菅原道真は、太宰府天満宮に祀られており、「天神様」「学問の神様」として有名です。太宰府に左遷される前の業績やなぜ神格化したのかなど、道真についてのすべてが分かるおすすめ本を集めましたので、ぜひ読んでみてください。
菅原道真は845年に生まれ、5歳で和歌を詠むなど幼少の頃から学問の才能があり、神童と呼ばれました。18歳で文章生となり、のちに学者の最高位と言われる文章博士まで進んでいます。位も正六位下から昇進を続け、877年には式部少輔に任じられました。
880年に父親が亡くなった後は、菅原家の私塾であった菅家廊下を主催し、朝廷の中心人物となり活躍しています。
886年讃岐守を拝任。国の建て直しのために優れた政策を行い、住民に感謝されています。その結果890年に帰京してからは宇多天皇の信頼も厚くなり、さらに要職を歴任することになりました。894年道真は唐が混乱していることを理由に、遣唐使を停止させました。このことは日本独自の文化を作ることに大きな影響を与えています。
899年藤原時平が左大臣、道真が右大臣に任ぜられます。宇多天皇から譲位された醍醐天皇の時代となっており、ここでも道真は昇進を続けていました。しかし道真のやり方や、家格以上に昇進することを面白く思わない貴族も多く、時平により謀反の罪に陥れられます。そして大宰府へ大宰員外帥として左遷されたのです。
京を離れるときには、自宅の梅の木に対して「東風ふかば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という別れの歌を詠みました。大宰府では厳しい生活を送りながらも、国家の平安を祈って過ごし、903年59歳にて亡くなりました。
死後に天変地異が起こったり、藤原一族が早死にしたりしたことから、道真の祟りだと恐れられ神格化されました。現在は学問の神として慕われています。
「東風ふかば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
まずは先述したこちらの歌から。「春になって東風が吹くようになったら、主人である私がいなくなっても、春を忘れないで梅の花を咲かておくれ」という意味です。
道真が福岡の大宰府へ左遷されることになり、京の都を去る時に詠みました。その梅が、京から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」というものもあり、太宰府天満宮には神木として祀られています。
「このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」
こちらは百人一首に収録されている歌です。「今回の旅は急なことだったので、道祖神にお供えする幣(ぬさ)の準備もできませんでした。手向山の紅葉をささげるので、御心のままにお受け取りください」という意味です。
道真のことをかってくれていた朱雀院の御幸の時に詠まれ、この旅には彼自身も同行しています。急な旅だったので、道中の道祖神にお供えするものを用意できなかったけれど、代わりに紅く色づいた葉をささげるという情景が想像できる美しい歌です。
「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」
こちらは、なんと道真が5歳の時に詠んだものだといわれています。「梅の紅い色はなんて美しいんだろう。僕の顔にもつけてみたいなあ」という意味です。
「あこ」というのは道真の幼名のこと。庭の梅を見て詠んだと伝えられていますが、彼が本当に梅の花を愛でていたことがわかります。この経験が後の「東風ふかば~」の歌に繋がるのかもしれませんね。
1:学芸に秀でていたが、武術にも長けており、文武両道だった
若い頃から弓道や剣術、乗馬にも才気を発揮しており、若い頃の住まいである都良香邸では「矢を射れば百発百中だった」といわれていました。
学問のみならず、武芸にも秀でる文武両道な人物だったのです。
2:子だくさんで、子孫には『更級日記』の作者、菅原孝標女がいる
菅原道真は子宝に恵まれた人物でした。
『北野天神御伝』には、彼の子供は23人以上いたと記されており、菅原一族には学問、文学、学芸の才に恵まれた人物が多くいます。
なかでも6世孫の菅原孝標女は『更級日記』を執筆したことで有名で、近年の研究で『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』の作者ともいわれています。
