村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』女と暴力と執着の3つのキーワードで解説!

更新:2021.12.21

どちらかといえばファンタジー色の強い作品が多い村上春樹ですが、『ねじまき鳥クロニクル』では人間の「欲望」や「悪意」について書かれており、リアルで血なまぐさい内容となっています。今回は3つのキーワードに分けてその世界観をご紹介していきたいとおもいます。

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『ねじまき鳥クロニクル』第1部「泥棒かささぎ」キーワードその1「女」

主人公「岡田享(おかだとおる)」のもとにある日、謎の女から電話がかかってきます。聞いたことのある声なのですが、享はその声の主がどうしても思い出すことができません。電話の女は、享を性的に挑発する発言をしたり、意味深な言葉を並べたりしていっこうに自分の正体を明かそうとしません。 

数日後、妻の「久美子」が突然なにもいわず享の前からいなくなり、それと入れ替わるように現れた「加納クレタ」と「加納マルタ」。妻のなぞの失踪を皮切りに享は、世界のバランスがくずれていくような錯覚を覚えます。そしてどこかの庭で「ねじまき鳥」がねじを巻く鳴き声が聞こえるのでした。

著者
村上 春樹
出版日
1997-09-30

第1部ということもあって、じつにさまざまなキャラクターが登場し、その半分以上は女性です。村上春樹の著作では毎回魅力的な女性が登場しますが、この『ねじまき鳥クロニクル」ではいい意味でも悪い意味でもクセのある女性が多く登場します。春樹はエッセイで「僕の小説のなかで登場する女性は一種の通過儀礼(イニシエーション)のような役割を持っている」と述べているように、たとえばセックス描写が多いことにも言及しており、主人公を「女性」というフィルター(あくまで例えです)に通すことによって何らかの成長あるいは変化をさせるためにその行為に及んでいる、と語っていました。

第1部では「妻」「笠原メイ」「加納クレタ」「加納マルタ」「電話の女」とこれだけの女性が登場します。

話はすこし脱線しますが、物語を構成する要素として起承転結がありますね。説明するまでもないと思いますが、物語というものはほぼすべてこの要素でできているといっても過言ではありません。

この『ねじまき鳥クロニクル』も例にもれず、起承転結の流れで物語が展開していきます。しかしここで注目したいのは起・承・転・結それぞれのポイントで女性が密接に絡んでいるということです。

少々ネタバレになるのですが、物語の節目になるところでいつも上記の女性が現れて主人公である享になにかしらのアクションをかけ、その試練なり依頼なり、なにかしらのミッションを与えてくるのはかならず女性です。そもそもの物語の大きな流れのひとつとして「いなくなった妻を探す」というものがあり、ここでもやはり女性が絡んできている。「ねじまき鳥クロニクル」を読み解くうえでは、なにより「女性」というキーワードが大きく関わっているのです。

第1部はそうやって女性に物語の「鍵」のようなものを渡され、主人公の周囲で徐々に世界がおかしくなっていく様子が描写されます。そして物語はゆっくりと、つぎのキーワードである「暴力」に移行していき、ノモンハン紛争という満州で起きた日本と旧ソビエトの国家間紛争の時代のエピソードが繰り広げられるのですが、村上春樹が話を語るのが上手なところがここですね。

「女性」というテーマからゆっくりと違和感もなく「暴力」というまったく対局にあるテーマに移行しているのです。

もし最初に「暴力」をテーマにあげてしまうと物語は荒々しくなってしまい、とくに長い話になると後半は勢いを失いがちになってしまう可能性があります。しかし、まず最初に「女性」というやわらかく、かつミステリアスな切り口で展開することによって読む人をしっかりと惹きつけるんですよね。いまはなにを語るべきかを心得ており、同時になにを「語るべきじゃない」かもしっかり重知しているところが垣間見えます。

