乃木希典の知っておくべき9の事実!「名将」と評価された男の漢詩も紹介

更新:2021.12.19

乃木希典は日清戦争、日露戦争で活躍し、世界的にも有名な日本人のひとりです。明治天皇が崩御した際に殉死したことで、神格化される存在になりました。この記事では、そんな彼の壮絶な生涯と、知っておくべき意外な事実、さらにおすすめの本をご紹介していきます。

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乃木希典の生涯。日露戦争の英雄

乃木希典(のぎまれすけ)は1849年、長州藩の支藩・長府藩である乃木希次(まれつぐ)の三男として誕生しました。兄2人は夭逝していたため、世嗣として育てられています。

幼い頃は虚弱体質で、よく友人にも泣かされていたそうです。父はこのような乃木に対して厳しく接していたようです。この頃、不慮の事故で左目を負傷、後に失明しています。

1864年、16歳になった乃木は学者を志し、父親に反対されるもひとり萩へ赴きます。藩校の明倫館へ通いって学ぶ傍ら、剣術も習いはじめました。しかし江戸幕府が長州征討を開始したため、翌年には呼び戻されてしまいました。この時の戦いで彼は戦果を挙げ、評価されています。

その後、復学した後に陸軍に入り、1872年には少佐に任官、1875年には熊本へ赴任します。そこで反政府の士族が起こした「秋月の乱」を鎮圧し、1877年の「西南戦争」時は西郷隆盛軍と戦いました。

しかし部下が討たれ連隊旗が敵方に奪われててしまうと、乃木は意気消沈。戦いが終わっても気持ちが上向きにならず、何度も自殺未遂をくり返して放蕩生活を送ることになります。

東京に居を構え、部下に訓練を施したり、時には豪遊したりしました。

1885年少将になり、1887年からはドイツへ留学。陸軍について学んでいます。そして帰国後の乃木は態度を一変、生活は質素になり、軍人教育の重要性や軍紀を厳しくすることを説きました。

1894年から始まった「日清戦争」では、旅順要塞を1日で陥落させるなどの武功を上げます。1904年からの「日露戦争」では、日本から清へ返還され、当時ロシアの基地となっていた旅順要塞の再びの攻略を任されました。

この戦争で乃木は長男、次男をたて続けに亡くしましたが、旅順要塞を陥落。その後、ロシア軍人が降伏する際におこなわれた会見での、乃木の紳士的な振る舞いは、世界的にも賞賛されています。

また彼は、日露戦争における最後の会戦である「奉天会戦」にも参加、勝利を上げました。彼の活躍は日本国民に知れ渡り、歓迎ムードのなかで東京に戻ります。

しかし乃木自身は、旅順を攻略するのに半年もかかったことや、多くの死傷者を出したことなどから、自刃して罪を償いたいと明治天皇に奏上するのです。この時天皇は「もし死ぬならば、私が死んだ後にせよ」という趣旨の言葉を述べたそうです。

1907年、明治天皇の意向で、軍事参議官と学習院院長を兼任することとなりました。後の昭和天皇が入学してくると、その教育を担当しています。

1912年7月、明治天皇が崩御。乃木は9月の大葬が執りおこなわれた日の夜に、妻と共に自刃しました。62歳でした。

乃木希典の名は世界に名将として知れ渡っているものの、国内ではその評価が分かれています。しかしながら、乃木の死後は各地に乃木神社が建立され、乃木坂といった彼の名前に改称した地名もできました。彼が亡くなった際には、昭和天皇も涙を浮かべたそうです。

乃木希典の漢詩を紹介!「203高地」を詠んだ作品も

乃木は漢詩を得意としていて、彼が自刃した際には「ニューヨーク・タイムズ」にも訃報とともに掲載されたそうです。

彼の詠んだ作品のなかでも、「金州城外の作」、「爾霊山」、「凱旋」は特に優れているとされていて、「乃木三絶」ともいわれています。このうちの「爾霊山」をご紹介しましょう。

 

  1. 爾靈山嶮豈難攀
     
  2. 男子功名期克艱
     
  3. 鐵血覆山山形改
     
  4. 萬人齊仰爾靈山
     

 

読みは以下のとおりです。

 

  1. 爾霊山は嶮(けん)なれども 豈(あに)攀(よ)じ難からんや
     
  2. 男子功名 克艱(こっかん)を期す
     
  3. 鐵血山(てっけんやま)を覆うて 山形改まる
     
  4. 萬人齊(ひと)しく仰ぐ 爾霊山(にれいざん)
     

 

「爾霊山」というのは、旅順にある203高地(にひゃくさんこうち)という丘陵の当て字です。ここは日露戦争で激戦地となった場所でした。

意訳はつぎのとおりです。

 

  1. 203高地がどんなに険しくても、よじ登れないわけはない。
     
  2. 男子たるもの、名声をあげるためには、どんな困難にも打ちかつ覚悟が大切で、その決意で激戦をして旅順を落とすことができた。
     
  3. しかし武器と人の血肉が山を覆い、山の形が変わってしまった。
     
  4. ああ、爾の霊の山だなあと、多くの人がそろって仰ぎ、霊を慰めるだろう。
     

 

乃木希典の知っておくべき9の事実!妻との結婚は言い訳がきっかけ?「石好き」という変わった一面も!

