マルティン・ハイデガーのおすすめ本3選!戦後の思想界に影響を与えた哲学者

更新:2021.12.20

マルティン・ハイデガーは存在論的実存哲学を形成し、戦後の思想界に影響を与えた哲学者の一人です。そんなハイデガーの思想を、彼の著作からご紹介いたします。

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ハイデガーの生涯と思想的背景

マルティン・ハイデガーは1889年に帝政ドイツ西南部の小村ミスキルヒのカトリック教会職員の長子として誕生しました。

1909年にフライブルク大学へと進学し、初めは神学を学びますが理学部に移り、さらに最終的には哲学の道へと進みます。このフライブルク大学在学時代にエトムント・フッサールの『論理学研究』を読み、フッサール現象学と出会ったのです。

ハイデガーは在学中、中世哲学のアルトゥール・シュナイダー、新カント派のハインリヒ・リッケルトらに師事し哲学を学びます。24歳の時に学位論文を提出、その後第一次世界大戦が勃発し志願兵として登録されますが、心臓発作のために入院し兵役を免れました。

しかし、その翌年には再び国民軍として召集され、3年余り郵便監察業務に就きます。それと並行してリッケルトやフッサールに学びながら教授資格論文を提出し、教授資格を得た後私講師として教鞭をとるようになります。また同時にこの時期フッサールの助手も勤めるようになり、フッサールの近くで自身の思想を展開することになるのです。

1923年にはフッサールの推薦で、マールブルク大学哲学部外教授に就任し、現象学への入門講義などを担当します。翌年には当時学生だった哲学者ハンナ・アーレントと出会い、交際が始まりました。

そして1927年に、フッサールが編集する機関誌「現象学年報」の8号にハイデガーの代表作の一つである「存在と時間」の前半部を掲載するのです。この時ハイデガーは38歳、マールブルク大学の正教授に就任した年でした。

正教授となった後も精力的に講義を行いますが、ドイツ国内は徐々に戦争の機運が立ち込めてきます。ナチ党の台頭です。

1933年にはヒトラーが帝国宰相となりますが、時を同じくしてハイデガーもこの年フライブルク大学の総長に選出されます。22名の同僚とともにナチ党に入党し、この時期ナチスを支持する立場をとることになるのです。このような政治的立場によって、かつて交際関係にあったアーレントをはじめとしたユダヤ系の哲学者・研究者たちと決別することになりました。

この時期はハイデガー思想の中期とも区分され、代表作である『形而上学入門』に繋がる講義がいくつか行われています。

ナチスドイツが倒れ第二次世界大戦が集結した後、ハイデガーはナチ党に入党しナチスドイツを支援した事実を咎められ、一時期教授職からも追われることになりました。ナチスの支持者であったという過去によって思想界からも距離を置かれたハイデガーは、失意のうちに山荘にこもり隠遁生活を送るようになるのです。

1949年にフライブルク大学評議会が名誉教授として復職させたことを契機に、ハイデガーは退官教授として教職活動を再開し、晩年に至るまで多くの講演活動や執筆活動を精力的にこなしました。

また、当時影響力の強かったフッサール現象学を真っ向から批判し、その上に自身の存在論を打ち立てた20世紀最大の知の巨人とも目されたハイデガーの元には多くの研究者や学徒が訪問しています。日本からも田邊元や鈴木大拙らが訪れ、その思想を日本へと持ち帰りました。日本哲学の一つの流派である京都学派にもハイデガーの思想は大きな影響を与えたのです。

ハイデガーの思想は、フッサール現象学を乗り越えるところから端を発した存在論的実存哲学と呼ばれるものになります。フッサール現象学は今、ここにある私の認識を認めることから始まりますし、実存哲学もまた実存としての私の存在を中心に私のあり様や私との関係における世界を探求する哲学です。

ハイデガーは、これらの思想が前提とする「存在」「あるということ」がそもそもどういうことなのか?を解明しようとしました。哲学はこれまで、認識されている存在が一体なんであるのか?ということについては熱心に問うてきましたが、そもそも「存在するとはどういうことなのか?」「存在とは一体なんであるのか?」は意外にもあまり問われてきませんでした。

このようにこれまで哲学が問題としてきた認識の対象としての存在が「存在する」ということについて問い、明らかにしたことがハイデガー哲学の最大の功績と言えるでしょう。
 

世界内存在としての私『存在と時間』

まずご紹介するのが、20世紀最高の哲学書とも言われるハイデガーの代表作『存在と時間』です。原著は1927年に出版され、日本でもちくま学芸文庫や中公クラシックスをはじめ多数の翻訳が出版されています。

数多の翻訳の中でも、岩波文庫から出版されている熊野純彦訳が特にオススメです。レヴィナスやカントの翻訳で知られる訳者のハイデガー特有の硬質な文章をいかにして噛み砕いて訳するかという工夫が随所に光る訳となっています。

