現象学の発展に寄与した哲学者モーリス・メルロ=ポンティ。彼の「身体」を重視する思想は、これまで身体と精神を分けて考えていた西洋哲学に大きな影響を与えました。 哲学のみならず芸術などでも参照されるその思想を彼の著作からご紹介します。
モーリス・ジャン・ジャック・メルロ=ポンティは、1908年にフランス南西部のロシュフォールという港町に生まれます。軍人だった父親が早世した後、一家はパリに居を移し、母と兄妹たちとの親密な家庭で育ちました。
1926年にパリの高等師範学校に入学し、のちに活動を共にするサルトルらと出会います。ちなみにメルロ=ポンティたちの前後の学年にはレヴィストロースやボーヴォワール、ヴェイユ、バタイユ、ブランショ、レヴィナスらがおり、まさにフランス哲学の黄金世代でした。
メルロ=ポンティは21歳の時に、現象学の創始者エトムント・フッサールの講演で「現象学」に出会います。このフッサールと彼の提唱した現象学との出会いが、その後の彼の思想の方向性を決定づけるものとなるのです。
高等師範学校を卒業後、フランス各地の高等中学校の哲学教師として教壇に立ちますが、フランスがドイツに対し宣戦布告をしたことによって戦争状態に突入すると、彼もまた陸軍少尉として従軍することになります。1940年にフランスが降伏したことに伴い除隊となった後、メルロ=ポンティはカルノー高等中学校の哲学教授に就任しました。その2年後に初の著書『行動の構造』が刊行されます。
『行動の構造』が発表された2年後の1945年には、代表作とも目される『知覚の現象学』が発表されます。この著作はメルロ=ポンティを一躍戦後フランス思想の代表的思想家の地位へと押し上げます。そして彼はこれらの著作を通して、ドイツで誕生した現象学をフランスに紹介することにも貢献しました。
終戦後はリヨン大学の講師となり、サルトル、ボーヴォワールらと共に雑誌『レ・タン・モデルヌ』の編集に尽力します。サルトルとは学生時代から交友がありましたが、1950年の朝鮮戦争勃発に伴う政治的見解の相違から決別し、『レ・タン・モデルヌ』からも手を引くことになるのです。このサルトルとの決別以降、メルロ=ポンティはしばらく政治的な問題については沈黙し距離を置くようになりますが、1952年にフランス最高峰の学術機関であるコレージュ・ド・フランスの哲学教授となった後、1954年にはレクスプレス誌などにおいて政治的な問題についても再び言及するようになります。
その後も精力的に執筆活動を続けますが、1961年に自宅で未完の大著『見えるものと見えないもの』を執筆中に冠状動脈血栓症という心疾患にて53歳の若さでこの世を去りました。
そんな彼の思想は、ドイツで生まれた現象学という考え方をさらにフランス現象学として発展させたものとして、あるいはこれまで精神と身体は別物として切り離され、どちらかというと精神優位で考えられてきた西洋哲学において、身体の側に光を当てた画期的な身体論の嚆矢として今なお、哲学の世界ではもちろん絵画や写真、映画などの芸術分野や、演劇・ダンスなどの身体表現、異文化コミュニケーションや福祉などの分野でも盛んに参照されています。
『知覚の現象学』は、第二次世界大戦が終結した1945年に発表された、メルロ=ポンティの代表作とも呼べる一冊です。この本によって、当時未だ十分とは言い難かったドイツで生まれた「現象学」という考え方をフランスにて紹介することに一役買うことになります。
特にこの『知覚の現象学』は、現象学の祖であるエトムント・フッサールの現象学に基づき、彼の現象学を批判し超克する形で記されています。
- 著者
- モリス・メルロ・ポンティ
- 出版日
『知覚の現象学』を繙く前に、まずは現象学とはいかなる考え方なのかをおさらいしておきましょう。
「現象学」という用語の初出自体は18世紀末まで遡ることができるとされていますが、現象学という言葉が指す思想は一つに限定されないというのが、現象学に対する理解を妨げる一つの要因と言えます。ここではとりあえず3つの代表的な「現象学」の考え方をご紹介しておきます。
1,フリードリヒ・ヘーゲルが著書『精神現象学』の中で示した思想を指して時に使われる名称である「弁証法的現象学」
2,エトムント・フッサールが提唱した方法論である「超越論的現象学」
3,フッサールを師と仰いだマルティン・ハイデガーによって超越論的現象学が批判的に継承された結果である「解釈学的現象学」
