現象学の創始者エトムント・フッサールのおすすめ本3選!

更新:2021.12.20

近代哲学の中でも重要な考え方の一つである現象学。20世紀に活躍した多くの哲学者がその影響を大いに受けました。そんな現象学の創始者と呼ばれるのが、哲学者であり数学者のエトムント・フッサール。彼の考案した現象学をその著作からご紹介します。

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フッサールの生涯と思想的背景

エトムント・フッサールは、1859年に当時のオーストリア帝国(現在のチェコ共和国)のユダヤ系商人の家系に誕生しました。1876年に高等学校を卒業後、ドイツのライプツィヒ大学にて数学・物理学・天文学・哲学などの幅広い分野の学問を学びます。

1878年にはベルリン大学にて数学の研究を行い、ウィーン大学に移ったのちに数学の論文を提出し数学者として学位を取得します。ですから、フッサールは哲学者ではなく数学者として自身の学問をスタートさせたのですね。

学位取得後は再びベルリンに戻り助手として勤務しますが、1年間の兵役の後、1884年から2年間にわたり師事した哲学者フランツ・ブレンターノに強い感銘を受け、数学から哲学の道へと転向することになるのです。

1886年には、ブレンターノの推薦で心理学者シュトゥンプの元で心理学について学びました。ここで、心理学についての心得を得たことはのちの現象学の成立についても大きな影響を及ぼすことになります。

1900年から1901年にかけて初期フッサールを代表する一冊である『論理学研究』の1,2巻が続けて出版されます。その内容に感銘を受けたミュンヘン大学の学生たちが次々とフッサールの元へと集まり、ミュンヘン現象学派を形成しました。

1901年に助教授としてゲッティンゲン大学に招かれた後、フッサールは1904年に『内的時間意識の現象学』1907年に『現象学の理念』を立て続けに発表し、現象学という思想を確立させていきます。そして1913年には現象学派の研究機関誌『哲学および現象学的研究年報』において『純粋現象学および現象学的哲学のためのイデーン』を発表し、現象学を広く世の中に知らしめました。

そして1916年にフライブルク大学の哲学科正教授に就任した後に、フッサールの思想的後継者の一人(ただし二人はのちに決裂してしまうのですが)であるマルティン・ハイデガーと出会います。この時出会ったハイデガーのように、のちに20世紀哲学の代表的な存在となるエマニュエル・レヴィナスやシモーヌ・ド・ボーヴォワールなどの哲学者・思想家がフッサールと交流を持ちました。

フッサールの思想に影響を受けた多くの優れた哲学者たちがその後の現代思想と言われる20世紀哲学を形作っていくことになるのです。ですから、いわばフッサールは現代思想を準備した功績者の一人と言えるでしょう。

現象学とは何か?『現象学の理念』

哲学的な本を読んでみよう、とチャレンジしたことのある方なら一度は「現象学」という名前を目にしたことがあると思います。なぜなら現在読まれている多くの哲学的な本、特に20世紀哲学やそれ以降の現代思想と呼ばれるものの多くが現象学の考え方を参照していたり、あるいは現象学を批判し乗り越えようとしたりしている思想だからです。

例えば、『存在と時間』を書いたハイデガーや『存在するとは別の仕方であるいは存在の彼方へ』を書いたレヴィナスはいずれもフッサールの現象学を学び、それを自身の存在論の思想に(時に批判的にであれ)継承していきましたし、ポスト構造主義の代表的哲学者であるジャック・デリダなどは自身の著書『声と現象』の中でフッサール批判を展開しフッサール現象学を〈脱構築〉しました。

このように、フッサールの生み出した「現象学」は後世の哲学や思想に多大な影響を与え続けていますので、それらを理解するためにも「現象学」とは一体なんなのかを理解することは重要だと言えます。ここでは。まず最初にフッサール現象学を明確に打ち出した最も代表的な一冊ともされる『現象学の理念』を紹介しつつ、フッサール現象学についての基本的な事柄をご紹介したいと思います。

