吉田茂ほどワンマンという言葉が似合う男はいないでしょう。しかし、それは従来から使われていたワンマンの意味とは違い、当時の日本政府内において役立つ男は吉田茂ひとりだけ、という意味でした。
吉田茂は1878年9月22日、高知県幡多郡宿毛村で竹内綱の五男として生まれ、横浜の実業家・吉田健三に養子として出されます。
養父であった吉田健三は実業家として多くの事業を成功に収め、気位が高いが正義感の非常に強い人物でした。しかし、その健三も40歳という若さで亡くなります。その時の遺産が、現在の価値にすると25億円ほどで、そのお金が彼を助けたのです。
1901年9月に学習院大学に進み、そこで後の首相となる広田弘毅とと出会います。その後も友情は続き、生涯の付き合いとなりました。
その後吉田茂は外交官として外務省に入省。その時のエピソードとして、父である竹内綱から名刀「関兼光」を贈られ、「官員となれば賄賂も多いが、その誘惑をこの名刀でたち切れ」と諭され、彼はその遺訓を一生守り続けるのでした。
1907年3月、最初の着任地、奉天に行きます。1908年10月に、任期を満了して帰国しました。翌年には、牧野雪子と結婚してロンドンに赴任することになります。1918年12月の第一次対戦後のパリ講和条約には秘書官として参加。この会議で、彼は欧米の壁の厚さに接して日本が無力だということを悟ります。
1927年5月、日本軍は中国の権益拡大のため山東出兵を行います。その時期吉田茂は、森政務次官の下で力を発揮。翌年には、外務次官に推薦され受諾しますが、その矢先に張作霖爆殺事件が起こりました。満州事変勃発後、戦線の不拡大を唱えるも、1932年1月に上海事変が起こります。日本人の安全確保の名目で派兵が行われますが、彼は一貫して反対していました。しかし、この頃彼は日中事変とは関係のないイタリアに赴任していました。
1936年3月、広田弘毅内閣が誕生。吉田茂は駐英大使に赴任することとなりました。この頃彼はフランスに旅行して、トレードマークとなる葉巻「ヘンリー・クレイ」と出会うのでした。
同時期、戦争の足音は強まるばかりで、日独伊三国同盟が結ばれます。吉田茂はこの同盟のもたらす危険性を熟知していて、実際に日本を第二次世界大戦へと引きずり込んでいくのです。
駐英での戦争不拡大の努力にも関わらず、関東軍は戦争の拡大を図りました。そして1938年9月に帰国命令が出ます。また、1938年12月に三女和子と、そのとき交流のあった白洲次郎の紹介で麻生鉱業社長の麻生太賀吉が結婚。そして生まれたのが、麻生太郎でした。
1945年8月に終戦。そして、厚木基地にマッカーサーが降り立ちました。9月には浦賀沖に停泊するミズーリー号船上で降伏文書の調印式が行われます。その年に吉田茂は、幣原内閣の外相に就任しました。
1946年1月、吉田茂はいよいよ自由党を創設して第1代の総裁となり、第1次吉田内閣が誕生しました。同時期の3月には白洲次郎が日本国憲法を書き上げます。吉田茂はGHQと対等に渡り合い、一歩も譲りませんでした。そのためGHQ内の民政局からは嫌われましたが、彼は一向に気にしませんでした。
戦後、民主主義が続く中で自由民主党を作ったのが吉田茂であり、平和憲法の中で宰相という国を代表する者として、「他国になめられない」という風潮を作った反骨の人でありました。
1:総理大臣に5回就任した
吉田は内閣総理大臣に5回も指名されています。ちなみに、それ以前の最多記録は初代大統領・伊藤博文の4回で、約45年ぶりの更新となりました。
2:3つの条件付きで総理大臣になった
彼は総理大臣に指名される前に、ある条件を提示していたそうです。それは「金作りはやらない」「閣僚の選考には口出し無用」「辞めたいときに辞める」という3つでした。この自分勝手な条件は、当時GHQによって公職追放されていた鳩山一郎を怒らせましたが、GHQの動向を気にするあまり首を横に振れず、結果的に吉田内閣は発足します。
3:鳩山一郎を翻弄した「解散」 とは
上述の鳩山一郎の公職追放が解けると鳩山は首相を代われと迫ります。吉田は上述の条件を提示する際「戻ってきたらいつでも譲る」とも言ったからです。しかし彼はまだやり残したことがあるといって「抜き打ち解散」と呼ばれる強攻策を使います。
解散後、吉田には「日本独立に一役買った」との世論からの支持がり、また鳩山は突然の解散のせいで選挙の準備などができず、 結果吉田が当選し、第4次吉田内閣が発足することになりました。
4:調印の責任を1人で背負った
サンフランシスコ講和会議の際、吉田をはじめとする全権委員団が署名に赴きます。しかし調印後、吉田は全権委員の池田勇人(後の総理大臣)に「次の調印には立ち会うな」と言いました。 彼の真意は、日米安全保障条約の署名を一人で行い、責任を一人で負うことにありました。
吉田以外の全権委員を安保反対派から守るための厳しい一言だったのです。
1:マッカーサーとは友達のような関係だった
吉田とマッカーサー(GHQ長官)は個人的な交友関係があったとされます。吉田が「450万トンの食糧を輸入しないと日本は餓死する」とマッカーサーに訴えますが、日本に輸入された食料は70万トンほどでした。しかし餓死者など出なかったため、日本の統計のいい加減さに難癖を付けられます。
しかし吉田は「日本の統計が正確なら無謀な戦争なんかしなかったし、戦ったとしても日本が勝っていたはずですよ」と返し、マッカーサーを大笑いさせたそうです。