著者
ハイデガー
出版日
2013-04-17

『存在と時間』は20世紀最高の哲学書とも称されるほどで、20世紀以降の哲学を学ぶ上で避けて通れないほど、多くの哲学者・思想家たちに影響を与えた一冊でもあります。哲学を学びはじめたばかりの人でも題はどこかで目にしたことがあるでしょう。

では、そんな『存在と時間』でハイデガーは何を明らかにしようとしたのでしょうか。

一言でいうなれば「"ある"ということはどういうことか?」、それが『存在と時間』において最初に立てた問いです。従来の哲学は存在する対象を(正しく)認識しようとしてきた学問であると言えますが、ハイデガーはそうではなく、そもそも「物事が存在するとは一体どういうことなのか?」「存在とはなんなのか?」と考えました。

私たちは普段「ペンがある」「これはおにぎりである」というような言い方をしますが、この「ある」とは何なのかを説明するのは存外難しいものですし、「ある」ことは自明なのですから「ある」ということについてわざわざ考えを巡らすことすらないでしょう。

ハイデガーはこの自明に思える「ある」について、すなわち「存在」について自明のものと考えず、ものが「ある」とはどういうことか、無機物や動物や人間という無数の「存在」とは何なのかを考えました。

ハイデガーは存在について問う上で、まず「存在者」について明らかにしなければならないといいます。存在と存在者は一見同じことを指しているように思えますが、「存在」とは存在者である具体的事物が「ある」ということ自体を指すものであり、「存在者」はコップや猫や私など具体的に現に存在する事物のことを指すものです。

「ある」こと自体である「存在」を問うには、まず具体的に存在してしまっている「存在者」たちがどのように存在しているのかを明らかにする必要がある、とハイデガーは考えたのです。

彼は存在者の中でも特に、存在者について問うている(=存在者とは何か?を考えうる)存在である人間存在を他の存在者から区別し、人間存在のことを存在を「現」に問うている「存在」として「現存在」と呼びました。ハイデガーにおいて「現存在」とは自ら存在していながら存在について考えうる私たち人間のことを指すのです。

存在について問うためには、まずそれを問うている現存在について分析しなければならないとハイデガーは考えるわけですが、この分析は現象学的方法によってしか行いえないといいます。

現象学的方法とは、私たちの世界が客観的に認識し、分析することができない以上世界を客観的に分析することに血道をあげるのではなく、私たちの世界が確かに見えている(認識されている)という私たちの「確信」がどのように構造化されているかを分析する方法でした。

ハイデガーは現存在についても同様に、私たちが自身の実存をどのように生きているかを客観的に示すことはできず、私たち自身が自身の実存をそう確信している確信の構造として分析し示すことを試みました。これを実存論的分析といいます。

この実存論的分析に基づいて、ハイデガーは現存在のことを「世界-内-存在」として規定します。重要なのは現存在(人間)が客観的にそのような存在であるということではなく、私たちが私たち自身をそのように理解しているということをハイデガーは言っているということです。

ハイデガーはこの世界-内-存在には3つの本質的要素があると分類しています。それが以下の3つです。

1、私たちはいつも世界の「内」に存在している(少なくともそのように確信している)

2、世界の内に私と同じように数多の存在者がいる(と確信している)

3、自分の世界の内を存在している(これを内ー存在といいます)

まず、ハイデガーは私たちの身の回りの世界のことを「環境世界」と呼び、私たちはこの環境世界において他の存在者たちと「配慮的」に出会うといいます。

私たちは身の回りのものを常に配慮して、「道具的存在」として捉えます。すなわち私たちは身の回りのものを自分の関心に応じて認識しているのです。

例えば、鉛筆は何かを書きたい時には筆記用具として認識されますが、髪をまとめたい時にはかんざしとして、遊び道具として用いたい時にはサイコロとして認識されます(鉛筆をかんざしやサイコロがわりに使った経験がある方も多いのではないでしょうか)。これが私たちの「関心=配慮(気遣い)」であり、私たちの認識は常にこの気遣いと相関しているのです。

このようにして私たちは世界の内に存在している(と確信している)存在として世界と関わるのだ、とハイデガーは考えます。

ただし、この世界には現存在である私とその他の存在者だけしか存在しないわけではありません。私はこの世界には私と同じような現存在(私以外の他の人間)が無数に存在すると確信しています。ハイデガーはそもそも現存在とは共同存在であるとしています。

現存在は先見的に他の現存在と共にある存在であるという構造を持っている、というわけですね。これが、世界-内-存在の2つ目の本質的な要素です。

そして3つ目の要素が、現存在は自分の世界の内を存在している、内ー存在であるということでした。ハイデガーは内ー存在としての現存在について「心境」「了解」「話」という3つの要素から分析しています。