3:彫刻家としても才能があった
彼が彫刻した仏像が各地に多く残されており、重要文化財などに指定されています。
作品としては、十一面千手観音像や、高さが1m70cm以上もある千手観音像などが知られています。
また志明院には、宇多天皇の勅命(天皇の命令)で、「一刀三礼」という一刀彫るごとにお辞儀をして彫刻をする方法で彫刻した、眼力不動明王の像があるのです。
4:日本にお茶を飲む習慣を取り入れた
彼は別名「茶聖菅公」と称されており、京都の北野天満宮では現在でも茶会が催されています。
彼は天皇の勅命を受けてお茶の調査、研究をし、その結果を記録しました。そして、貴族をはじめ一般社会にお茶の習慣を広めたのです。
1:天満宮には必ず「使いの牛」の像がある
菅原道真は、今では学問の神様として神社に祀られ、その神社は天満宮と呼ばれています。そこには必ず「使いの牛の像」があるのです。
「使いの牛」とは神使の牛で、頭を撫でると知恵を授かり、自分の傷や病気の箇所を触ると治るといわれています。
しかし、なぜ学問の神様が祀られている天満宮に「使いの牛」が必ずあるのか、その理由ははっきりとしていません。
道真の生誕が丑年だったからというものや、道真の遺体を乗せた牛車の牛が座り込んで動かなくなった場所を墓所と決めたからなど、諸説あります。
2:日本初の天満宮は山口県にある
天満宮は日本各地にあり、その総数約12000社もあります。すべて菅原道真を祀っており、なかでも京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮が総本山とされています。
実は、もっとも最初に建立されたのは、山口県の防府にある防府天満宮でした。
これは道真が京都の宮中から失脚し、九州に向かう途中、山口県に立ち寄り、「この防府の地はまだ天皇のおられる都と陸続きである。この地に住み、無実の知らせを待ちたいものだ」と願いました。
しかし、それは叶わず、九州へ向かい亡くなります。
道真が九州で亡くなったのち、防府の浦で光が見られ、天神山に瑞雲が棚引きました。それを見て、里人が「菅原道真が願いどおりこの地に帰ってきたのだ。ゆえに住む場所が必要だ」と考え、彼を祀る宮を建立したのが天満宮のはじまりだったのです。
3:死後は雷神の「天満大自在天神」となり、学問以外の利益と信仰も多い
学問の神様として天満宮に祀られていますが、神としての称号は「天満大自在天神」で、当初は雷神として恐れられていました。
彼が九州で亡くなって以降、京都では落雷などの災害や異変が相つぎ、道真の祟りであると恐れた当時の人々が、彼の霊に「天満大自在天神」と名づけて、鎮魂、礼拝したことがはじまりです。
学問以外にも、長寿、交通安全、縁結び、書道上達などさまざまなご利益があるといわれています。
太宰府天満宮と菅原道真についての様々な話題を読むことができる『太宰府天満宮の謎』。太宰府天満宮建立の話、天満宮とはどういったものか、なぜ道真は太宰府に左遷されたか、太宰府側はそれをどう思っていたかなど詳しく知ることができます。ぜひ本書を持って太宰府天満宮へ訪れてください。
- 著者
- 高野 澄
- 出版日
道真は左遷されて太宰府へと来たわけですが、本当は流罪になってもおかしくなかったはずなのに、太宰府での地位は低いものではありませんでした。それはなぜだったのでしょうか。本書を読めば、その疑問にすっきり答えてくれ、太宰府の担う役割についても新たな知識を得ることができるでしょう。
道真の太宰府での暮らしぶりや、なぜ死後神へと崇められることになったのかということも興味深く読み進められます。他にも飛梅の意味、道真の歌舞伎「白太夫」についてなど、話題は多岐にわたるので雑学本としても楽しめるはずです。読みやすく手に取りやすい1冊です。
菅原道真が政治家として行った業績をまとめている『消された政治家・菅原道真』を読むと、やはり歴史は勝者が作るのだと改めて感じてしまいます。財政難に陥っていた国や貧困に苦しむ民のために、律令制の改革を行ったにも関わらず、敵対していた藤原時平に謀反の罪をきせられ、その制度改革の功績も抹消されてしまうのです。本書では、真実はどこにあるのかを明らかにしていきます。
- 著者
- 平田 耿二
- 出版日
