いまさらながら精神分析に入門するための6冊

更新:2021.12.19

「あなたはそれを嫌うことによって、むしろそれを好いているのだ」式の、面倒くさい精神分析的ロジックへと倒錯的に入門するための、いまさら「だからこそ」の入門書6冊。

ブックカルテ リンク

フロイトに特化した網羅性の高い入門書

著者
出版日

見た目に騙されてはいけません。本書の監修者である立木康介氏は、フロイト/ラカンを中心とする精神分析的な知の領域全般とそれに関連する20世紀の哲学思想などを専門とする正統にアカデミックな研究者であり、京都大学人文科学研究所准教授です。他方、批評的な現代社会論である『露出せよ、と現代文明は言う』(河出書房新社)といった著作も手がけており、そちらでも成功を収めています。

精神分析全般ではなく、あくまで「フロイトの」精神分析に焦点を絞って、そのなかで網羅性の高い解説を行う本書は、それだけでも十分なメリットを備えていると言えますが、何より項目ごとに置かれた解説イラストのおかげで、説明のわかりやすさが類書から抜きん出ています。

章末ごとに置かれた監修者自身によるコラムも示唆に富んでおり、知的な刺激にも事欠きません。総じて、精神分析について知りたい、フロイトについて知りたいという、一般読者の潜在的な要求に――精神分析研究者が作っているからそうなる、のかどうかは知りませんが――最大限に応えるような作りとなっていると言えます。

それと同時に、監修者が監修者だけあって、専門性にも信頼が置けます。たとえば「リビドー」の表記で親しまれている専門用語libidoを、原語の発音に忠実な「リビード」にしてあるあたりに、そういった配慮の行き届きが見て取れます。初心者にも中級者にもおすすめの1冊です。
 

フロイトを哲学的に理解するための必読論文セレクション

著者
ジークムント フロイト
出版日

20世紀の哲学思想、文学や芸術一般に深い影響を及ぼしたとされるフロイトの精神分析ですが、ではどのあたりがその影響力の核心を担っていたかというと、やはり無意識の概念を発明したことが大きかったのではないかと思われます。

無意識の概念は、当然のことながら意識というものの実在を前提としているわけですが、その意識の概念について考えていくと、究極的には、私が私を私として意識すること、つまり自我(ego)というものがなぜ人間には備わっているのかという根本的な問いが引き起こされることになります。

本書はフロイトにおける自我のモデルの変遷をたどるという趣旨で編まれており、欲動や抑圧、防衛機制など、精神分析の鍵概念を扱った重要な諸論文をいくつも収めています。特に「快感原則の彼岸」に登場する「死の欲動」の概念は20世紀の思想全体を理解するうえでも鍵となるものです。哲学的な興味から精神分析を学ぼうとするならば必読の論文集だと言えるでしょう。
 

ラカン派精神分析のレンズで眺められた大衆文化

著者
スラヴォイ ジジェク
出版日

ジジェクは言わずと知れたスロヴェニア出身の精神分析家・哲学者・批評家であり、ジャック・ラカンの精神分析についての専門的な知識をベースにもちつつも、狭義のアカデミックな世界には留まらずに、本書のような批評書の類いも多く著していることで有名です。

1991年に出版された本書は、ジジェクがそのデビュー当時から特権的に扱ってきたアルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画やその他さまざまなサブカルチャー的素材の構造分析を通じて、「対象a」や「現実界」といったラカン派精神分析の主要概念を解説していくものとなっています。

私見では、ジジェクの考察が光るときというのは、何かが失敗したり成功したりするシーンの分析においてであって、またそういった失敗がじつは欲望の主体にとって成功を意味していたのだとか、あるいはその逆であったのだということが示される際に、最もドラマティックな興奮が発生するように思われます。

その意味では、この本に限らずジジェクの本は一般的に、精神分析家(またそうした分析家の立場に言説を通じて同一化しようとする人たち)にとって、精神分析の快楽ないし享楽とは何か、という問いを惹起するものなのではないかという気がします。
 

神経症と精神病の区別に集約されたラカンの思想のプロブレマティックを剔抉する

著者
松本卓也
出版日
2015-04-24

この本を入門書として取り上げるのは、普通に考えておかしい気もします。本書はジャンルとしては完全に専門書であり、わかりやすいたとえ話やざっくりとした要約を求める読者には明らかに不向きな体裁をとっています。とはいえ実際、ジャック・ラカンについて日本語で書かれた本を通じて、ある程度の範囲で確かな知識を得たいと思っているのであれば、これぐらいの難易度には付いていかないと話にならないという面はあるでしょう。

逆に言えば、神秘化された教祖としてのラカンではない、思想家としてのラカンの客観的な全貌をつかみたいと願っている人たちにとっては、本書はこれ以上なく有益な参考書となることでしょう。

本書の基本的な主張というか立場は、構造主義者としてのラカンがポスト構造主義者としてのドゥルーズ&ガタリやデリダらによって乗り越えられたという考え方に対して、そうではないと述べると同時に、そもそもなぜ彼らポスト構造主義者たちがラカンを批判したのかについて、神経症と精神病の鑑別診断というきわめて現実的かつ具体的なポイントから整理するというところに求められます。

非常にざっくりと解説しておくと、神経症は言語的な枠組みの内部で捉えられる、いわば解釈可能な症状を呈し、精神病は言語的な枠組みの外側にある何かによって駆動される、いわば無解釈的な症状として現れるという区別こそが、そこで言われている鑑別診断なるものの中心的なアイデアとなります。

