『維摩経』の教えとは?卓越した言葉から仏教を学ぶ本

更新:2017.5.3 作成:2017.5.3

在家の仏教徒である維摩の物語には、学ぶべき教えが多くあります。知恵者達との論戦に始まり、果てはブッダとの対話を通じて、仏教の神髄を論じる書物である維摩経。ここではその魅力をご紹介します。

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維摩経とは

維摩経とは、古代インドのヴィマラキールティ(維摩)の言葉を物語で綴った仏教経典の一つです。維摩は、商人として多くの財産を築いた富豪でありながら、在家におけるブッダの弟子であり、多くの優れた考えを残す偉人。維摩経は、物語形式をとりつつ、その中では優れた考えが多く記されており、聖徳太子が注釈書を書いた事でも有名です。

維摩経で繰り広げられる問答

著者
出版日

本書の中で、維魔は病気をしています。そして、そのお見舞いをするため、ブッタの高弟たちが維魔の元を訪問。そこにおいて、維魔による仏徒との対話が始まります。

「(解脱を達した者は)広大な山の王のスメール山を、芥子粒のなかに入れます。(中略)四大海の水を一つの毛孔の中に注ぎ入れます。(中略)また、すべての衆生を右手の掌に乗せたまま、あらゆる仏国土をすべて人々に見せるのですが、元の仏国土から少しも離れてはいません。」
(『維摩経』から引用)

このような維魔の思想が繰り広げられ、仏徒達との議論が続いていきます。その中で、維魔のもとにいる天女が進み出て、人々に天の花をふりかけると、花が身体に付いて離れない人と、身体に付かないで地面に落ちる人に二分されることに。そして、花が付いた人がいくら花を振り落とそうともがいても、花はなかなか落ちないのです。

花自身は分別をしないが、花が身体に付く人の方には思慮の有無があります。天女は、花が法に適ったものであるといい、それにとらわれる人と、とらわれない人の違いを説明。そして、そこが、仏教の主題とする考えにもつながっていく事が示唆されていきます。

このようにして、維摩や仏徒、維魔を取り巻く様々な人々によって問答が繰り広げられていくのが、本書の特徴です。

光は魔の中にあって輝く

維摩経では、仏教の功徳についても論じられており、それは光として表わされる点に注目。仏徒は、知恵の光を持って不浄に満ちた世界の闇、煩悩の闇を取り除く事を目的としており、それゆえに、わざわざ清浄ではない土地に生まれるのだ、という考えが展開されます。不浄を浄化されるものであると捉える事には、世界の不浄を嘆く事にとどまるのではなく、世界に対する肯定的な考え方を伺う事ができ、その点において本書の考えは優れていると言えるでしょう。

その上で、無尽燈という考え方が示されます。ひとつの灯火から千の灯火が分けられても、元の灯火が減るわけではありません。それと同じように、仏徒が多くの人を悟りに導いても、善は減ることなく増えていく、と考え、不浄を浄化する光の存在を大きく取り上げていく事がこの思想の優れたところ。

また、維摩の教えを元にして、著者である長尾雅人は、その光についても優れた考察を展開。

「その灯火は、明るい太陽の下では、目立たぬ存在かもしれぬが、むしろ暗黒の魔界に於いては、却ってその光輝を増すであろう。」
(『維摩経』から引用)

彼は、闇が濃くなればなるほど、そこにある光の役割も大きくなると論じます。魔に属する者達にある光明は、小さく取るに足りないものかもしれません。そして、それは明るい陽の光の下では目立たないけれど、暗黒の魔界においては、たとえ小さな光であっても、それは大きな光となってみえるだろう、と説明。

このように、全ての人に光が宿る事の大切さを説く考え方には、維摩経に宿る人を善に導く教えが示唆されている点に注目。悪人でも、善の心をもったならば、その輝きは確かな光となります。維摩経に登場する人々が、常に人の良い部分を論じていくのは、その根底に人を救う事を目的とした考えや願いがあるからかもしれません。

