東条英機は太平洋戦争時の総理大臣でした。また当時の陸軍参謀長でもあったため、開戦の責任を負いA級戦犯として絞首刑となった人物です。しかし彼を擁護する意見もあり、評価は定まっていません。この記事では、東条の生涯を紹介しつつ、名言、逸話、そして戦争の真実について知ることのできるおすすめ本をご紹介していきます。
東条英機は1884年、東京都で陸軍中将・東条英教の三男として生まれました。1905年に陸軍士官学校を卒業後、陸軍歩兵少尉に任官されます。1907年には歩兵中尉に昇進、1912年に陸軍大学校に入学。1915年に陸大を卒業し、歩兵大尉に昇進しました。
1919年に駐在武官としてスイスへ行き、1921年からはドイツに駐在しました。1922年陸軍大学校の教官となり、昇進を続け1933年には陸軍少将となっています。この間、小畑敏四郎や永田鉄山と「二葉会」という軍事に関わる問題を研究・議論するグループを結成。その後は「木曜会」と統合して「一夕会」としました。石原莞爾、板垣征四郎、鈴木貞一などが揃っています。
1937年には関東軍参謀長に就任しました。1940年からは近衛内閣で陸軍大臣を務めています。日米の衝突が避けられなくなってきていた時期、近衛の後任として東条が首相になることになりました。
これは内大臣であった木戸幸一が、日米対決を回避するためには、天皇の意向に従順であり、なおかつ陸軍を掌握できる東条しか適任者がいないと考え、天皇に推挙したためと考えられています。なお首相就任時に陸軍大将に昇進しました。
首相任命のとき天皇直々に対米戦争回避を指示された東条は、和平のために力を尽くします。しかしアメリカは「ハル・ノート」と呼ばれる交渉文書を提示し、日本としてはとても呑むことのできない要求を突き付けてきたのでした。
日本軍の中国からの撤退、満州国も認めないという内容を見た東条は、対米開戦を決断します。東条は天皇の意向に沿えなかったことをとても申し訳なく思い、号泣して天皇に詫びたそうです。
1941年太平洋戦争へ突入しました。マレー作戦、真珠湾攻撃とはじめのうちは勝利を重ねていましたが、1943年ごろからはドイツもイタリアも劣勢になり、日本もまた作戦の失敗が多くなってきます。
そこで1944年からは東条が陸軍参謀総長も兼任して対処しようとしましたが、日本の劣勢は避けられませんでした。東条の責任を問う声や、反東条派の圧力が大きくなり、同年7月に東条は総辞職に追い込まれました。
1945年終戦後は戦犯としての逮捕を覚悟し、拳銃自殺を図ります。しかしGHQにより救命措置を施され、奇跡的に助かったのでした。そして東京裁判において、絞首刑の判決を受けます。
1948年刑が執行され、64歳で死亡しました。
「日系人よ異邦の国の為に尽くせ」
これは、アメリカに住んでいるアメリカ国籍の日系人に向けて東条英機が送った言葉です。
日系2世や3世の人はアメリカ人なのだから、祖国のために忠誠を尽くしなさいとしたこの言葉は、当時自らの立場に悩んでいた彼らの大きな指針になったといいます。
彼のこの言葉のおかげで、戦後の日系人の地位向上にも繋がりました。
「飛行機は機関銃や高射砲で落とすのではなく、気迫で落とすものだ。」
戦時中、日本の状況を知っている彼だからこそ放てた言葉でしょう。アメリカと比べて日本の飛行機や銃器などが足りないとわかり、それでも戦わなければならない時、最後に頼るのは精神論だったということです。
「日本をおおっている暗雲はやがて晴れ、中秋の名月が拝める日は必ず再来するであろう。」
こちらは戦後、逮捕された彼が拘置所内で作り、孫に贈った箱に書かれていた言葉です。悲惨な戦争と戦後の焼け野原を体験させてしまったけれど、未来を担う彼らに日本の再興を託しました。
「我ゆくも またこの土地に かへり来ん 國に報ゆる ことの足らねば」
この場合の「報ゆる」は、報復という意味ではなく恩返しの意味が強いでしょう。処刑されるけれども、まだ国への恩を返せていないので、また戻ってこようと言っています。
「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき」