著者
エドムント フッサール
出版日

『現象学の理念』は1907年にゲッティンゲン大学で行われた講義を元に、フッサールの死後出版された一冊です。フッサール現象学の代表的な著作の一つであり、「現象学的還元」という重要な考え方を初めて明確に打ち出した書物でもあります。

フッサール現象学入門の一冊とされることも多いのですが、後に出版されるフッサールの著作と言っていることが少し異なっていたり、用語が意味するものも微妙に違うということがありますので(フッサールはその活動時期によって考え方が変化していることでも有名です)、この『現象学の理念』はまだ思想としては荒削りな、フッサール現象学の原石的な一冊だと言えるでしょう。

では、そもそもフッサールが『現象学の理念』やその後の著作で打ち出そうとした「現象学」とは一体どのようなものなのでしょうか。ここでは、『現象学の理念』においてフッサールが提出した「現象学的還元」を中心にフッサール現象学について考えてみたいと思います。

現象学は、今私が見聞きしている世界が本当に実在するのか?という疑いから始まります。今、この記事を読んでいるということはあなたの目の前にはパソコンやスマートフォンが存在しているでしょう。現に目の前に存在し、それを操作しているわけですから、パソコンやスマホの存在は疑い得ないように思いますし、私たちは普段これらが本当に存在しているのかどうか疑うことすらありません。

しかし、ここであえて一つの問いかけをします。「今あなたの目の前には本当にパソコンやスマホが存在しますか?夢や幻覚ではないと証明できますか?」・・・この問いかけに答えることは存外なかなか難しいものです。確かにパソコンやスマホを私は見て(=認識して)いますが、今私がそのような夢を見ていないとも限りませんし、SF映画によくあるような、何者かに脳を操作されて、「パソコンやスマホが存在する」と思い込まされているだけかもしれない、という疑いを完全に否定することは不可能と言えます。

私たちの身の回りの世界が夢や思い込みや幻覚ではなく、確かに私たちの外側に実在するのかどうかという問いはなかなか立証することができず、長らく哲学的な課題とされてきた問いでした。この問いをうまく説明しようとしたのが他ならぬフッサール現象学なのです。

では、フッサールはこの難問に対してどのように立ち向かったのでしょうか。フッサールは、「疑うまでもなく当たり前に世界は実在している」という私たちの日常的な確信(フッサールはこれを自然的態度と批判的に呼びます)をひとまず「括弧に入れて」保留するのです。

世界が本当に私の外側に実在するのか、それとも私がそういう幻覚を見ているだけなのか、という疑問には簡単には答えが出ませんので、フッサールはこのややこしい問題を一旦保留します。これが、私たちの自然的態度を括弧に入れるということです。

世界が実在するのか、それとも単なる私の思い込みに過ぎないのかは分からない(判断を中止する)けれど、私には目の前にあるパソコンやスマホ(=世界)が確かに見えている、という私たちの認識や意識の方にフッサールは注目するのです。

世界が実在するのかどうかは確実ではありませんが、少なくとも私にとって今世界(らしきもの)が認識できている、意識されているというのは否定しようがありません。ですから、フッサールは物事を考える上での揺るぎないものとしてこの私の意識(に上ったこと)だけを問題としようとしたのです。

つまり世界の実在そのものを問題とするのではなく、世界が実在するかどうかは分からないけれど、世界が私の目の前に現れている、私が世界を認識しているという「現象」だけをフッサールは観察の対象とするのです。

私の意識の上に現れたものについてのみ観察の対象として何事かを語るのであれば、たとえ私の主観(認識・意識)と客観(私の外側に存在する世界)にズレがあったとしてもそれはさして問題ではなく、私が世界をそう意識してしまっているというのは疑い得ませんから、それは決して間違いではなくなります。

この「私がそう意識してしまっている」ということをフッサールは「純粋名証」や「自己所与性」と呼びます。これらの純粋名証や自己所与性に立脚して、そこに立ち現れた一切の事物がどのようにして立ち現れているのか、その相関関係を明らかにしよう、というのが現象学の課題なのです。