世界と自分の関係性の捉え方

人々が激情に身をゆだねる時、人々の心が乱れている時、仏徒がその人に感じるのは慈悲の心。そして、自身の中に心の乱れがなくても、世界に目を向けた時、人々の中に宿る心の乱れに思い至り、自身の外部にある迷いに対しても自身のものと同じ痛みを覚えます。鎌倉時代に世が乱れた時、多くの仏教徒が人々を救済するために仏教を広めた事も、人々を苦しみから救いたいという仏教の根本的な考えがあったからだと言われています。

そして、苦しんでいる人々の心が平穏に達した時、仏徒の心も平穏に至るのではないでしょうか。人々の苦しみは仏徒の苦しみであり、大きく考えればそれらは同一のものであるという思想には、維摩の考えや、仏教の特性である大慈悲が表れていると思います。

そして、世界中の人々の苦しみは自分の苦しみである、という考えは、親鸞の語った「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」という言葉と似た部分がある点に注目。

世界の負を自分の負と捉えるか、世界に満ちるありがたい教えが全て自分のためである、と捉えるか、その違いはあれど、世界と自分をひとつに結びつけたという点において、両者は似通っています。世界の全ての不幸を自分の不幸とし、世界の全てのよい教えを自分のための教えと捉える両者の精神は、見習いたい考えですね。

本書に登場する維摩も、あらゆる衆生に病がある限り、それだけ私の病いも続きます、と持論を展開。そこには、様々な考えと共に、大きな慈悲の心をうかがい知る事ができ、世界と自分を捉える上で、大切なポイントであると言えるでしょう。

ブッダの家族は苦しむ人々である

ブッダがどのような人を家族と考えるかというと、多くの徳を積み優れた思想を持った立派な人達であると思うかもしれません。しかし、本書で示されるブッダの家系の人々とは、煩悩を抱える人々です。

真理を得ていない人達こそ、悟りを得るために発心できるという考えのもと、煩悩を抱え苦しむ人々こそ、ブッダの家系であると指摘。種子は空中では育ちません。泥水の中でこそ白蓮は芽を出し、大空に花を咲かせるのです。維摩の言葉からは、このような思想を読み取る事ができますし、卓越した表現だと言えるでしょう。その中では、苦しんでいる人に手を差し伸べる事の大切さが説かれています。

山は山ではなく山である

山は山ではなく山である、といわれても何の事なのか、いまいち要領を得られません。このような言葉で示される思想は、解脱を様々な角度から考える試みであり、物事に新たな解釈を示すものでもあり、非常に野心的です。例えば、これに関連して次のような記述が注目すべきポイント。

長老「解脱とは、言葉で表せないものです。」
天女「長老が文字で言葉を表現なさるならば、それが解脱の姿です。解脱には内も外もなくそれらを離れた所にも認められません。文字には内も外もなく、両者を離れた所にも認められません。ですから、文字を離れて解脱を説いてはいけません。」

長老「愛欲と怒りと愚かさとを離れるからこそ、解脱があるのではありませんか」
天女「それらを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたものです。慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです。」
(『維摩経』から引用)

著者
鈴木 大拙
出版日

世の中の本性が空である場合、そこからは何も出る事もなく、そこへ入る事もなく、行く事も行かない事もありません。そして、文字の本性も空であると捉えれば、文字を離れて解脱があるわけではない、という点がここで抑えておくべきポイントだと言えるでしょう。

そして、これは、青原惟信の次のような言葉にも表れています。

「人が禅を学ぶ前には、かれにとって山は山であり、川は川であった。よき師の指導によって禅の真理を洞見しえたのちには、かれには山は山でなく、また川は川ではなかった。しかしやがて、かれが本当にやすらぎの境地に至った時には、山はふたたび山であり、川はふたたび川であった」
(『禅』から引用)