常に私たちは嬉しかったり、悲しかったり、怒っていたりと何らかの気分(=心境)の元にありますが、ハイデガーによると私たちはなぜそのような気分の元にいるのかは究極的には分かりません。分からないけれども私たちは常に何らかの気分の元に投げ込まれています。ハイデガーはこれを被投性と呼び、内ー存在を規定する要素の一つとしました。

私たちはこの何らかの気分と相関的に世界を見ているのです。嬉しい時や幸せな時は世界がバラ色に見えるだとか、悲しいときは世界が灰色に見えるという言い方をよくしますが、これがハイデガーのいう気分と相関的に世界を見るということです。私たちと世界の関わり方にこの気分は大きく影響しているのですね。

そして私たちはこの何らかの気分(=心境)にあることを常に「了解」しています。この了解こそが、現存在のさらなる存在可能性を示すとハイデガーは言います。

自分自身の投げ込まれた気分を了解する、すなわち自分自身を了解することを通して、私たちは次にどのような自分に目覚めれば良いのかを理解するとハイデガーは考えました。この辺りは実存主義の考え方とよく似ていますね。

この次なる自分への理解をハイデガーは投企と呼びました。ハイデガーにとって内ー存在である所の人間とは常に何らかの状況に投げ込まれていく存在なのです。

また、私たちはこのような心境と了解を言葉にして「話」すことができます。この常に言葉にする存在であるということもまた、ハイデガーによれば内ー存在の本質的要素の一つなのです。

このようにハイデガーは内ー存在たる人間の本質を「心境」「了解」「話」によって分析しますが、さしあたって普段日々の生活を営む私たちは、常に自分自身の心境を了解し、きちんと言葉にして自分自身を次になるべき己へと投企していくことに自覚的なわけではありません。

ハイデガーに言わせれば、大抵の場合共同存在は大衆へと堕落し、自身の心境を了解する話(=言葉)は単なる世間話へと零落してしまっているのです。これをハイデガーは非本来性と呼びます。

『存在と時間』の後半ではこの非本来性を克服して、本来的な生き方へと向かっていこうという主張が垣間見えるようになります。そこから死の問題や歴史の問題へと繋がっていくのですが、この『存在と時間』の後半における歴史にも本来性と非本来性があり、本来的歴史性へと向かおうとするハイデガーの指向性は、後にナチズムに傾倒したことと関連づけて評価され、後の人々によって批判されることも度々あります。

とはいえ、哲学が長らく手をつけてこなかった「在る」ということそのものを疑問視して、それを解明しようとしたことはハイデガーの最大の功績ですし、ハイデガーの打ち立てた存在論が後の哲学的思想に与えた影響を計り知れません。

その意味で、この『存在と時間』が20世紀最大の哲学書と呼ばれるに値する一冊で在ることは疑い得ないでしょう。

中期ハイデガーの代表作『形而上学入門』

ハイデガーの思想は時期を区切って、前期・中期・後期と度々分けられることがありますが、中期ハイデガー哲学において主に取り上げられるのが「形而上学」についてです。

中でも『形而上学入門』は中期ハイデガーの代表作として知られています。

著者
マルティン ハイデッガー
出版日

『形而上学入門』は、1935年にハイデガーがフライブルク大学にて行なった講義を書籍化した講義録です。学生に向けた講義が基になっているので口語的な文章となっています。

第二次世界大戦後にハイデガー自らが自身とナチズムとの関わりについて言及した「シュピーゲル対談(弁明)」も併せて掲載されています。このことからも分かるように中期ハイデガー哲学は時期的にハイデガーがナチズムに傾倒した時期の思想であるため、ナチズムやナショナリズムと関連づけられることが多いのです。

ハイデガーの存在論は、『存在と時間』で示されたように「そもそも在るというのはどういうことか?」が問われるものですが、この『形而上学入門』ではまず「一体なぜ、存在者が存在するのか?むしろ存在が存在するのではなく、無が在るのではないか?」という問いが立てられます。

そのような問いかけから端を発して、ハイデガーはまず存在論の祖で在る形而上学を打ち立てた古代ギリシャの哲学を振り返るのです。プラトン以前の古代ギリシャ哲学者のパルメニデスやヘラクレイトスの思想に光を当てつつ、その後に連なる形而上学や存在論に関わるカントなどの思想を再考していきます。

「在るということ」についての問いを中心に、西洋哲学の歴史がハイデガーの手によって再考され再編されているため、ハイデガー存在論の視点から見た西洋哲学史としてもこの『形而上学入門』は読むことができます。

『形而上学入門』の中で、ハイデガーは「存在とは何か?を考えること」について論じています。「存在」という言葉は一種の幻のようなものであり、この幻について考えることから始めなければならない、と考えるのです。