『ねじまき鳥クロニクル』第2部「予言する鳥編」キーワードその2「暴力」

主人公「岡田享(おかだとおる)」の妻「久美子」がいなくなった原因は、どうやら他に男ができたということだけではなく、ほかにもいろんな理由がありました。それでも享はいなくなった妻を「帰ってくるまで諦めない」という決断を下します。享には妻がいなくなった理由が単に「自分(主人公)に嫌気が差したから」ではないような気がしてならないのです。そこにはなにかしらの暴力やよろしくないエネルギーが含まれているような気が享にはするのでした。

享は思うところあって、家の近所にある「井戸」へ向かいます。真っ暗なその井戸の中へ降りて行き、彼はゆっくり目を閉じるのでした。こうすることが今自分に必要なことであると直感したのです。ゆっくりと無意識の世界に入っていく享。そして彼は、妻の久美子と出会った時のことを思い出すのでした。

著者
村上 春樹
出版日
1997-09-30

第1部の終盤からこの第2部の「予言する鳥編」にかけて物語のテーマはおもに「暴力」と解釈していいでしょう。じつにいろいろな暴力があり、小さなものから大きなもの、肉体的な暴力から精神的な暴力、そして男性が女性に加える暴力もあれば、その逆の女性が男性に加える暴力もあります。ここで村上春樹がいいたいのは「いろいろな暴力の形がある」ということではなく「だれもが加害者になりうる暴力性を持っている」ということです。まぁ、言葉にすればじつに当たり前なことなのですが、ただこの事実はあまりに身近にありすぎてイマイチぴんとこないかもしれませんね。

ひとつ、作中のエピソードを例にとって「誰もが加害者になりうる暴力性」について解説してみましょう。

「笠原メイ」というキャラクターが登場するのですが、彼女はまだ未成年で学校をサボって毎日家のベランダで日向ぼっこしているふしぎな女の子です。彼女は享の近所に住んでおり、久美子が行方をくらましたあとに知り合います。

彼女の家の近くには、村上春樹の小説ではおなじみの「井戸」があるのですが、主人公の享はこの井戸にワケあって入ることになります。井戸のなかに入って、瞑想のようなものをするのですが突然、笠原メイが井戸の蓋を閉じてしまい出られなくなってしまうのですよね。けっこう長いあいだ享は閉じ込められており、肉体的にも精神的にもギリギリの段階でようやく笹原メイによって助けられます。

メイは「井戸に蓋をして、もしわたしが不慮の事故にあったり、記憶喪失になったりしたらきっとねじまきさん(岡田享のよび名)は誰にも知られずに死んでいく。そのことを考えたらちょっと試してみたくなった」となにげに怖いことをいってのけるんですよね。享はあまり、というかまったくメイのことを咎めないのですが、ここではそういう命のやりとりがありふれた日常に潜んでいることを示唆しているのです。もちろんメイはすこし変わったセンスの持ち主ですが、どちらかといえば作中では享がメイに相談したり、アドバイスをもらったり助けてもらったりする場面が多くあるので一概に変人とはいい難く、作中ではなにげに重要人物でもあるのです。にもかかわらずそんな彼女が「こんなにカンタンに人って殺せるんだ」と発言したりするから恐ろしい。

この第2部を読んでみるとわかるのですが、第1部までは笹原メイは、ミステリアス要素を含む少々マセた少女という役どころだったのが、急に「暴力性」を帯びてくるんですよね。彼女からなにか得体のしれないものを感じるようになり、物語にピリっとした緊迫感を与え、読む人に不安を与えます。

おそらくこれが「誰もが加害者になりうる暴力性」というものでしょう。それは本人が望む望まないにかかわらず、ごくありふれたきっかけで「死」というものがとても身近にあることを囁きかけるのです。破壊的、衝動的な暴力だけではなく、内在的に水面下に潜む暴力性というものに注目したテーマといえるでしょう。もしかしたらこういった「静かな暴力」というのがいちばん恐ろしいのかもしれませんね。

『ねじまき鳥クロニクル』第3部「鳥刺し男編」キーワードその3「執着」

妻・久美子の兄であり、久美子の居場所を知っている唯一の人物である「綿谷昇(わたやのぼる)」と対峙した享。井戸の中で体験した綿谷昇のもうひとつの姿を知り、彼の絶望や孤独を垣間見た享は、どうあっても妻を連れ戻すと誓うのです。享はこれまでの人生で、どこか「妻から逃げていた」自分がいることを井戸の中の無意識の世界で直面し「もうどこにも逃げない」と心に大きく刻むのでした。