2:痔だったために自分の結婚式を欠席した
吉田は一人目の妻との結婚の際、痔を患っていたそうです。そのことを伝えられた妻の父は吉田にすぐに治すよう伝えます。 すると彼は結婚式を欠席し、本人の代わりに新郎の椅子に座らせられたのは家宝の太刀だったそうです。
3:客人を盛大にもてなした
沖縄返還を実現した佐藤栄作が総理大臣だった頃、吉田の家を訪ねたことがありました。なんとその時吉田は、羽織に袴を着て出迎えると言う大層な歓迎振りだったそうです。 さらに必ず佐藤を上座に座らせ、彼を苗字ではなく「総理」と呼びました。後に吉田が具合を悪くしたとき、お見舞いに簡単に行きづらくなったといいます。
『宰相吉田茂』は、戦後の混乱期を描いた作品。敗戦国日本がGHQから様々な難題を押し付けられ、その難題に立ち向かっていく宰相吉田茂を書いています。日本の政治家の中でも圧倒的な外交手腕を持った吉田が、GHQと渡り合いながら、日本の舵取りをしていくのです。吉田茂が日本の政党政治の始まりであり、自由民主党の初総裁にして敗戦期の日本の安全保障や経済復興を成し遂げて行く様を物語っています。
- 著者
- 高坂 正尭
- 出版日
吉田茂を通して、敗戦時の混乱の最中でのGHQとのやり取り、そして日本が取るべき進路について語られています。更に本書では岸信夫、池田勇人をあげており、対比しながら宰相としての吉田茂が評価されています。
また、賞賛ばかりをするのではなく、様々な観点から評価されていて、高坂正堯の分析力の高さ伺えます。戦後の政治を知る上で必要な1冊です。
敗戦国であるがゆえに完全非武装化という丸裸状態になった日本を、アメリカの軍事の保護下に収め、戦争の完全放棄という日本国憲法の作成に導いた功績は大きいでしょう。本書の中で国際政治学者・井上寿一は、外交感覚を持った正論の通すことのできる政治家である、と評価をしています。
本のタイトル『吉田茂と昭和史』にもあるように吉田茂イコール昭和史なのです。
- 著者
- 井上 寿一
- 出版日
- 2009-06-18
吉田茂は、戦後の政治体制と安全保障を築いた人物ともいえます。
戦後の日本国憲法を作成した白洲次郎と協議を重ね、GHQに対しても曲げない姿勢を貫き、確立させました。また親米という路線を築き、アメリカの軍事力で日本の平和を維持する礎も築きます。安全保障を知る上でも最適の1冊です。
この『吉田茂という逆説』という本の中で、「昭和という時代の政治家の中で語られる政治家は、三人である」と保坂正康は述べています。その三人とは東條英機・吉田茂・田中角栄。
確かに彼らほど、印象に残る政治家はいなかったように思われます。その中でも、第二次世界大戦を挟み、戦前・戦後を生き抜いた政治家、吉田茂。明治時代から始まった大国への仲間入りを、歴史観を持って書いています。
- 著者
- 保阪 正康
- 出版日
- 2003-05-23
戦前、吉田茂は一貫して日独伊の三国同盟に反対していました。それは彼が外務省で身につけた国際感覚であったろうし、歴史観であったろうと思われます。
また彼は独特の思想を持っており、あくまでも大衆と指導者が迎合することを拒んだ認識の高さを持ち合わせていました。このように、エリートと大衆を明らかに区別しており、現在においては受け入れられないような政治家と言えるかもしれません。しかし一方で、日本国という枠組みの中では、本当に必要なリーダーシップであったと思われます。
大衆迎合をしない政治家が少なくなっている現代に読んでみると、おもしろい1冊でしょう。
戦前からイタリア・イギリスの大使を歴任して、そして敗戦後のGHQの占領下、もっとも長く総理大臣を努めた吉田茂。
GHQは日本の民主主義の影響を強めますが、吉田茂ほど民主主義から逸脱した政治家が、なぜこの占領下において宰相を勤め上げれたのかが書いてあります。彼は、天皇陛下の退位を阻むことで自分の持っている尊王を表現していました。
- 著者
- 原 彬久
- 出版日
- 2005-10-20
彼は昭和の歴史の中で色褪せることなく、軍部の台頭の中で怯むこともなく、反戦和平派を貫いた人です。実の父、養父、そして岳父の三人の父を持つ、一人の宰相でした。GHQからの厳しい要求にも怯むことなく、日本国憲法、経済発展、そして昭和天皇の廃止に反対の異を唱え、昭和政治の礎を築いた様子が描かれています。
近代日本からの幕開けを欧米列強から守り、対等を目指した吉田茂自身の心境が書かれています。
江戸時代からの鎖国政策が終わり、尊王攘夷を唱える日本の若者も欧米列強の軍事力・技術力を知り、自国の弱さを知ります。そして日本は、産業の振興と富国強兵へと向かっていきます。
- 著者
- 吉田 茂
- 出版日
1853年のペリー来航からわずか7年後、日本は、日米通称条約批准のため、わずか250トンの船で太平洋を渡りました。それは、日本の近代史の幕開けであり、日本という小さな島国が世界に向かって船出する第一歩でもありました。幕府は開国すると決定し、攘夷を捨てたようにも見えましたが、ここから日本人の気概と野心を見る思いでもありました。
ここで日本は、欧米列強に侵食された清国とは一線を画した富国強兵策をとります。日本が独立国家として欧米列強と対等に交渉出来る力を持つことが必要だと、日本の指導者達は認識していました。ここが、吉田茂が本書で書きたかった本質であろうと思われます。吉田茂を知るには必要な1冊です。