そしてその過程を経ることによって、70年代後半以降のラカンの思想の構造主義/ポスト構造主義といった粗い括りには収まりきらない豊饒な可能性が説得力ある仕方で提示されていきます。

本書の背骨をなすこの「鑑別診断の思想」という話とは別に、本書は晦渋をもって鳴るラカンの専門用語の事項別解説書として利用することも可能であり、たとえばファルスとか斜線を引かれたS(主体)とかシェーマLとかいったものについての何かしら合理的な解釈を知っておきたい場合にも参照できます。

この本を百パーセント利用し尽くしたと言えるようになった暁には、ラカン派精神分析を自分自身の批判的/創造的思考のツールとして自由に使用することさえ、おそらくできるようになっているでしょう。
 

精神分析的な知のネットワークを探査するための必携ガイドブック

著者
["ジャン・ラプランシュ", "J-B.ポンタリス"]
出版日
1977-05-16

辞典類には独特のメリットがあります。その辞典が扱っている分野の知のネットワークを個別の著者の立場や傾向性といったことから切り離して、フラットに、データベース的に眺めることができるようになるという点です。本書『精神分析用語辞典』にも、まさにそのようなナヴィゲーショナルな知の可能性が秘められていると言えます。

本書がカバーするのはあくまで「フロイトの」精神分析の用語であり、そのためラカン派や自我心理学の用語は扱っていません。そうはいっても、フロイト自身においてすら時期によって変遷している膨大な用語の意味を丹念に追いかけながら、それらに厳密で明晰な定義を与えようという姿勢を見せている本書は、それだけですでに哲学的思考のための有益な示唆を豊富に含んでいると思われます。

たとえば、そういえば「備給」ってどんな概念だったっけ、となった時に本書を引いてみれば、その語を理解して使用するために必要な最低限な定義に加えて、他の概念との連関や概念自身に含まれる問題や可能性などについての記述も紹介されており、思いがけない勉強になること間違いなしです(あと結構重要なことですが、用語ごとの英仏独での標準的表記を確認することもできます)。

精神分析という知の領野を探検/観光する際の頼れるガイドとして、本書は古書でもいいからぜひとも入手しておきたい一冊です。
 

『差異と反復』における精神分析の影響の大きさを測り直すために

著者
モニク ダヴィド=メナール
出版日
2014-09-25

原著が2004年に出版された本書は、『普遍の構築 カント、サド、そしてラカン』(せりか書房)の著者であるモニク・ダヴィッド=メナールの手になる、精神分析の専門家の視点から提示されたドゥルーズ哲学の包括的で批判的な読解の試みといった趣きの著作です。

「反復の哲学」と題された本書の第三章では、ドゥルーズの主著である『差異と反復』における三つの時間の綜合の議論が、そこでのフロイトの援用という点に着目して詳細に検討され、そこだけ取り上げても非常に読みごたえがあります。

精神分析のロジックをある程度理解できるようになってきたら、今度はその実践的かつ理論的な道具立てが、いったいどのようにして自らの外部の知とネゴシエートするのかを見るためにも、本書のような本を繙いてみるべきでしょう。


本書の紹介からは少し外れますが、これは精神分析の「いまさら」感をどう見るかということともかかわってくる話です。

冒頭に述べた精神分析について学ぶことの「いまさら」感、もしそういう感じがあるとするならば――というのも「いまさら」だと感じているのはもしかしたらこれを書いている僕だけかもしれないので――それはやはり現実において、神経症患者に代表される古典的な精神分析的主体の数がはっきりと減少しているように見え、代わりに心療内科的主体(?)としての、薬学的に治療されるべき対象としてのうつ病患者などが増加しているように見えるということと、何らかの関係があることなのだろうと思われます。

視野を広げて考えるなら、これは現代社会において人間であることの条件が、情報技術の発展と普及などと相まってドラスティックに変化しつつあることを示唆するものであるとも、言えないことはないでしょう。

ドゥルーズなどのポスト構造主義の思想家たちが精神分析を批判し、さらにそのポスト構造主義でさえ、昨今ではいまだ人間中心主義的であるとして、思弁的実在論や新しい唯物論といった思想界の新しい趨勢において批判の対象となりつつあります。人間による人間への批判は、人間であることの終わりなき脱構築は、どこまでその戦線を拡大していくのでしょうか。

しかし精神分析とはそもそも、フロイトが臨床的実践のなかで合理的な動機からその方向へと踏み出して行ったように、人間的なものを守るために人間的なものを解体し、その文化的可能性を維持するためにその精神を唯物論的に捉え直そうとするような知の枠組みなのでした。そういう精神分析の出発点を意識するのであれば、ポスト構造主義やさらにそれ以降の潮流が何を主張するものであれ、精神分析は乗り越えられたなどとそう簡単に断言することはできないはずです。

本書『ドゥルーズと精神分析』のような精神分析の側からのドゥルーズ哲学の批判的再構築が、結果的にドゥルーズ哲学のある部分を救うように、ドゥルーズ以降の現代思想のある種の非人間主義的傾向が、精神分析における人間的なものへの批判のポテンシャルをさらに高めてくれるような場面も、今後出てくる可能性は十分考えられます。そうした未来への布石として本書に目を通しておくのも悪くないかもしれません。
 

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