以上の3つが代表的な「現象学」と呼ばれるものですが、メルロ=ポンティが現象学という言葉で指しているのは2のフッサールが提唱した「超越論的現象学」のことですので、ここではこの超越論的現象学のことを「現象学」と呼びます。
フッサールの現象学とは、簡単に言えば「あらゆる先入観を捨てて、まず意識に直接現れたもの(=直観されたもの)の絶対性を認めることを出発点として、そこから物事の実在性について考えていくという方法」のことです。
例えば、今私たちの目の前に一つのケーキがあったとします。この時、私たちが目の前のケーキを認識していることと、ケーキが実在していることは決してイコールにはなりません。(もしかしたら私たちはケーキの幻覚を見ているだけかもしれないからです)フッサールに言わせれば私たちはケーキを認識していることで、ケーキが実在していると〈思い込んでいる〉だけなのですね。
フッサールはここで、ケーキが実在しているという思い込みを一旦脇に置いて、私たちがケーキを認識しているという「現象」だけは絶対のものとして疑い得ないものとして、私たちが認識したこの「現象」の意味を考え、私たちがケーキを認識していることとケーキが「ある」ということの関係性を思考します。これがフッサールの現象学の基本的な姿勢です。
メルロ=ポンティはこのフッサールの現象学、特に後期フッサールの思想(フッサールは時代ごとにその主張を大きく変えていることで有名です)について批判的検討を加えます。そのようにして書かれたのがこの『知覚の現象学』なのです。
メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の前に発表した『行動の構造』を記した後に、実存主義哲学者のマルセル・ガブリエルが「付随性」と呼んだ、自分の思い通りにならない身体感覚の存在や、生体(人間をはじめとした生物全般)は、個々の刺激の要素に一対一で対応しているのではなく(人間の顔を目、耳、鼻と一個ずつ認識するような反応)、個々の要素的な刺激が形作る形態的で全体的な特性に反応する(目、耳、鼻をまとめて一つの「顔」として認識するような反応)という仮説を提唱したゲシュタルト心理学に関心を持つようになります。
これらの身体感覚や認識のあり方にヒントを得たメルロ=ポンティは、私たちの「意識」と「身体」の関係に注目し、この2つが置かれるパースペクティブから現象学を捉え直そうとしたのです。彼は、フッサールの理論からさらに飛躍して、私たちの認識はある存在を顕在化させるのではなく、存在そのものを創設しているのではないか?と現象学を読み替えました。
そのような立脚点から、彼は『知覚の現象学』の中で独自の知覚論・身体論を展開していきます。
メルロ=ポンティは、まず私たちの身体には「身体図式」のようなものが備わっていて、この身体図式が様々な知覚や体験を翻訳したり認識として変換する役割を担っていると考えました。そして、それだけではなくこの身体図式からは、個々の刺激の形態的なまとまりであるゲシュタルトのようなものや、ある一定のスタイルのようなものが立ち現れてくるとし、そのようなものを媒介として「私の習慣的な世界内存在」が作られると言うのです。この私の習慣的な世界内存在を、彼は間身体性と呼びました。
このようにして、私たちの身体や知覚というものに着目することで、メルロ=ポンティは従来の西洋哲学で支配的だった主観と客観、意識と物体(対象)のような二項対立的な考え方を疑い、私たちの身体の経験はそれらの間を行き来する両義的なものであることを明らかにします。
これまでの哲学において自明のものとされてきた私たちの身体や知覚というものを、世界認識の出発点とすることで、従来の哲学的思想が乗り越えられなかった諸問題を乗り越えようとしたことが本著の最大の功績と言えるでしょう。
続いてご紹介する『眼と精神』は、1964年に発表された3つの講演録と表題と同名の研究論文が収められた、メルロ=ポンティ晩年の思想が記された一冊です。彼の死後出版されました。
この本の中に収録されている研究論文「眼と精神」はメルロ=ポンティ生前に発表された最後の論文です。彼はこの本の中でこれまで自身が築いてきた知覚論や身体論を用いて独自の芸術論(絵画論)を展開しています。
- 著者
- モーリス・メルロ=ポンティ
- 出版日
- 1966-11-30
