源氏物語を何度も読破し、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫らに影響を受けたという純文学作家、田中慎弥。2012年に芥川龍之介賞を受賞した彼のおすすめ5作品をご紹介します。
1972年に山口県で生まれた田中慎弥。2012年の芥川賞受賞会見での「もらっといてやる」発言が話題となり一躍時の人となったことで知られていますが、彼は作家としてデビューした2005年以降、『図書準備室』『切れた鎖』『神様のいない日本シリーズ』『第三紀層の魚』で4度の芥川賞候補に挙がった経歴のある純文学作家です。また2008年に『蛹』で川端康成文学賞を史上最年少受賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞するなどその実力は折り紙付き。2012年には『共喰い』で5度目の芥川賞候補となり、遂に芥川龍之介賞受賞に至りました。
幼少期から読書に親しんだ田中慎弥は高校卒業後、一切の職歴を持たず読書と創作に没頭する日々を過ごしたそうです。そんな彼が敬愛するのは川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫をはじめとした昭和の文豪と呼ばれる作家の面々。自身の創作において多大な影響を受けた特別な存在であることを明かしています。また彼はパソコンも携帯電話も所有しておらず、現在も原稿用紙に手書きで執筆を行なっているとのこと。まるで彼自身が昭和の文豪であるようですね。
今回は独自のスタイルを貫き名作を生み出し続けている純文学作家、田中慎弥のおすすめ5作品をご紹介します。
最初にご紹介するのは2012年、4度にわたる候補の末に芥川龍之介賞受賞に至った田中慎弥の代表作『共喰い』です。本書は純文学作品では異例の計20万部を超えるベストセラーとなり、翌年には青山真治監督、菅田将暉主演で映画化されました。
物語の舞台は1988年の夏。17歳の男子高校生である遠馬は父の円とその愛人、琴子とともに川辺と呼ばれる地域で暮らしています。円には性交時に相手に暴力を振るってしまう悪癖があり、琴子の身体にはいつも痣が絶えません。遠馬はそんな父の姿を見て自身に流れる父の血を恐れており、自分もいつか恋人の千種に手を上げてしまうのではないかという不安を抱いています。
- 著者
- 田中 慎弥
- 出版日
- 2013-01-18
迫力のあるストーリーと激しい筆致に、田中慎弥の実力を思い知らされる傑作です。
主人公の遠馬とその恋人である千種。父の円と愛人の琴子。危ういバランスながらも良好な人間関係を保っていた彼らには琴子の妊娠発覚を機に不穏な空気が立ち込め始めます。愛と性の狭間で揺れる17歳の遠馬。その心情描写の巧みさに、読者はまず息を飲まされることでしょう。
物語は夏祭りの日、神社で起こった事件をきっかけに転がるような急展開を見せます。それは遂に千種に手を出してしまった遠馬がようやく彼女に許され、待ち合わせをしていた夜を裏切るかのように起こりました。ここでは暴力的な父と、自身に流れる父の血に翻弄される遠馬の様子が生々しく描かれており、自宅から川を挟んだところで魚屋を営む遠馬の生みの親、仁子の登場によって物語は壮絶な結末へと向かいます。
田中慎弥による、目も当てられないストーリー。しかしそこは激しい愛のかたちが切実に描き表されています。
また併録の短編「第三紀層の魚」は曽祖父との関係を通して成長していく思春期の少年の姿が描かれた素晴らしい作品となっています。田中慎弥の凄さがわかる1冊。是非読んでみてください。
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本作は2006年に初めて芥川賞候補となった短編小説「図書準備室」と新潮新人文学賞を受賞したデビュー作「冷たい水の羊」の2編が収められた作品集です。どちらも圧倒的な筆力で描かれた前衛的な作風の純文学作品となっており、初期の田中慎弥の魅力を存分に感じられる1冊です。
表題作「図書準備室」は30歳を過ぎても働かず母親に金を無心して生きている「私」が祖父の法要の席で伯母に「なぜ働かないのか」を問われ、「私」がその理由を一方的に語り続ける様を描いた作品です。本作の大半を占めるのはふざけているようにも聞こえる「私」の独白。軽妙な丁寧口調で語られたのは、中学時代のある思い出でした。
- 著者
- 田中 慎弥
- 出版日
- 2012-04-27
「あのう、すみません。すみませんていうのは働かないとかやりたいことがないとかっていうことについてじゃなくて、いま私がこうやって喋らせてもらってることに関してで。そうなるともう一度謝っておかないといけません、まだ喋らせてもらうつもりなんで。ええとつまり、働く気はないけど喋る気はあるっていうことです。」(『図書準備室』より引用)
この作品の主人公同様、田中慎弥は高校卒業後、アルバイトを含めた一切の職歴がないことを明かしています。ともすると本作は著者の私小説なのかと思わされますが、その期待は良い意味で裏切られます。
独白の序盤、「私」は「なぜ働かないのか」について語りますが、その主題は徐々に「自分はなぜ中学時代、通学路で会うある教師にあいさつをしなかったのか」という話題にすり替えられていきます。そこで語られるのは中学時代のある記憶。古参の教師「吉岡」についてのある噂を耳にした「私」はその真相を本人に問い詰めたというのです。吉岡は「私」に促されるまま、秘められていた戦時中の凄惨な体験を語ります。彼は淡々とした口調で告白しますが、それはよく聞けば懺悔でした。