こちらも、敗戦した日本に再び花が咲くよう、復興の時を願っています。どちらの句からも、死の直前まで国のことや残される人のことを想っていたことがわかるでしょう。
1:「カミソリ東条」と呼ばれたキレ者だった
東条英機は、会議では複数の手帳を使い分け、鋭い質問と適切な返答で「カミソリ東条」とよばれました。部下からの報告に耳を傾け、文書にもすべて目を通しており、その優れた頭脳を表す呼び名です。
2:有名な戦陣訓がある
有名な「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは戦陣訓からきていますが、これは東条が示達した訓令です。この訓令を遵守し、毎日のように朗読させた部隊もあれば、教材として採用しない部隊もあり、軍人勅諭ほど徹底されなかったため、順守する者も無視する者もいました。
また海軍は陸軍軍人である彼の出した戦陣訓を軽視し、座布団にしていたという話まであります。
3:旅先でゴミ箱をあさった
東条は旅先で民家のゴミ箱をあさっていました。これは配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が、ちゃんと捨てられているかを確かめるためで、東条は「ゴミ箱をあさることで、庶民の生活の実情を知り、配給の担当者が一層努力してくれることを期待した」と述べています。
4:運転手からの信頼があった
何代もの総理大臣の運転手を務めた人からは「東条首相が一番立派だった」としています。東条は誰がどうすれば、誰が得をし、誰が困り、誰が面目を失するかと気を配る人で、その気配りが運転手にも届いていたことが分かる逸話です。
5:「東条幕府」と批判された
東条は、内閣総理大臣という文官のトップと陸軍大将という武官のトップを兼任しました。彼を批判した者を要職から外し、憲兵隊を恣意的に利用したため、「東条幕府」といって揶揄されました。
6:東京裁判での姿
東京裁判において、他の被告がときに罪の擦り付け合いをするのに対し、東条は理路整然とした弁明を行い、時に戦勝国の検事をもやりこめました。
一方で、自身の敗戦の責任については負うことを認めていました。
7:収容所での仏教信仰
戦犯として収容所に収容されてから仏教を学ぶようになり、特に浄土真宗を学んでからは心境が大きく変化しました。戦争で多くの人を死なせたことへの責任や、米国へ仏教が伝わることを深く願う発言が残されています。
8:海外からの評価は?
戦争指導者として東京裁判にかけられA級戦犯として死刑になった東条ですが、海外からの好意的意見も存在します。ビルマ国のバー・モウ首相はアジアを白人から解放したとして、東条を高く評価しました。
また東京裁判で判事を務めたオランダのベルト・レーリンクは裁判での堂々とした姿を称え、東京裁判での判決についてきわめて批判的な内容を自著の中で綴っています。
東条が東京裁判で述べた供述書の全てと、著者の解説です。供述書という第一級一次資料に基づいて、なぜ戦争を行うことになったのか、彼はどんな人物だったのかに迫ります。
改めて戦争について考えさせられることでしょう。
- 著者
- 渡部 昇一
- 出版日
- 2010-07-23
東条が訴えたことは、日本は戦争という手段しか選べなかったということです。アメリカから行われた数々の日本への制裁、例えば日米通商航海条約の破棄や対日石油輸出の全面的禁輸などから日本を守るためには、戦うしかありませんでした。自衛のための戦争だったのです。
さらに、本書によればマッカーサーも同じように考えていたようです。東条に戦争の責任が全くないかと言われればそうではないのでしょうが、東条についての評価を見つめ直せるような内容に溢れています。どんな考え方をするにせよ、読む価値のある一冊と言えるでしょう。
東条英機の生涯を、私情を挟むことなく、冷静に客観的に描いている本書。東条がどんな人物であり、どのような官僚となっていったのか、そして何を思い開戦へと向かっていったのかを読み取ることができます。
リーダーとはどうあるべきかというビジネス論の本としても役立つことでしょう。
- 著者
- 保阪 正康
- 出版日