もう誰からも電話はかかってきませんでした。なぜなら享は電話の主に誓ったのです。かならず迎えにいくと。そうです。電話の主の正体は「久美子」だったのです。

著者
村上 春樹
出版日
1997-09-30

第3部のキーワードは「執着」としました。この巻で大きくフューチャーされるのが登場人物の「執着」や「執念」といった非常に強い感情です。

そもそも『ねじまき鳥クロニクル』は第2部と第3部の間が(現実の時間で)一年以上空いており、これは村上春樹も述べていたのですが「そもそも最初は3部を書くつもりはなかった。しかしなにか強いひっかかりを感じて書かざるえなかった」と語っているんですよね。

「執着」とは長い時間をかけてできるものです。気づけばひとはなにかに「執着」しており、もしそれをなくしたいと思ったら、ふたたび長い時間をかけなければなりません。時間をかけて身に付いたものは、いいものも悪いものも、すぐには離れていきません。

主人公の岡田享はどこにでもいる平凡な一般人です。家事をするのが好きで、休みの日はひとりで水泳にいったり本を読んだりし、これまでになにか強い感情になることは少なく、踏み込んだ言い方をすればドライな生き方をしてきました。しかしそんな享が妻にたいして強い「執着」を見せるのです。さまざまな通過儀礼(イニシエーション)を経て、ようやくたどり着いたのはやはり奥さんを取り戻したいという願いだったんですよね。

人が物語を「読んでしまう」要素はいくつかありますが、やはり「執着」というものは人を惹きつける要素があります。たとえば恋愛ドラマでも、もし男女がお互いに無関心だったら物語はあたりまえですが始まらないですよね。どちらかが、どちらかに異常な執着をみせる、あるいは気になり始めます。そうやってストーリーが始まっていくわけです。なにかにすがりつく姿を、なにかに向かって突き進んでいく姿をひとは「見たい」と強く思ってしまう。「最後はどうなるんだろう」「どうなっていくのだろう」と思ってしまうのが人間なんですよね。

登場人物たちの「執着」が作中で膨らめば膨らむほど、物語は熱を帯びていきます。ギアの回転数が増していき、感情というエネルギーが生まれます。村上春樹本人がこの『ねじまき鳥クロニクル』を第3部まで書いてしまったのは、そういった登場人物たちのエネルギーを感じたからだと解釈できるでしょう。物語を動かしているのは紛れもなく「登場人物たち」。作家は、彼ら(登場人物たち)の声に耳をすませ吸い上げ、ストーリーは出来上がっていくのです。

とくにこの『ねじまき鳥クロニクル』は、村上春樹の作品中のなかで感情度が非常に高い作品のひとつ。ひとによっては読んでいてこころをかなり揺さぶられ、あるひとは強くこころを惹かれるし、あるひとは強い拒否反応を示すかもしれません。それは作品が本当に生きている紛れもない証拠だといえるでしょう。
 
先にあげた「女」「暴力」「執着」の3つのテーマは、人間に永遠とついてまわる問題なんですよね。これらは非常に物語を生む起爆剤になりやすい。

もしこれから『ねじまき鳥クロニクル』を読もうとされている方がいましたら、ぜひこの3つの言葉をイメージして読むと作品の世界観がぐっとわかりやすくなるでしょう。氏の、壮大で豊かな表現の世界にどっぷりと浸ってみてはどうでしょうか。

1994年に初版が発売されて、いまだに本屋さんにいけば置いてあります。それだけ時代を選ばずに読まれている作品なんですよね。村上春樹の作品はしばし難解だとか高度な思考技術が必要だとか言われたりしていますが、それは批評家のひとが難しく解釈しようとしているからであって、そんなことをしていてはますますわからなくなってしまうでしょう。作者もいうように、難しいことは難しいことを考えるひとに任せてまずは物語を楽しむ、というところから始めてみてはいかかでしょうか。

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