デビュー以降、ハードボイルド小説の旗手として、数々の作品を手掛けてきた矢作俊彦。その活躍は小説家としてだけに留まらず、映画や漫画の業界にまで広がっています。そんな矢作俊彦の名作を活動初期の作品から近作まで幅広くご紹介します。
1950年、横浜市に生を受けた矢作俊彦は、当初映画監督を志望していました。京都撮影所で見習いの助監督として働いていましたが、退職することになり、東京に戻りシナリオを執筆することになります。そのシナリオに関して「小説だ」との評価を受けた彼は、『ミステリマガジン』の編集長に見せたところ、短編小説「抱きしめたい」が同誌に掲載されました。1972年、小説家の矢作俊彦の誕生です。
その後、70年代には短編小説や漫画のみならず、ラジオやTVドラマの構成作家としても活動します。その中で、1977年に初の長編小説『マイク・ハマーへ伝言』を出版し、ハードボイルド小説の旗手として注目を集めます。その後もコンスタントに作品を生み出し続け、ベストセラー作家として活動されました。
1990年代以降は、さらに活動範囲を広げ、映画業界にも進出します。『神様のピンチヒッター』や『ザ・ギャンブラー』などの映画作品を監督。また、2004年には『ららら科學の子』で三島由紀夫賞を受賞しました。
ハードボイルドについて、心情描写をせずに登場人物の行動や物を通して内面を表す文体だと評する矢作俊彦の作品は、一見淡々と情景を描いたように思えるもその実、登場人物の強い心を感じさせる、そんな特徴が作品に多く表れています。
自らも外交官で息子も同じ道を進んでほしい――そう願う父から呼び寄せられ訪れたメキシコは、見たこともない恋と詩と革命の入り乱れる世界が広がっていたのです。明治時代から昭和にかけて生きた詩人、堀口大學の若かりし頃、スペイン在住の際に出会った景色、事件、そして情愛を描いた2005年発表の作品です。
- 著者
- 矢作 俊彦
- 出版日
- 2008-12-04
スペインに渡るまでに詩と出会いのめり込んでゆくまでの中で、大勢の文豪達が垣間見えます。そのあたりから、すでにこの作品は歴史小説なのだと主張しています。日本という国が明治維新以後、どんなバランスで世界と渡り合っていたのか、その答えを感じる作品です。
外交官になってほしい、自分と同じ道を歩んでほしいと願う堀口の父は彼をスペインに呼び寄せます。その要請に応えスペインへ渡り、父と新しい義母、腹違いの弟妹と生活することになるのです。父親の仕事が外交官であり、父はその仕事を「言葉でやる戦争だよ」と告げています。その通り、この作品は全体を通してゆっくりとした穏やかな時間が流れているように見えて、その奥底に戦争の気配を常にたゆたわせているような作品です。
最初は言葉も覚束ない堀口がやがてメキシコ革命の混乱に巻き込まれ、メキシコの大統領の姪フエセラと出会い、そのやり取りを通して成長していく姿にページを繰る手が止まりません。
神奈川県警に勤める二村永爾は酒場で出会ったビリーが、先だって起きた殺人事件に関係していると思われたのを知ります。しかしその男を逃がしたために、捜査一課から外されました。その後、先輩刑事から私的に頼まれた国際的なヴァイオリニストの養母である平岡玲子のマンションを訪い、壁に拳銃弾を発見します。二村は彼女が事件に巻き込まれたことに気付くのです。
2004年発表の日本冒険小説協会大賞も受賞したハードボイルド小説です。
- 著者
- 矢作 俊彦
- 出版日
主人公は真面目な刑事であったからこそ、ビリーという酒場で出会った友人を手助けします。後にそれが捜査から外される一因となり、とある事件に巻き込まれるのです。次々と描かれる場面と、次々と登場してくる人物達に翻弄されるがまま、物語を読み進めることになるでしょう。あえて関係がなかったかのように思われたそれらが一つに収束するラストに、ほろ苦い韻を感じるに違いありません。アメリカとの関係も、絶妙に描き出されています。
舞台は2000年の横浜や横須賀で現代物と言ってよい時期でありながらも、少しばかり懐かしい空気を感じるのは、作者特有の空気がこの作品にも醸し出されているのでしょう。レイモンド・チャンドラー著の同名作『長いお別れ』のオマージュに溢れており、同作を読んだ方はにやりとする場面もあるに違いません。同じく二村を主人公とした作品がこの作品以前に刊行されていますが、この一作だけでも読み応えがあります。
