を軸にして、その人物像や、幕府の成立をまとめています。もともと仲が良く、共に鎌倉幕府と後醍醐天皇を倒したはずの2人が、なぜ対立することになったのでしょうか。
そして「観応の擾乱」へと続いた争いは、その後の歴史においてどのような役割を果たしたのかを丁寧に解説していきます。
- 著者
- 峰岸 純夫
- 出版日
- 2009-05-21
直義は尊氏に毒殺されたという説もありますが、著者はそれを否定しています。
彼ら自身の思惑とは別に、家臣たちの勝手な振る舞いで争いが進んでいき、歴史が作られていくと思うと切なくもなるでしょう。本当は仲が良い2人だったことがわかり、直義と戦わざるを得なかった葛藤が伝わってきます。
さらに本書での読みどころは、「鎌倉府」についても詳しく述べているところです。尊氏は嫡男の義詮を京へ置き、その弟の基氏を鎌倉公方として鎌倉府を機能させました。「観応の擾乱」の後に薩埵山(さったやま)体制と呼ばれるようになった鎌倉府の体制を記してある書籍は珍しく、一読の価値ありです。
本書は、尊氏が発給した1500点もの文書を検証しながら、彼の人物像に迫っていきます。
尊氏は英雄なのか、逆賊なのか、常に問われるその評価について、著者は逆賊ではないという方針で綴っています。
『太平記』などの2次資料は用いず、1次資料から分かる苦悩や判断、思考をまとめ、これまでにない尊氏像を作り上げているのです。
- 著者
- 森 茂暁
- 出版日
- 2017-03-24
領地を与えるときに書かれる「袖判下文」や「軍勢催促状」などを精査すると、文書からさまざまな情報を得られることが分かります。後醍醐天皇のことをどう思っていたのか、なぜ当初は加担したのに結局は離反してしまったのか、といった複雑にも思える心理を、シンプルに理解することができるのです。
また尊氏の和歌や古文書からは、直義との関係だけではなく、次世代の義詮と直冬の権限や内情も分かってきました。彼は直冬に対しては「兇徒」という文字を使っており、直冬は実の子ではありますが、嫡男・義詮の敵だと考えていたと知れるのです。
このような細かい尊氏の心に触れることができ、面白く読み進められることでしょう。
いかがでしたか?この時代は本当に分かりにくく、関係を把握するのが難しい時代です。歴史上の人物と南北朝時代に興味を持っていただけると嬉しいです。