哲学では長らく私という一個の主観がいかにして正しい客観的知識を認識するかということが課題とされてきましたが、フッサールはこの難問をいわば逆手にとり、「私たちは絶対に絶対的に客観的な知識に到達することはできない」という立場からスタートします。その代わりに私という主観がそう感じてしまっている、意識してしまっていることだけは疑い得ないものとして確信し、私という主観が意識していることの構造や成り立ちを問うことで、哲学における主観と客観の問題を解決し、真理に迫ろうとしたのです。

この一切の事物を主観の確信に還元することを「現象学的還元」とし、フッサールはそこから真理を探究する学問を開始しようとしました。これこそが現象学の基本的な態度なのです。

現象学とは何か一定のテーマについての学問というよりは、あらゆる学問や思考を進めるための一つの学問的態度であると言えるでしょう。
 

時間は記憶によって作られる?『内的時間意識の現象学』

続いてご紹介するのが、1928年に弟子のハイデガーの手によって編纂され発表された『内的時間意識の現象学』です。日本でもいくつか訳が出ていますが、中でもちくま学芸文庫から出版されている谷徹訳がオススメです。訳が非常に読みやすく、訳者のなんとかフッサールの思想を分かりやすく伝えようという工夫が伝わってきます。

『内的時間意識の現象学』はフッサール現象学においても特に重要な一冊であるとされており、レヴィナスやサルトル、デリダといった名だたる思想家たちがこの『内的時間意識の現象学』に言及しています。フッサールの後に続く彼らの思想を理解する上でもこの本は必読の一冊であると言えるでしょう。

著者
エトムント フッサール
出版日
2016-12-07

『内的時間意識の現象学』は現象学の観点から論じられた時間論であり、時間という意識の中には一体何が含まれているのか?あるいはどのようにして私たちの世界に客観的な時間というものが生まれてくるのか?といったことが考察されています。

私たちが普段当たり前に利用している、時計が刻む「時」もカレンダーに則って運行する「暦」もいってしまえば社会の構成員である「私たち」という主観の集団が共有している一つの意識(現象)に過ぎず、客観的な時間というものの実在を証明することは困難です。この時間というなんとも捉えがたい存在についてフッサールは『内的時間意識の現象学』で考察し、私たちの「記憶」が時間という意識を作り出しているのではないか?と考えました。

記憶が時間という意識を作り出すとはどういうことでしょうか。フッサールは音楽の聞こえ方を例に出して説明しています。

では例えばピアノの演奏を聴いているとしましょう。演奏を聴いている私はそれがひとまとまりの旋律であると確かに認識しています。しかし、「今この瞬間」に弾かれているのは旋律を構成するうちのたった1音であり、私が「今この瞬間」に聴いているのもその1音に過ぎません。ですが、私はそれを旋律として認識することができます。

なぜなら今この瞬間の1音は前の音に続いており、そして次の音に続いているからです。その一瞬の連なりを私は旋律として認識しているのです。フッサールはこの今この一瞬の1音が存在するためには、その前に鳴っていた一瞬の1音の記憶が不可欠である、と言います。

つまり、今この一瞬を「今」として認識するまでにはその一瞬に至る一つ前の一瞬(=過去)が記憶されている必要があるのです。もしも私たちに過去の記憶がなく、常に「今」しかないのだとすれば私たちはその瞬間瞬間を「今」として認識することすらできないでしょう。

ですから今この一瞬にはその一つ前の過去にあった今一瞬が、一つ前の今一瞬にはその一つ前の今一瞬が内包されています。このようにそれぞれの瞬間にその過去が維持されていることをフッサールは「過去把持」と呼び、それを彗星の尾のようなものと喩えました。(彗星はまさに瞬間瞬間進み続けていますが、その尾は彗星の過去なのです)

私たちは一瞬一瞬だけをただを認識しているのではなく、過去との連なりの中から「今一瞬」を認識しているのです。フッサールは過去把持を説明する際に上にあげた音の聴こえや彗星の尾の例を挙げていますが、現代の私たちにとってはむしろ映画のコマの原理を想像すると理解が易しいかもしれません。

映画の映像は1秒間に24枚の静止画が連続して映し出されることで動いているように見えます。映像が動いているように見えるのは、その一瞬前に映し出された静止画の記憶が連続しているからです。