1:左目を失明したのは、母親の過失が原因だった?

乃木本人が人に明かさなかったのであまり知られていませんが、彼は子供のころに左目を失明しています。

母親が蚊帳をはずそうとして、吊手が左目に直撃したのが原因だといわれていますが、母親の折檻によって傷つけられたという話もあり、友人の桂弥一は「寝ている彼の左目を蚊帳の吊手で叩いた」という記述も残しています。

2:結婚は、嫁を貰えと迫る母親から逃れるための言い訳がきっかけだった

乃木はかねがね母親から、早く嫁をもらうよう言われていましたが「30歳を過ぎたら」と言い逃れを続けていました。いざ30歳になると、今度は「薩摩の女なら」と言いはじめます。

長州の薩摩嫌いを逆手に取ったものでしたが、彼の母親は、当時20歳になる薩摩藩医の娘・阿七(おしち)を連れてきたのです。

乃木は断りきれず結婚、阿七はその後「静子」に改名しました。

3:森鴎外とドイツで出会っていた

1887年のドイツ留学中、同様に陸軍から派遣されていた一等軍医の森林太郎(後の森鴎外)が彼の宿舎を訪ねてきました。

森はその日の日記に「乃木は長身巨頭、沈黙厳格の人なり」と書き残しています。留学中に親しくなった2人の交友は、帰国後も長く続いたそうです。

4:ドイツ留学から帰国すると、和服を着なくなった

1888年6月、乃木はドイツ留学から帰国します。留学中にドイツ陸軍将校の長靴と軍服を深く印象付けられた彼は、家でも接客する際は軍服になり、背広は着ても和服は着なくなりました。

放浪していた時代に紬のそろいで芸者遊びをしていた姿とは、別人のようになったと言われています。
 

5:マッカーサーと日露戦争で会っていた

乃木は日露戦争の際、満州にて、世界各国の観戦武官たちと歓談したり、通信員と会見したりしています。1904年11月、アメリカ合衆国からは、観戦武官を命じられた父親の副官として、当時25歳のマッカーサー中尉がやってきました。乃木はマッカーサーにシャンパンを振る舞うなどして、打ち解けていたといいます。

6:写真好きだった

乃木の残っている写真は、すべて軍人になってからの物です。1872年に陸軍少佐になった時の写真は、嬉しさのあまり焼き増しして、友人や知人に配ったといわれています。この時が彼の初めて写真撮影でした。

最後の写真となったのは、自刃当日の朝、妻の静子と一緒に写ったものと、一人で正装した全身像です。

7:「石」が好きだった

彼は栃木県の那須高原に別荘を持っていました。ここで過ごす際は、時間にまかせて石を探し歩いたそうです。

「石は形が面白くても、坐りが良いものでなくてはいけない」という哲学の持ち主でもありました。

8:乃木が学習院院長になると、貴族的な雰囲気から武士的な質実剛健に一変した

1907年、乃木は陸軍大将のまま学習院院長に任命されます。明治天皇が自分の孫たちの教育を乃木に託そうとしたためです。学習院では剣道、柔道、水泳、馬術を奨励し、洋風のスポーツは好みませんでしたが、スキーだけは奨励しました。

また全寮制にし、特に男子学生には日々の細々としたことまで指示を出していたそうです。

9:亡くなるまでの数年間、彼の体はボロボロだった

60歳を超えた乃木は、老眼鏡がないと文字が読めなくなっており、失明している左目には白斑があらわれていました。歯は総入れ歯で、リウマチも患います。

左腕と右足の弾傷は冬になるとうずくこともあり、若い頃からの痔も悪くなっていく一方。まさに満身創痍の状態でした。

乃木希典の評価は?

ここまで、時系列に乃木の経歴を追い、漢詩や知っておきたい事実を述べてきました。

ここからは、乃木希典を描いた書籍を5冊ご紹介します。乃木の評価は人によってさまざまで、名将とも愚将ともいわれています。

それは本においても同じで、作者によって彼の評価はだいぶ違うようです。

皆さんも、異なる立場から描かれた作品を読んでみて、乃木のことをどのように評価すればよいのか、あらためて考えてみませんか。

「愚将」としての乃木希典。殉死を考える

歴史小説の巨匠、司馬遼太郎が描く乃木の姿は、「英雄」ではありません。

本作には、日露戦争での彼の指揮ぶりと明治天皇への殉死が描かれていますが、作中で乃木のことを「無能」と評価しているのです。これもまた、彼の一面を表すものでしょう。

どのような評価を持つかは、読者自身で考えてみてください。

著者
司馬遼太郎
出版日
2009-08-04

日露戦争における旅順の攻略は、1日で終わると思われていたものの150日以上かかり、多くの死傷者を出しました。最終的には勝利に終わったものの、著者はこのことを痛烈に批判するのです。