メルロ=ポンティがこの『眼と精神』の中で明らかにしようとしたのは、絵画とは何か?ということではなく、絵画という表現様式(絵画ー画家ー現実世界の関係性)を通して、私たちの知覚している世界とは一体なんなのか?世界が「存在」するとはどういうことなのか?といった問いである、というのは押さえておくべきでしょう。
メルロ=ポンティによれば私たちが風景画を見る時、絵の具の塊を見ているのでもなければ、風景を写し取った写像を見ているわけでもなく、私たちはそこに紛れもなく現実の風景の出現を見ているのだと言います。どういうことでしょうか。
もしも、絵画がある風景や事物を写し取った写像に過ぎないのだとすれば、絵画の外側にしか現実の世界は存在しないということになります(これは絵画を写真に置き換えても成立しますね)。彼に言わせれば、世界や現実というものは絵画の外側にあるのではなく、「画家は世界に身体を貸すことによって、世界を絵に変える」(『眼と精神』p257)のです。
画家の身体を通して、ある世界や現実(=風景や事物)が「絵画」という形で私たち(=鑑賞者)の前に立ち現れるのだ、とメルロ=ポンティは主張します。つまり、絵画は現実の存在の一形態であるというわけですね。
続いてメルロ=ポンティは画家と世界や現実との関係を問います。ここで重要なのは画家である「私」は世界を知覚する者(=見る者)であると同時に、世界を構成する一部(=見られる者)であるという点です。
すなわち身体を持った「私(=画家)」は、世界を観察する対象として自分の外側に突き放して認識しているように考えられますが、一方で画家自身もその世界の中に紛れもなく存在し、世界を構成する一部分であるということです。(ハイデガー的に言うと世界内存在である、ということですね)
ですから、「世界」は画家たる「私」にとって外側にも内側にも位置するものではない(あるいは外側にも内側にも位置するものである)と考えられます。このような「身体」と「世界」の両義性にこそ「見る」という視覚(=知覚)の秘密がある、とメルロ=ポンティは考えます。
このような知覚するものでありながら知覚されるものである、という循環的な構造をメルロ=ポンティは「人間以前の眼差し」と呼びます。この「人間以前の眼差し」が眼差そうとするものこそが、世界や存在そのものなのです。
このような考え方において「世界」は初めから奥行きを持ったボリュームのある空間としてあらかじめ「存在」しています。つまり、幅と高さがあってそれから奥行きがあるというような要素に分解して認識できるものではなく、メルロ=ポンティにとって世界とはまず、存在する、あるがままで「私」に体験される即時的な世界なのです。
そしてこの即時的な世界を認識する上で中心に据えられているのが私たちの「身体」であり、この身体が認識するものであり認識されるもの(の一部を構成するもの)として、世界という空間を知覚しているのです。
メルロ=ポンティはこのような両義的な世界のありようは「科学」によってではなくむしろ「芸術」によってリアルに表現されるだろう、と考えます。近代科学は世界を対象として私の「透明な主観」の支配下において認識・操作可能なものとして取り扱いますが、メルロ=ポンティに言わせれば人間の思考すら「身体」によって条件づけられている、すなわち「世界」との関係の中でしか存在し得ないものであり、世界だけを完全な対象として切り離すことも、私の主観を世界と無関係なものとして切り離すことも不可能なのです。
一方で画家は「世界に身体を貸すことで、世界を絵に変え」ます。つまり画家というのは世界や自然の「存在」のリアリティが鑑賞者に対してありありと「出現」しようとするのを手助けすることなのだ、と言えるでしょう。
以上のような芸術論が展開された『眼と精神』は、『知覚の現象学』以来思考され続けてきた身体と世界の「関係」を画家や絵画という具体的な事例を引いて考察した論考であり、身体と世界、知覚と世界といったあらゆる「関係」について思考したメルロ=ポンティの思想のエッセンスが詰まった一冊となっています。
最後に、メルロ=ポンティの時代的位置付けを理解することを助ける一冊として『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡ー決裂の証言』をご紹介します。