田中慎弥は独白の終盤、吉岡の秘密を知った「私」の心の動きを、本人に語らせるスタイルで描写しています。そこには彼にしか持ち得ない鋭い感性とユーモアが多分に含まれており、読者を唸らせることと思います。
また併録の「冷たい水の羊」の執筆に、彼は20歳からの10年を費やしたことを言及しています。デビュー作となったこちらも、気鋭の作家田中慎弥の荒削りで前衛的な初期の傑作。一読の価値があります。
芥川賞候補に挙げられた『神様のいない日本シリーズ』は、父からその息子へ向けて独白形式で語られる、家族をテーマにした物語です。父はいじめが原因で部屋に閉じこもる息子の香折(かおり)に向けて、自分の少年時代を語ります。
この作品のタイトルとなった「神様のいない日本シリーズ」とは、西武ライオンズが広島カープに3連敗4連勝での大逆転勝利を収めた1986年の日本シリーズのことです。香折の父が息子に向けて語ったのは、彼が少年だった同時期に家族のために野球を諦め、演劇に打ち込んだ「過去」でした。
- 著者
- 田中 慎弥
- 出版日
- 2012-04-10
父は作中で、野球を諦めた自分に「野球をやっているか」と問いかける葉書が届いたことを語ります。その差出人は香折の父の父、つまり香折の祖父ですが、彼は野球賭博絡みのトラブルで失踪しており、少年だった父の心は揺れ動きます。会うことのできない父の願いを汲むべきか、野球を嫌悪する母に従い、野球への思いを断ち切るべきなのか。それと同時期、彼は文化祭で片思いの相手とある劇を上演することになります。
作中で語られる父の思い。それはいじめに悩み今まさに野球をやめようとしている息子への問いかけとなるのでした。静かに胸に響く、おすすめの1作です。
表題作「切れた鎖」のほか、川端康成文学賞を当時最年少で受賞した短編小説「蛹」、妻が身ごもった子供についての妄想に取り憑かれた男の姿を描いた「不意の償い」の3作品を収録し、作品集として三島由紀夫賞を受賞した本作。田中慎弥らしい重みのある文体を生かした力作が揃っており、大変読み応えのある1冊です。
表題作「切れた鎖」の舞台は海峡の漁村・赤間関。コンクリート製造・販売を生業とし、かつて寂れた漁村に繁栄をもたらした明治時代から続く名家・桜井家の一人娘である梅代は、出戻ってきた娘の美佐子と、美佐子が連れてきた幼稚園に通う孫の美佐絵と暮らしています。
- 著者
- 田中 慎弥
- 出版日
- 2010-08-28
3人が暮らす古い屋敷の裏には在日朝鮮人の教会が建っており、梅代はその教会を「いんちき教会」と呼んで憎んでいます。それはかつて梅代の夫だった男が教会の女に熱を上げた挙句に自分を捨て、行方知らずとなってしまったからでした。一方娘の美佐子には子供の頃から男遊びの癖があり、実家に戻ってからも日常的に美佐絵を梅代に預けては複数の男と逢引する日々を過ごしています。
そんなある日、いつものように男の元へ出掛けた美佐子が夜になっても家へ帰らず、古い屋敷には梅代と美佐絵だけが取り残されてしまいました。本作には梅代が美佐子の家出をきっかけに桜井家の過去に思いを馳せ、忌まわしい記憶を呼び起こしていく過程が情緒的に描かれています。
一族の女に流れる「血」の恐ろしさを描いた救いようのないストーリーと田中慎弥の筆致による漁村の風景や古い屋敷、教会などの情景描写が相乗効果を生み、非常に美しく迫力のある物語として読者の胸に迫る作品だと思います。ファン必読の1作です。
また併録の「蛹」は人間のような自我を持って生まれたカブトムシの蛹を主人公にした異色の作品。何を描いても面白い田中慎弥の持つ多彩な魅力を感じられます。是非読んでみてくださいね。
本書は田中慎弥が新聞や文芸誌に寄稿したエッセイをまとめた1冊です。芥川賞受賞会見での「もらっといてやる」発言が話題となり、世間での彼のイメージが定着してしまった後の2012年4月に刊行されたため、これを読んで印象が変わった、というファンも多いのではないでしょうか。高卒、職歴なしの田中慎弥がいかにして芥川賞作家になったのか。彼は作中、淡々とした筆致で生の思考を綴っています。
本作の前半部分は田中慎弥の旅行記です。彼は自身の見たものや感じたことを、エッセイの中で詳細に記録しています。その行間からは彼の価値観を垣間見ることができ、ファンにとっては非常に興味深い内容となっているでしょう。
- 著者
- 田中 慎弥
- 出版日
また芥川賞受賞に際して感じたことをまとめた「組織と個人」という記事では、面識のない地方政治家や経済人からお祝いの花や電報が届いたことに関して、彼らは自分の立場と権威のために作家を利用していると述べた後、こうも言っています。
「文学が好きなら、ドストエフスキーの何を読みました? 「源氏物語」は? あなたがたと違って高卒の私でも、原文くらいは読んでますけど? 」(『これからもそうだ。』より引用)
『共喰い』をはじめ数々の名作を生んだ孤高の純文学作家、田中慎弥の素顔に迫るエッセイ集。彼の著作を堪能した後には、是非読んで頂きたい1冊です。
いかがでしたでしょうか。優れた作品を多数発表し、現代日本を代表する純文学作家となった田中慎弥。是非読んでみてくださいね。