一方で、その後のロシア軍に対する対応で、乃木は英雄だと世界から褒めたたえられるのです。本書からは評価が二分する乃木の人物像がはっきりと浮かび上がってきます。

自分の信念に基づいて行動し、愚将だったのかもしれませんが、劇的な人生を送った乃木。明治天皇や昭和天皇から寵愛されながらも、心は死へと向かっていました。なぜ夫人とともに殉死することを選んだのかを知ることは、生と死について考えるきっかけを与えてくれます。殉死する前の、夫人の胸中を推測する最後のシーンが印象的で、胸がいっぱいになることでしょう。

「英雄」としての乃木希典

本書は、上述した『殉死』さらに同じく司馬遼太郎が書いた『坂の上の雲』の乃木の人物像に対して、反論したものです。

司馬の作品はあくまで小説ですが、著者のもつ影響力の高さから、まるっきりの事実だと思ってしまう人も多いのでしょう。そこで本書では、乃木が愚将だったというのは間違いで、やはり英雄であるということを史実に基づいて証明していきます。

著者
桑原 嶽
出版日
2016-06-16

乃木の旅順での戦いぶりについての記述を見ると、無駄に攻撃をくり返して死傷者出したわけではなく、きちんと考えたうえで攻撃していたことが分かります。旅順ほどの要塞を半年ほどで陥落させたことは、評価すべきことだと本書では述べています。

著者は陸上自衛隊で陸将補を務めた人物で、戦争時の戦略分析も優れています。乃木がどのように戦い、日本を勝利へと導いたのかが良くわかることでしょう。

乃木希典は英雄なのか、愚将なのか、という定まらない評価へ一石を投じた作品です。
 

「人徳者」乃木希典の人物像に迫った一冊

乃木希典について幼少のころから殉死するまでの生涯を丁寧に追った本書。愚将か英雄かということはいったん横に置き、彼がどんな人物だったのかということだけに迫ります。

軍事能力に関して言えばもしかしたら無能であったかもしれませんが、彼の素晴らしいところは徳を持っていたところであり、立派であろうと努力したところなのです。乃木の人物像を見つめ直すことができます。

著者
福田 和也
出版日

著者によれば、有能な人というのは数多く存在しますが、「徳を持っている」人というのは得難いものだそうです。乃木はその得難い、人間的に優れた人物だったのです。軍での指揮ぶりを見て彼を判断するものが多いなか、人間性に迫る本作品はとても読みごたえがあり、乃木の本質に近づけるような気がします。

今日の日本にはそのように有徳な人がどれほど存在するでしょうか。有能な人間はたくさんいても乃木のような人物がいないことで、日本は混迷していると著者はいいます。

リーダーとして必要なものは何なのかと考えさせられることでしょう。ビジネス論としても読むことができる作品です。
 

友情から見る日露戦争

乃木希典の生涯を、同じ長州藩出身の児玉源太郎との友情を絡めながら描いた本書。乃木は愚将ではないという側に立って、その人物像に迫ります。

若いころは芸者遊びを毎日のように行い放浪していたことや、ドイツに留学して人が変わったようになったこと、日露戦争の真実、殉死までの様子などから乃木の真実の姿を見ることができることでしょう。

著者
古川 薫
出版日
2011-05-10

司馬遼太郎の「乃木愚将論」に反論する形で書かれていていて、改めて司馬の与える影響の大きさを感じてしまいます。本書の特徴は児玉源太郎についてもその生い立ちから生きざまを丁寧に追い、その対比から乃木の人物像を分かりやすくしているところでしょう。2人の友情が日露戦争の指揮にも影響していたことが理解できます。

日露戦争だけがクローズアップされがちな乃木の人間味あふれる姿が本書にはあります。家庭を顧みなかったり、不満があったら休んだり辞めたりと軍神とは程遠い性格も見えてくることでしょう。殉死したことで神格化された彼の実像に触れることができる作品です。

外国人記者が見た乃木希典

著者は「ロンドンタイムズ」の記者で、日露戦争には「シカゴニュース」の特派員として乃木のいる第3軍に従軍していまいた。そこで見た彼の姿を賞賛し、本書を書きあげます。

部下は乃木の命令に喜んで従い、乃木自身は自分を犠牲にして部下のことを考えていたというように、彼がどれだけ優れた軍人であったかということを述べている作品です。

著者
スタンレー・ウォシュバン
出版日
1980-01-08

「大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に非常な貢献をする人が、三十年に一度か、六十年に一度出現することがある」(『乃木大将と日本人』より引用)

このように乃木の優れていた面は人格面であると著者は考えています。多くの人が死んでいった旅順での戦いでしたが、きちんと統率され、戦いに赴いていった部下たちを作り上げたのは乃木です。その点だけでも評価するに値するのではないでしょうか。

部下の死に悲しむ姿、戦時中の日常生活、敵兵に対しても敬意を持つ心……従軍記者から見た彼の姿は、私たちに乃木の実像を教えてくれます。

乃木希典は名将か、愚将か。それは一人一人が感じることなのでしょうね。世界でも賞賛されていることを考えると、人格的には優れていたのではないかと感じられます。ぜひさまざまな角度から書かれた本を読んでみてくださいね。

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