本著は1994年にフランスで刊行された雑誌「マガサン・リテレール」の増大号の中に未公開資料として収められた「サルトル、メルロ=ポンティー絶交の手紙」が翻訳されたものです。序文や訳者あとがきを含めても90ページほどの一冊なので、比較的たやすく読了することができるでしょう。
- 著者
- ["J.‐P. サルトル", "M. メルロ=ポンティ"]
- 出版日
先に触れたように、メルロ=ポンティとサルトルは高等師範学校時代の同級生であり、卒業後も雑誌の共同編集など様々な活動を共にした盟友関係にありました。メルロ=ポンティがフランスに現象学を紹介し、「身体」という地平から新たな哲学を構築していた同時代に、ジャン・ポール=サルトルはこれまで西洋哲学で支配的であった人間の「実存」を思想の中心に据える実存主義の哲学者として時代の寵児となった人物です。
二人は学生時代以来の深い友情で結ばれており、共に現象学や実存主義への深い関心を共有していましたが、1950年の朝鮮戦争勃発を機に互いの政治的スタンスのズレが徐々に明るみに出ます。そして二人が共同で編集していた雑誌『レ・タン・モデルヌ』における争いを決定打として、メルロ=ポンティとサルトルは訣別することになるのです。
本著はこの『レ・タン・モデルヌ』においてサルトルがメルロ=ポンティの政治的スタンスを明言する政治論文の掲載を拒否したことに端を発する論争の往復書簡が収められています。まず第一信でサルトルは、メルロ=ポンティがとある講演でサルトルの政治的スタンスを公然と批判したことを責め、これまで自分が主幹として刊行してきた雑誌(『レ・タン・モデルヌ』)に、メルロ=ポンティが政治的立場を明言する論文など発表する権利はないと断言。サルトルはここで思想家として、哲学か政治のどちらか一つを選ばなければならないという立場をとります。
これを受けたメルロ=ポンティは、サルトルの哲学か政治かどちらかを選ばなければならないという立場に対して異を唱え、これらを対立させる考え方が何故容認できないかを説明します。彼はサルトルに対し、哲学と政治は両立するという立場を表明するのです。この思想上の不一致が、サルトルがメルロ=ポンティの政治論文を掲載しないという「検閲」を行った時に初めて「決裂」となったと言えます。
メルロ=ポンティからの返信を受けたサルトルは、その返信に強く心動かされたような印象を受けます。メルロ=ポンティに対するさらなる返信の中でサルトルは懸命に「誤解」を解こうとするのです。しかし、この返信の中でサルトルは問題の核心(=メルロ=ポンティの政治論文の不掲載)には触れず、二人のかつての友情というエモーショナルな議論に終始します。
二人のやりとりはここで終わっており、事実その後『レ・タン・モデルヌ』にメルロ=ポンティが寄稿することはありませんでした。
このように、手紙自体は雑誌の掲載の可否をめぐる争いが中心であり、そこには情念的なやりとりも多分に含まれるのですが、この最終的に袂を別つことになった二人の知識人の往復書簡からは二人の政治的立場の違いだけではなく、彼らの当時における立ち位置の違いや、彼らがお互いに政治と自身の哲学をどのように関連づけていたかということが垣間見えます。
メルロ=ポンティはこの後しばらく政治的な言論からは距離をおきますが、アルジェリア闘争などを契機として再び政治的な発言を行うようになります。このような書簡から、彼らの哲学が決して思弁的な領域に止まるのではなく、現実の社会や政治と深く結びつくものであったことを伺い知ることで、彼らの思想をより深く理解することができるのではないでしょうか。
従来の哲学においてあまり顧みられてこなかった「身体」というものに光をあてることで新たな哲学の地平を切り開いたメルロ=ポンティ。彼の思想は、今でも哲学はもちろん芸術や身体表現、心理学や福祉など幅広い分野で参照され、読み継がれています。
彼の著作が今なお読み継がれ、解説本が数多く出版されているのは、彼の思想の影響力を示すとともに、彼が構築した思想が今なお未完のものであることを示しているのかもしれません。
何よりも私たちの身体や知覚というものに重きを置いた彼の思想は20世紀哲学において重要な思想的潮流の一つでありながら、彼の急逝によって完成形を見せぬままとなっていることもまた事実です。しかし、だからこそ後の多くの人々が彼の思想を継いでいったのではないでしょうか。
今なお完成に至ることなく、発展を続けるメルロ=ポンティの思想にぜひ、触れてみてください。