ハイデガーが『存在と時間』で試みたように「存在」とは何かについて考え、「存在」を捉えようとしても「存在」そのものは常に空気のようなもので「存在」そのものはとても捉えがたいものです。

ハイデガーはこの「存在」そのものについて「ほとんど全く無と同じように、見つけ出しがたい」と言います。このように「存在」は捉えがたいものであるにも関わらず、「存在とは何か?」を問う存在論は「存在」というものを自明視し前提としています。

なぜなら「○○とは何か?」という問いを立てるとき、私たちはその○○が確かに在ることを確信しているからです。ハイデガーはその確信をまず疑います。存在とは何か?を問う前に「存在は存在するのか?」を問わなければならないと考えたのです。

そのような疑いから古代ギリシャ哲学まで遡っていくわけですが、この「存在は果たして本当に存在するのか?」という問いは「存在とは何か?」を問うた『存在と時間』においてもなされるべき問いであり、『形而上学入門』を読んでから『存在と時間』を読むと、ハイデガーが自身の存在論で明らかにしようとした試みがよりクリアに理解できるでしょう。

現代における技術とは何か?『技術への問い』

『技術への問い』は晩年のハイデガーの主要論文である「技術への問い」をはじめとした5本の論文が収録された論文集です。戦後の後期ハイデガー哲学の主要なテーマの一つである「技術論」がまとめられた一冊となっています。
 

著者
マルティン ハイデッガー
出版日

ハイデガーは「技術への問い」の冒頭で「技術について問うことで、技術との自由な関係を築きたい」と述べています。そして自由な関係性を築くには技術の本質について知らねばならないとします。

一般に技術の本質とは目的を達するための手段であり行為であるとされますが、ハイデガーによればそれだけでは不十分なのです。

目的を達する手段とは、道具とも言い換えられます(だから技術はある意味で道具なのです)が、道具(技術)には目的を実現する方法として、何らかの原因性・因果性を伴います。そしてハイデガーは古代ギリシャ人にとってその原因とは「他のものに責任を負うこと」であったと考えるのです。

ここでいう責任とは何らかの過失の償いをすることではなく、未だ隠されているものを明るみに出すことだとされます。例えば、漁師が魚を獲るという目的のもとに釣竿を作ったならば、釣竿が作り出されたことと、釣竿という道具の目的である魚を獲るという目的が生み出された出発点が漁師ということになります。

漁師は釣竿という道具だけではなくその道具の目的を作り出している(=明るみに出す)ので、漁師は他のものに対して責任を負っているということになります。このように未だ明るみに出ていないものを前景化することを古代ギリシャ人たちは「アレーテイア」と呼びました。

ハイデガーは、技術とはただの手段、道具ではなくアレーテイアの一つの方法だとします。そしてテクニック(=技術)の語源であるギリシャ語のテクネに由来したことに着目しつつ、テクネがいわゆる技術だけでなく芸術の意味をも含んだ言葉だったことから技術は本来芸術的なもの、詩的なものであると考えたのです。

しかしハイデガーによれば現代の技術は、詩的なものではなく悪しきアレーテイアに堕しているといいます。何故なら現代の技術は自然を単なるエネルギーや必要を満たす道具としてのみ用立てするだけで、そこから何かをアレーテイアする、すなわち明らかにすることがないからです。

ハイデガー曰く、現代技術によるこの用立ては人間が意図的に行うのではなく、人間はそうするように導かれ、労働力として収集されているといいます。現代技術の用立てという悪しきアレーテイアによって人間は呼びかけられているのです。このような仕方をハイデガーは集ー立(ゲシュルテ)と呼びます。

この集ー立によって呼びかけられ、導かれ、自然や物事を単に必要を満たす道具として用立てする(用象として明るみに出す)ことが、現代技術の本質であるとハイデガーは言います。

ハイデガーはこのような集ー立に挑発され、従っていると自分自身が自分の意思とは異なるものによって呼びかけられ、召集されているということにすら気づかず、真理を見失ってしまう危険性を指摘。そしてそのような危険を救うのが芸術であると主張するのです。

技術の発達が著しく私たちの生活を便利に豊かにする一方で、技術が高度化するあまりその全容がブラックボックス化し技術に人間が使役されるような場面も少なくない今日において、このハイデガーの技術への問いはどこか示唆的なものを与えてくれる一冊だと言えるでしょう。

「在ること」について誰よりも深く洞察したハイデガーの思想は、後の哲学の重要な礎となったばかりか、私たちが今、ここに居て生きているということの不思議についてふと考える時にも大いなるヒントを与えてくれる思想でもあります。

その思想は決して易しいものではありませんが、この世界に「在る」一つの現存在としていかに生きるべきかを教えてくれる思想でもありますので、ぜひチャレンジしてみてください。

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