川が川である事をやめる時、そこには概念化の跡があります。そこから一歩進んで真の空に達した時、それは如となり、山は山と捉えるようになるのでしょう。

これは、金剛経に記載されている即非の理論に近いものがあります。即非の理論では、「仏の般若波羅密と説くは即ち般若波羅密に非ず、これを般若波羅密と名づく」という考えが示されている点に注目です。一度説法として肯定したものを否定し、それが否定されたものであるがゆえに肯定されるという理論が、ここでおさえておきたいポイント。山が山でなくなった結果、それは(ありのままの姿の)山になります。般若波羅密という概念があり、それが般若波羅密ではなくなった結果、それは般若波羅密として解釈されるようになります。

このような表現として表れる如性は、全ての行き着く帰るべき場所を表わしている点に注目。そして、そこは青原惟信が言うように、安らかな場所なのです。このような点からも、仏教の教えの根本が、人々を安らぎへと導く事を旨としている事が分かるのではないでしょうか。

面白い事に、このような考えは至る所にみる事ができ、能の却来という言葉もこれに似た考えである点が注目に値します。却来は、ある境地に達した後、また元に戻る事を示しており、能の舞にこの考えが活かされています。この他にも、柳緑花紅といった禅語も同じような考えを示している点もポイント。時代を超えて多くの知者達が同じような考えに行き着いたのだ、と考えた時、このような事実は、世界の真理の一面を表わしていると言えるのかもしれません。

維摩経の結末は?維摩とブッダのやりとり

このような考えが示されながら、物語は進んでいきます。維摩の空の思想観に裏打ちされた弁舌の鋭さは、ブッダの高弟たちをやり込めるほどの強さ。維摩は、容赦なく相手を論破していき、高弟たちは誰一人彼にかないません。そのような維魔が、高弟たちと共にブッダの元を訪れます。

そこでどのようなやりとりが行われるのかという事がこの物語最大の見所。ブッダの高弟たちを喝破し、全てをやり込める維魔の見識を、ブッダはどのように考えるのでしょうか。そこに、本書の全てがあると言っても過言ではないでしょう。

その他にも多くの優れた考えが示されており、本文中には面白い解釈がたくさんあります。

「すべての観念の結び目がほどかれる。これが不二に入るということです」
(『維摩経』から引用)

「我の本質が分からないのに、どうして我が無いとなしえようか」
(『維摩経』から引用)

このような記述が本書には数多くあります。このような考え方に少しでも興味を抱いたのなら、是非『維摩経』を一読する事をおすすめします。

以下では、解説本を紹介しますので、理解を深めたい人は合わせて読んでみてください。

多くの人に支持される維摩経の解説本

著者
鎌田 茂雄
出版日
1990-03-05

講話という名前の通り、維摩経に基づいて仏教を論じるのが本書。原文だけの本からは得られないような教えを、平易な言葉で説明してくれる良書です。様々な例をまじえながら進むので、維摩経の分かりやすい解説本を読みたい人におすすめ。

維摩経を読み込みたい人に

著者
長尾 雅人
出版日
2014-10-17

上記で紹介した『維摩経』を訳した長尾雅人による解説本がこの本『維摩経を読む』です。『維摩経』についてのセミナーの記録なので、本文である『維摩経』とセットにして読むとより理解が深まります。『維摩経』をとことん読み込みたい人におすすめしたい一冊。

維摩経を幅広く知りたい人に

著者
釈 徹宗
出版日
2009-08-11

維摩経だけでなく、仏教の基礎知識を教えてくれる親切な本が『とらわれない-苦しみと迷いから救われる「維摩経」』です。文中の所々で著者による解説が入るので、内容を理解しやすいようになっています。維摩経そのものだけでなく、それが与えた影響まで幅広く論じているので、維摩経とそれを取り巻く仏教まで、深く知りたい人にうってつけな一冊。

維摩経は、優れた見識が開けてくる名著です。ブッダの教えや維摩の優れた弁舌など、ここには多くの卓見が示されており、仏教の叡知を学んでみたい人におすすめです。