写真には、撮影者の視点や意識がはからずしも映り込みます。誰でも写真を撮るようになった現代において、被写体に向けられる「視点」こそが撮影者の個性を特色付ける鍵となるものではないでしょうか。 今回紹介する3冊の写真集では、彼らの「視点」に注目し、カメラという機械の目を通して写真家が一体何を見つめていたのかを考察します。
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最初に紹介するのはナン・ゴールディンです。1953年、アメリカに生まれた彼女は、わずか11歳の時に経験した姉の自殺から、どんなに身近な人も死をきっかけにその記憶が揺らいでいってしまうことを知りました。その後、15歳頃から自身や周囲の友人のプライベートな写真を撮り始めます。
やがてニューヨークに移った彼女は都市の持つカルチャーに惹かれ、自身や周囲の人々を被写体とし出しました。そこから生まれた写真集が『The Ballad of Sexual Dependency』なのです。
本の中での彼女は、周囲の人物が持つ極めてプライベートな生活に体当たりでぶつかり、その生々しい「状況」を多くとらえています。
恋人と共にベッドに横たわる「Nan and Brian in bed, New York City」(1)、自らの頬が殴られ腫れた表情を撮影した「Nan one month after being Battered」(2)には、セルフポートレート写真に現れがちなエモーショナルな要素よりも「起こってしまった出来事」を冷徹に見つめる様子がうかがえます。
このように、彼女が被写体(自らに至ってさえ) に向けるまなざしは極めて冷徹なものです。
これは私の考えですが、姉という肉親の自殺をきっかけに、人の死がある日突然訪れることを知った彼女は、自分の中からいつか消えてしまう記憶を、印画紙に焼き付けることで永遠に留めておきたいと願ったのではないでしょうか。
その点で、ゴールディンはコミュニティに所属しながらも「記録者」としての立場を崩さない、客観的な視点で<他者を見つめる写真家>であるといえるのではないでしょうか。
(1)http://www.moma.org/collection/works/101659
(2)http://www.moma.org/collection/works/102197?locale=en
鴉
1960年代後半から1990年代前半にかけて、勢力的に作品を発表した深瀬昌久の写真に見られる一貫した姿勢は、「外界に対する違和感」でした。
1986年に発表された写真集『鴉』において、彼はまるで自らを投影するかのようにひたすらに鴉を撮影しています。鴉という身近な動物を撮影しながら、むしろそこからは彼自身の圧倒的な孤独感や孤立感があらわれているようです。
本書の中で評論家の長谷川明氏が以下のような言葉を残しています。
「『孤独』は病気の一種である。(…)病気が重くなるともう自分から関係を求めなくなり、ただ見つめるだけになる。見つめるという行為だけがそこにあって、見つめている自己はすでにそこにはない。見つめる人は、見つめる自己も対象も区分しがたい虚無へとしだいにずり落ちていく。
深瀬が見つめていたのは、具体的に鴉という動物であると同時に『鴉』と仮に読んだ自分自身の孤独である」
彼は鴉に自分を投影することで、ぼんやりとした「自己」を写真というメディアを用いて追求しようとしていたのではないでしょうか。そう、彼は<自己を見つめる写真家>でした。
私には、自己の内面に迫れば迫るほど、撮影する対象が一般的な人から離れていく晩年の彼の写真が、同じ写真家として非常に興味深く映るのです。
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最後に紹介するのは、ダイアン・アーバス。彼女は<自他の境界を見つめる写真家>といえるでしょう。
1923年にアメリカ・ニューヨークに生まれた彼女はファッション写真の仕事を多くこなし、人物撮影の名手とされています。そのポートレート作品から、私は、彼女が持つ他者への深い洞察力、そして強い精神性が強くあらわれているように感じたのですが、その理由をこれから考察したいと思います。
アーバスは、被写体から自身に向けられる視線について意識的であったと言われています。撮影することを「shooting」と呼んだり 「ナイスショット!」ということがありますが、アーバスは被写体を撃つ(shoot)代わりに自身も被写体から撃たれる、いわば激しいやり取りを撮影を通して交わしていたといえるのではないでしょうか。
本書の表紙に使われている、双子の少女をとらえた「Identical Twins, Roselle, New Jersey」(1)は彼女の代表作ですが、そこではアーバスが被写体に向けるまなざしと、被写体がアーバスに向けるまなざしが強く交差する瞬間がまさにとらえられています。
この一枚に限らず、作品の中で彼女と被写体とが激しく「衝突する」さまは、本書の多くの写真で顕著です。
聞くところによると、アーバスは他人から実際に見られる自分と、「こう見てほしい」という自分とのギャップにも興味を持っていたそう。
あまりに物事の本質を追求することは、人を大地から引き離すようにまっさらの空間に放り込んでしまうような、ある意味危険な行為といえるでしょう。
しかし、未だに彼女の写真が多くの人の心を捉えて離さないのは、彼女が写真、そして被写体との格闘を作品の中で繰り返し、その激しい感情が今なおそこで生き続けているのだと思えてならないのです。
(1)https://en.wikipedia.org/wiki/Identical_Twins,_Roselle,_New_Jersey,_1967
私は2013年に「CONTACT」というタイトルの作品を制作しました。
その当時「揺れ」というものが身体に及ぼす作用に興味を持っていて、そのことを主題とした写真で作品を構成したのです。
きっかけは、バスに乗り揺られている時、突然忘れていた昔の記憶を思い出したことです。しかし、今振り返ると、何かを表現したいわけではなく、自分の中で消えていってしまうだろう記憶にコンタクトしたいという、裏返すと「忘れていくこと」自体に強い興味を持った意思のあらわれだったのではないかと今になって思います。
この原稿で3人の写真家について書きながらも、自分にとって「写真を撮る」ことが何なのか、ずっと考えていました。
気が付いたことなのですが、「写真を撮る」ことはありふれた生活のなかで気づかないうちに出てしまう自分の癖や、強く引っかかって私を離さない存在を自覚するもの。
自己の中に普段潜んでいる意識を平面に表出することが、私にとって「写真を撮る」ことなのではないのかと思っています。
(1)http://www.mikikitazawa.com/works/contact.html