つまり、私たちの「今」は「今この瞬間」だけが単独で存在するのではなく、その今に連なる過去の記憶が把持されているものなのですね。フッサールはこのような記憶を「第一次記憶」と呼び、この第一次記憶が過去という時間を作り出しているのだ、と説明しています。

そしてフッサールは、過去だけではなく未来についても同様のことが言えるとしています。未来、すなわち次に訪れる今も過去を把持していなければならず、この次の今が可能となるには「今この瞬間」が過去となる必要なあるのです。

私たちは今この瞬間を一方で過去の記憶として把持しながら次の今である未来を予測します。そしてこの予測を可能にしているのが把持された過去の記憶なのです。フッサールはこの未来を予期することを未来把持と呼びました。

つまり「今この瞬間」という「時間」は過去の記憶と未来の予測によって成り立っているもので、この二つがなければ今は今という時間として私たちには決して認識されないものなのです。ですからフッサールにとって「時間」とは客観的に存在するものではなく、私たちの過去の記憶と未来の予測が時間という意識を作り出していると言えるのですね。
 

フッサール現象学への入り口『フッサール・セレクション』

最後に、フッサール現象学に触れてみたい、フッサールの著作をこれから読んでみたいという方の最初の一冊としてオススメできる本をご紹介しておきたいと思います。

フッサールの思想にチャレンジする最初の一冊として挙げたいのが、この『フッサール・セレクション』です。

著者
エトムント フッサール
出版日

『フッサール・セレクション』は平凡社より出版されたアンソロジーとなっています。編者の高松氏がフッサール現象学における諸概念の重要な部分を数々のフッサール自身の著作から抽出してまとめ上げた一冊です。

冒頭にフッサールの生涯や経歴、思想の概要などが紹介され、その後の章ではフッサール自身のいくつかの著作の中からその思想を理解するための特に重要な文章や段落などが引用され、フッサール現象学とはどのようなものか?そもそも学問とは何か?フッサール現象学はどのような方法か?といった分類で並べられ、まとめられています。

いくつかの本から編者の意図に沿って編纂されておりますので、フッサールの文章そのものに連続性はありませんが、フッサール現象学のアウトラインが掴めるような工夫を持って引用されたフッサールの言葉が並べられていますので、フッサール現象学の全体像を掴むには最適の一冊となっているのです。

また、所々に編者の短い解説が入っており(しかもとても分かりやすい!)、初めてフッサールの文体に触れる方にとってのガイドやサポートもきちんと用意されています。

フッサールは現象学という学問を確立する上で新しい諸概念を数多く提出していますが、著作として残されたものは講義録やノートのようなものが多く、フッサール自身の手によって現象学が体系的にまとめられた著作というものがほぼ無いというのがフッサール現象学にアプローチする上で一つのハードルとなっています。

その点、この『フッサール・セレクション』はフッサール自身が書いたものを体系的に整理した一冊となっていますので、フッサール現象学にアプローチする最初の一歩としては最適だと言えますし、この本を読んだ時に気になった文章が書かれている本を次に読んでみる・・・といった読み方もできる本でしょう。

フッサール現象学は、現代思想におけるその重要性から日本でも優れた解説書がいくつも出版されていますが、やはりフッサールの思想を理解するにはフッサール自身の言葉に耳を傾けるのが一番ですので、何から読めば良いのか分からない!という方は、この一冊から初めて見るのはいかがでしょうか?

フッサールは、真理を追究する上でいかなる態度を持って物事や世界を観察し、思考すれば良いのかを考え抜き、後の世の学問の基盤となる「ものの考え方」の一つの可能性を示しました。それが現象学です。

サルトルやレヴィナス、デリダといった現在でも非常によく読まれ、参照される哲学者の思想を理解する上でもフッサール現象学への理解は必須だと言えるでしょう。

フッサールは現象学を確立する上で非常に多くの新しい概念を生み出しました。今回はその中のごく一部しかご紹介できておりません。ですので、是非フッサール自身の言葉に触れてみてください。

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