殺人未遂に問われ中国に密航した青年は、30年ぶりにまた密入国という形で日本に戻ってきました。その間に目まぐるしく変化を遂げた日本が彼の視線を通して描かれます。段階的にその変化を見てきたわけでない主人公にとって、日本は故郷でありながらまるで知らない世界のようでした。その中で、彼がどう何を思うのかが語られています。
2003年発表の三島由紀夫賞を受賞した作品です。
- 著者
- 矢作 俊彦
- 出版日
学生運動と聞くと遠い過去のように感じるかもしれません。それだけの時間を逃亡した先の中国で過ごした主人公が故郷である日本へ戻ってきて、目の当たりにする30年後の日本はどれほど他人行儀に感じるでしょうか。
まるで昔話の浦島太郎になったような感覚に陥ったことであろう主人公は、それでも自棄になるわけではありませんでした。環境も価値観も何もかもが変わり果てた世界で、彼は自分を探しました。何か大きな事件が起きるわけでもなく、ただ淡々とその情景が描き出されていく様に、現代を客観的に見つめたくなります。また物語が進んだ果てに掴む彼の決断は驚くものに違いありません。ぜひ注目すべき点です。
物語の中で、矢作俊彦の特徴ともいえるアメリカや中国の歴史的な背景も淡々と描かれており、自らもタイムスリップしてきたような奇妙な感覚を覚えるでしょう。彼が中国に渡った頃――学生運動が盛んだった時代を体感した人もそうでない人も、色々と考えさせられる作品です。
スピード違反でパトカーに追跡され首都高速から海へ墜落した松本茂樹とポルシェ。そのポルシェを共有していたマイク・ハマーたち仲間5人はその死をいぶかしむのです。そうして真相にたどり着いた彼らは、警察への復讐計画を立て始めました――。
1977年に発表された初の長編小説です。
- 著者
- 矢作 俊彦
- 出版日
物語の始まりは、首都高速から海へ落ちたという松本の事故死に疑いが起き上がってきたことからでした。彼の49日に仲間が行うとしたパーティに向けて、少しずつ互いの思いや過去、それらがどのように影響してきたかが、丁寧に綴られていきます。
事故死した松本を悼んだ仲間の思いは、彼と共に沈んだポルシェにも向けられました。それもそのはず、彼らは共有していたポルシェに、礼子という女性を重ねて見ていたからです。仲間はみな、彼女のことを好いていました。だからこそ松本の事故の理由を明らかにしたいと、それぞれが心に思うのです。
高度成長時代の最中が舞台のため、現代の若者とはまた違った、大人になる過程にある若者特有らしい青春の色を感じます。終盤、パトカーとのカーチェイスを描写したシーンには、手に汗を握ることでしょう。車が好きな人なら、それらの詳しい描写にも心躍らせることができます。少しばかりの爽快感と、一抹の苦みを感じる作品です。
父親が日本びいきだったアメリカ黒人の「私」は、CNN特派員として、第二次世界大戦以降東西で分けられた日本へやって来ます。昭和天皇崩御の式典が行われいる最中、京都でテレビカメラに映った田中角栄という一人の老人男性にインタヴューするために。実在の人物も多く登場し、もしかするとあったかもしれない日本の姿を描いた1997年発表の作品です。
- 著者
- 矢作 俊彦
- 出版日
- 2009-11-25
東西で分けられたというと、ドイツのベルリンの壁を連想できますが、まさに同じように、この小説の舞台は、共産主義になった東日本と資本主義になった西日本として壁が隔てている世界です。大阪が首都になるという世界が新鮮に感じることでしょう。日本のシンボルである富士山も重要な場所として登場します。
主人公は日本人ではなく父が日本びいきだというアメリカ黒人のため、あくまでも客観的にその姿を眺めることができます。またその主人公が話す少し間違った、それでいて新鮮な日本のことわざに笑っているうちに、物語へのめり込んでいるでしょう。
日本に来た主人公はCNNの仕事と並行して、父が恋い焦がれていたハナコという女性についても調べていきます。その中で少しずつ明らかにされていく巨大な陰謀に、複雑に絡まった糸が解けるような感覚を覚えます。たくさんの実在の人物の登場や、パロディされた部分に気付くことができたなら、にやりとすることができるに違いありません。
ハードボイルドとした淡々と語られる文章の中で、見え隠れする人の感情や大きな謎、歴史事変が描かれた作品が多い矢作俊彦。オマージュされた作品も多いのでとっつきやすい部分もあります。是非、一度作品を手に取ってみてください。