道真が人頭税から土地税に変更したことは、その後もずっと続いていく画期的なことでした。道真は文化的にも秀でた人物でありながら、民のことを考えられる優れた政治家でもあったのです。それをなかったことにされ、地方に飛ばされるというのはどれほど無念だったことでしょう。
この件は、道真が神格化されることになる原因ともなったと著者は言います。なぜか関わった敵方の人物が早死にし、天変地異も起こったために、道真の祟りではないかと言われるようになったのです。確かに自分の功績を奪われ、知らぬ罪まで着せられれば、祟りたくもなりそうです。あまり知られていない政治家・道真のことを学べることでしょう。
『摂関政治と菅原道真』は、藤原氏を中心とした摂関政治と、その対立に敗れ左遷された菅原道真についてまとめた本です。しかし単なる対立として描いているのではありません。道真も摂関政治を受容していたけれども……、という論調で進んでいきます。ではなぜ道真は失脚することになったのでしょうか。その謎にも迫りながら、摂関政治の成り立ちなども解説していきます。
- 著者
- 今 正秀
- 出版日
- 2013-09-20
朝廷で活躍していた道真は、自らを「詩臣」と呼び文人としての役割も果たしていました。その詩臣とはどのようなものか、道真は詩臣としてどんなことを行ったのかということも詳しく説明されています。その時その時に合った道真の漢詩を多く紹介していて、他の書籍とは少し違う解説本と言えるでしょう。
摂関政治成立の流れも、通説とは異なる説明がされており、興味深く読むことができます。道真の生きていた時代はちょうど統治体制を転換せざるを得ない時代であり、道真もその転換に貢献していたというのが本書の見解です。この時代の政治と摂関政治、道真の果たした役割と左遷された理由。すべてに明快な説明がなされており、すっきりと腑に落ちる作品です。
藤原時平と菅原道真の対立を軸に、平安時代の朝廷を描く『時平の桜、菅公の梅』。才能があり、自分の力で道を切り開いた道真を、親の七光りで出世してきた時平は慕っていました。心を寄せ合うこともあった二人でしたが、結局は対立へと進んでいってしまうのです。朝廷の雰囲気や風習などが手に取るように分かり、まるで平安時代を覗いているような気にさせてくれます。
- 著者
- 奥山 景布子
- 出版日
- 2014-03-20
時平目線の話ですので、道真に関する描写が少なく感じられるかもしれません。厳しく正しい人物で、なかなか人と打ち解けることができない孤高の男として描かれる道真。ときにはその性格は厄介で、やりすぎると嫌われることも多いのでしょうが、やはり魅力にあふれています。時平も本書の中では悪役ではなく、貴公子という雰囲気を持つ恰好いい男ですので、二人の心が離れていってしまうことを悲しく思うことでしょう。
淡々とした柔らかな文体で進んでいく物語は、読者を心地よくさせてくれます。左遷された道真と悪役の時平という単純な図式が成り立たないうえに、お互いがいい人なので、読後感が悪くないのです。平安時代に浸って読むことができるおすすめの1冊です。
『天神 菅原道真』は、菅原道真の生涯を描いているのですが、通常の伝記というよりはやや幻想的な雰囲気が強くなっています。死後天変地異や飢饉、落雷が起こり、皆から祟りだと恐れられ、天神さまとして祀られるようになった道真。生きているときも超人的な力を出すときがあり、そういったところが伝奇小説風です。もちろん史実に基づいており、時代背景も詳しく書かれているので、平安時代について学ぶのにもぴったりといえます。
- 著者
- 三田 誠広
- 出版日
本書で描かれる道真は少し神がかっており、神様のお告げが出てきたり、青光を発したりなどします。そんなファンタジーな雰囲気が好きな人にはぜひおすすめしたい作品です。また在原業平や小野小町の歌も、そのシーンに合ったものが挿入されいて、物語性を高めています。
道真は祟ってもおかしくない境遇だったと、周りの人は認識していたのでしょう。とても分かりやすく道真が神へと至る過程が書かれています。有名な人物も多く登場し、人間関係も深く描写されているので、物語へ入り込みやすいのです。道真の生涯を、身近に感じ取ることができます。
菅原道真はやはり立派な人物だと感じてしまう本が多かったように思います。実際に祟りがあったのかどうかは分かりませんが、そこまでの影響力があったというのも驚くべきことです。ぜひ福岡・太宰府天満宮へ足を伸ばしてみてくださいね。