本当は自分のことなど誰も見ていない【西田藍】

本当は自分のことなど誰も見ていない【西田藍】

更新:2017.6.1 作成:2017.6.1

アイドル・書評家として活躍中の西田藍さんによる連載書評コラム。今回は『人間失格』『学歴・階級・軍隊―高学歴兵士たちの憂鬱な日常』を取り上げます。

西田藍プロフィール画像
アイドル/書評家
西田藍
熊本県出身。1991年10月20日生まれ。オーディション「ミスiD2013」で準グランプリを受賞しデビュー。アイドル/書評家として、タレント活動や執筆活動を行う。雑誌『SFマガジン』 と『ダ・ヴィンチ』にて書評コラムを連載中。NHK Eテレの『ニッポン戦後サブカルチャー史』シリーズに出演。また、北海道陸別町のPRショートムービー『りくべつ 夏』にも出演を果たした。 http://ameblo.jp/nishida-ai/
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“他者の物語”について

先月取り上げたテーマは、エリート男性たちによる「男性の歴史」であった。枕に、古屋兎丸『帝一の國』を取り上げたが、今回は『人間失格』である。
著者
太宰 治
出版日
著者
["古屋 兎丸", "太宰 治"]
出版日
2009-06-09
私は以前、『ユリイカ 古屋兎丸特集』に、古屋兎丸の『人間失格』によって、原案である太宰治の『人間失格』の主人公、葉蔵の本質にやっと触れることができた、と書いた。 

ここでは、太宰治『人間失格』かいかに嫌いだったか、述べてみたいと思う。あくまで過去形である。もう、葉蔵とは和解している。その過程を述べたのが、古屋兎丸作品から受けた影響をそのまま文章にぶつけたエモーショナルな拙稿である。ぜひユリイカで読んでいただきたい。

わざわざ紹介するまでもないような、名作、『人間失格』は、名家出身の葉蔵という少年が、幼少期から、周囲との不和に悩み、身を持ち崩すというあらすじ。こうまとめてしまうと、なんとも味気ないが、数多くの読者を魅了した小説であることは間違いない。

特に有名なシーンといえば、ここだろう。

“「ワザ。ワザ」
自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。

葉蔵は、道化者を演じていることを、クラスメイトに見破られていたと、知ったのだった。”

私は、この、「ワザ。ワザ」に、震撼した者の1人ではある。では、ある。なぜ、奥歯の詰まったような言い方しかできないかというと、どうして、『人間失格』を素直に褒められなかったのかというと、単純だ。葉蔵は、富裕層の男性だったからである。

持てる者が持たざる者になった話は、恐るべき悲劇になるが、初めから持たざる者は、なんの物語にもなりやしない。初読は、中学時代であったことも大きい。当時、家庭は貧しく、高校進学の為の奨学金制度を調べ、申込みに奔走していたのだった。そんな中学生が、どうして葉蔵側に肩入れできよう。文学を楽しむにあたって、主人公に共感できるかどうかは関係ないのだが、それにしても『人間失格』は、有名すぎたのだ。前評判の膨らみが、不信感を募らせたのだった。マチズモに乗れなかった男は、結局、女を使うのか、女を人間として、見ないのか、と。
 
先月も述べたような、近代文学における、「青年」のなんとも不愉快な女性観は、致し方ないのであろうと思う。なぜなら彼らにとって女性との出会いは、基本的に、友愛ではなく、性愛を元にしたものだからだ。カフェの女給、バーの店員、そして遊郭。女は、買う、もの。値札が付いた女か、付いていない女。女は、誰かの妻であり、誰かの娘であり、誰かの母親でしかなかった。仲間ではない。

決して、過去や現在に繋がる、男女差別ついて言いたいのではない。そんなことは自明である。ここで描かれる近代文学、物語は、私にとっては、他者の物語であるということが言いたいのだ。

女性についての作品は、頭に女性と明記してあることが多い。しかし男性についての作品はそうでは無い。だから、幼い頃の私は混乱した。

だからこそ私は、男性について描いた作品を作品に、男性と明記したい。その当時、男性と女性の生き方、生きる世界が現代よりも大きく断絶していたからこそ、男性という但し書きをつけて、その世界についてその時代について読んでいきたいのだ。

近代的自我、近代国家、近代の政府、これらの主要メンバーはすべて男性であり、女性が持っていた影響力女性が行使した権力は全く違う。

少なくとも建前上は男女同権で育ち、選挙権を持っていた私から見て、今の感覚と同じように彼らを断罪するつもりもない。しかし、但し書きは必要だ。若い娼婦は、「若者」ではないのか? 特定の階級の特定の性別のみ、「若者」と括られ、わざわざ現代の「若者」と重ねて語られるのは、とても、ぞっとするのだ。

最後に。これは、学徒動員の悲劇と、それにまつわる階級意識について述べた本である。
著者
高田 里惠子
出版日
高学歴兵士と言えば、私はすぐ大岡昇平を思い浮かべる。『野火』も好きだし、『俘虜記』なんてとっても面白いし。『俘虜記』は大岡昇平の太平洋戦争従軍体験に基づいた連作小説で、ねばっこく細かい描写から立ち上る風刺には夢中になった。

彼は高学歴兵士であったが、学徒兵ではない。京都帝国大学を卒業し、社会人として10年ほど働いたあと、補充兵の教育役として召集されたのだ。

この本で描かれる高学歴兵士たちは、大岡昇平のように年長ではない。また、確かに、高学歴兵士の本ではあるのだが、強く立ち上るのは、学歴と階級だ。ひりひりと痛い、階級意識。この痛みは、決して越えることができないと分かっているからの痛み。

そして、この、あくまで学術的にだが、エリート男性を「視て」いるというこの本は、あまりにも、あまりにも、私の欲望に忠実なようで、震えてしまったのだ。こんなテーマなのに、どうして私はこんな視線を向けてしまうのだろうか、相手は、本物の、生身の人間なのに。テキストによって、俎上の鯉となった相手に、私が向ける視線。例えば階級、例えば性別。この立場が反転した文章や作品なんていくらでもあるはずで、真面目な本を真面目に読む私は、なにも悪いことはしていないはずだった。でも、私は私を醜いと思ってしまった。論評によって切り刻まれる「エリート男性」を私は楽しんで見ていた。

そして、わざわざその姿を意識してしまう、自分が哀れでならなかった。まっすぐ、知的好奇心を、まっすぐに満足させればいいではないか。そうしてそう、意識を捻くれさせてしまう? 思春期は終わったはずだろう。
 
これは自衛である。立場が上の者を「視る」ことによって、自分を守るのだ。私は同じ人間であるという、滑稽な自衛だ。私は視られている。あなたも視られている。でも、本当は自分のことなど誰も見ていない。