制約こそが文化を作り出す
フランス料理のシェフ・ケンが戦国時代にタイムスリップし、織田信長の料理人になる――という、設定だけを聞くとどこかにありそうな物語ですが、「食」という日常性の高いトピックがダイナミックな物語のトリガーとなっていて、壮大な物語や歴史物が苦手な方にもおすすめできます。とりわけ、「制約」が上手に効いているため、アイディアの奇抜さや伏線が映えていて、演出面でも際立つ作品です。
ケンは食材をいかにして調達するか、既存の調理道具がない中でいかにして調理するか、食材をいかに保存するかという工夫を通じながら、戦国時代なりのフレンチを実現させます。その中では、戦国時代において食べてはいけない食材は何か、戦の際に食べられて精のつくものは何か――という時代特有の配慮も欠かせません。この作品は単に、「西洋」料理を「東洋」で作る、というだけでなく「現代の」料理を「過去で」作るという、時間と空間、二重の点で異なる文化の受容と伝播を描いているのです。
これと同様の問題は、現代の私達にも十分見られるものです。日本で食べる外国料理と本場で食べる料理の違いに驚いたことのある人は多いと思います。また、ユニークな日本料理、例えばカリフォルニアロールに代表される、日本ではあまり見たことのないような寿司を世界各地で見たことのある人も多いことでしょう。こうした不思議な日本料理は、単に人々の嗜好だけが作り出すのではありません。宗教的な配慮や、その国々の職人制度、輸送技術といった構造的な側面が作り出すものでもあります。文化の受容に内在する環境やテクノロジー、制度といった構造的側面を、一見特殊な舞台設定でうまく見せてくれる作品です。
また、もう一点注目すべきは、ケンの柔軟性でしょう。生き死にがかかっている戦国時代なので、当たり前といえば当たり前ですが、彼は「正統なフランス料理」にこだわることなく、様々な技法、材料を組み合わせながら料理を作り上げます。目の前の人々のニーズに合わせながら出来る限りの最善を尽くし、人が生きるための料理を作るケンは、異文化に適応し、いいところを享受しながら自分なりのアウトプットを出し続ける、最強の「グローバル人材」とも言えるかもしれません。
異質な他者を理解することの難しさ、ともに生きることの意外な簡単さ
「現在地球には数百種類の異星人が行き交い生活している 気づいていないのは地球人だけなのだ」――こうしたモノローグから始まるこの漫画は、多種多様な宇宙人たちが織り成す事件に巻き込まれる地球人との「異文化交流」をめぐるトラブルによって成り立っていますが、読み手をハラハラさせつつも、全体的に非常に落ち着いたトーンで進んでいきます。狂言回しの役割を果たす主人公・バカ王子がもつ間が抜けた雰囲気のせいか、全体に冷めたムードのキャラクターが多いためでしょうか、すごく感情移入できるようなお話では決してありませんが、彼らの「交流」をどこかから傍観している気分になれます。
「宇宙人」を描いていますが、異質性をもった他者、異文化の中に生きる他者、またそれに対峙した人々のすがたを少しリアルに(そして少しヘンテコに)書くという点では、異文化理解を考える上でも興味深い素材かと思います。例えば、暴力的とされる異星人同士が衝突しないのは、その土地固有の文化(なんと「野球」)があるためだったり、ある人々が持っていると言われている特徴と、実際にその行動を見た印象が全く違っていたり。あるいは、大人よりも子供のほうが、異質性をもつ他者に対する反応が素直で、身構えていなかったりするといったこともあります。
『HUNTER×HUNTER』や『幽☆遊☆白書』といった作品にも強く見られる特徴ですが、この漫画は「悪役」が定められていません。「悪役」として描かれていても、それなりに合理的な目的があり、冷静な目で見ると主人公側が侵略者であったり、倫理的に問題がある行動をしていたりすることも少なくありません(とくに『幽☆遊☆白書』は、初期の設定をひっくり返すような真実が結末近くで分かったため、驚いた人もいたのではないでしょうか)。
『レベルE』は、ある状況の中では「善人」が「悪人」になってもおかしくない、そうした状況をより遠くから描いているように思います。近年、異質な存在への寛容性や理解といった主題は、社会科学の研究を行う上でも注目されています。その中で私たちは、どうしても「こういう文化の中で育った人々だから」「彼らは少数派だから」という見方を捨てられない瞬間があるのではないかと思います。そうした中で、「いい」「悪い」存在を勝手に頭の中で定めないために、自分たちも含めた社会を俯瞰する、その方法のヒントを与えてくれます。
ただ生きているだけで苦労するから、国際移動はおもしろい
代表作『テルマエ・ロマエ』など、異文化や異なる社会に対する感性が豊かに発揮されているヤマザキマリの作品群。その一方で、北海道の地方都市を舞台にした『ルミとマヤとその周辺』など、ローカルな社会を情感豊かに綴った作品群も魅力的です。おそらく著者自身のキャリアや生い立ちに基づく「ローカル」と「グローバル」を繋ぐ作品が、『涼子さんの言うことには』。母親の命により、14歳の主人公・ルミは夏休みに母親の友人を訪ね歩きながら、ヨーロッパの周遊旅行を行うことになります。もちろん、ホームシックあり、トラブルありで、彼女の旅はなかなかうまくいくものではありません。
この作品は、驚くほど「普通」です。おそらく情報量の詰まった強烈な異文化体験を追体験したい人なら、著者の別作品を読まれたほうがいいでしょう。ただ、旅先で触れ合うドイツやイタリアの人々は、外見こそ違えど、私達とあまり変わらない感性を持った人々として描かれており、ルミの戸惑いや苦労も常識で考えられる範疇のものです。おそらく本作品に出てくる人々を全員日本人として描いたとしても、それほど違和感なく受け取られるでしょう。しかし、この作品は世界のどこにでもいるような人々との、どこにでもあるような心温まる交流を描くことによって、いつもと違う空間と時間を過ごす彼女の「旅」が内在的に有している異質性を際立たせているのではないでしょうか。
この作品が描いているものは、『レベルE』で描かれるような異文化体験の前の段階としての、自己目的化された移動です。どこかに行くこと、誰かに会うことが目的なのではなく、宿泊、公共交通機関を通じた移動、食事、買い物といったひとつひとつが、すでに目的なのです。その中で、ルミは絵葉書ひとつ買うにも苦労し、言葉の通じなさに苦労し、時差ボケで眠り、通信費がかかるため母親とは短時間の電話ですませます。ひとつひとつは淡々としていますが、こうした要素こそが移動を形成しており、確かに彼女の「冒険」を作り上げているのです。特に確固たる目的はないが、移動の過程で得られる経験、そして自分の生活圏の中にいてはできない体験こそが涼子さんがルミにさせたかった「旅」なのではないかと思います。