本書から伝わってくるのは、東条は指導者としては全くダメで、日本は指導者なしに戦争へと踏み切ったということです。東条は優れた官僚ではありましたが、首相となるべき人物ではありませんでした。他に適任者のいなかった日本にも問題があったのです。責任を一人に押しつけようとする日本の体制、体質についても考えさせられます。
真面目で几帳面なことだけが取り柄だった東条。天皇の意向に背き、開戦へと向かわなければならなかった苦悩が伝わってきます。この時代の政治制度を振り返ることは、今日の日本の政治を見直すことへと繋がることでしょう。読者一人一人に、何が間違っていたのかを問いかける本と言えます。
東条の生涯を描いている評伝小説です。基本的には史実に忠実であり、批判も擁護もすることなく公正に書かれています。
中国では戦線を広げていったこと、逆に首相になってからは天皇の意向に従い対米開戦を回避しようとしていたことなど多面的に東条を捉え、その人物像を浮かび上がらせているのです。
- 著者
- 松田 十刻
- 出版日
太平洋戦争を決定したときの首相であったというイメージが大きく、その内面まではなかなか知られていない東条。実際は独裁者でも何でもなく、天皇に忠誠を尽くし、部下も思いやる真面目な人物だったのです。小説仕立てになっているので読みやすく、なぜ東条が首相に選ばれたのかも理解しやすい本です。
決して望んだわけではない立場に立たなければならなかった東条の迷いや苦悩が伝わってきます。戦犯にさせられてしまったと考えるか、やはり東条だからこそ戦争になってしまったと考えるかはそれぞれですが、開戦に踏み切った時に慟哭するシーンには心動かされます。東条がどんな生き方をしたのかを知れる1冊です。
『大東亜戦争の真実』は東京裁判に提出された東条英機の宣誓供述書について検証する本です。この供述書はGHQの発禁第1号だった史料で、これを読めば戦争に至るまでの流れを詳細に理解することができます。
裁判のために書かれたものですので、嘘偽りのないものだと考えられるでしょう。戦争を回避できなかった歴史を知るためには必読の一冊です。
- 著者
- 出版日
本書を読めば、東条が悪人だと思っている人のほとんどがハッとするのではないでしょうか。もちろん開戦するにあたっての責任が全くなかったとは言えないでしょうが、東条ではなくても開戦せざるを得なかったとも考えられるからです。当時どれだけアメリカに追いつめられていたのかということを身に染みて感じることができます。
現代語訳してあるわけではないので読みにくさはありますが、東条の生の声が伝わってくるようで胸に迫ります。戦争責任がどれだけあるのかについては、読者が考えることではありますが、こういう事実もあるのだということを知ることはとても大切です。戦争が遠い昔のことになりつつある今、改めて思いを巡らせてみましょう。
また本書には、東条が記した遺書と思われる文章も複数記されています。
東京裁判で死刑となることを予想していた彼は、家族だけでなく、戦勝国である英米諸国や、日本国民、さらに日本の青年たちに向けても言葉を残していました。
- 著者
- 佐藤 早苗
- 出版日
また彼は、東京裁判において口述書を提出していました。この中には開戦決定前夜の御前会議では、天皇の発言はなかったということが書かれています。
本書ではその手記を元に、開戦までの日本の様子を探っていこうとしているのです。
太平洋戦争決定までに御前会議は4回開かれました。開戦前夜の4回目の御前会議はいかなるものだったのでしょうか。東条は東京裁判で会議の様子を問われた場合に備え、議事録を再現し用意していました。結局使われることなく大切に保管されていたこの記録からは、教科書や語り聞くだけの歴史ではない、真実の戦争の歴史を学ぶことができることでしょう。
天皇の発言はなかったとして、天皇を守ろうとした東条。アメリカはすでに日本と戦争することを決めており、日本はそれに抗えず戦争に踏み切ったということを読むと、東条の難しい立場が理解できます。
東条と天皇の戦争責任について改めて考えるきっかけになる本です。
東条英機について考えることは、日本の政治と戦争について考えることです。本を読むことで自分なりの考えをまとめるきっかけになればいいなと思っています。