野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、芥川賞という純文学の新人賞を獲り、新人賞三冠王とよばれた笙野頼子。奇抜な設定と独特の文体で、ときに「難解」と評されつつも熱烈なファンを持つ、彼女の作品の魅力に迫ります。
1度読んだら忘れられない独創的かつ幻想的な設定と、奔放な文体を駆使する笙野頼子は、1956年に三重県で生まれます。彼女の母親は、当時としては珍しく研究員として男性と同じように働いていました。しかし、研究用の生成物を3回も捨てられるという嫌がらせを受け、抗議したところ「男と同じ給料を取りやがって」と言われて辞めてしまいます。
笙野はこの母から「長男」としてショートパンツを穿かされることがあり、その一方で、上品な女の子の服も与えられ、「男でもあり、女でもある」という相反する期待を背負ったまま成長します。そして彼女は、意識せずに相手を下位に貶め不自由な状態にする権力者たちの存在や、それが常態化している社会のあり方に敏感な人間になっていきました。
例えば娘を支配する母親、女を蔑む男、人を縛る因習など、多くの人が自分を守るために見て見ぬフリをしている、不自由さや理不尽さに敢然と立ち向かうようになっていきます。売られた喧嘩はきっちり買って、筆で叩き返すのが笙野頼子なのです。
ただし笙野のやり方は、母VS娘、男VS女のように、対立をさせて一方を糾弾する、という単純なものではありません。彼女は、ひとりの人間の中には男も女も子供も大人もいて、しかもそれが複雑に重なり合い、混ざり合ってマーブル模様のようになっているということを自覚していました。一見読みづらいとも感じる文章は、彼女の中の多重的な声を率直に描いているだけなのです。
全身全霊で書くことに向き合い、闘い続ける笙野頼子。今回は、彼女の闘いの歴史ともいえる5作品をご紹介します。
大学受験が迫っているのに、登校拒否で昼まで起きられない「私」ことヤツノ。そんな日々を過ごしていると、ある日母が縮み始めます。縮んだ母は、性格や職業、時には性別まで変わってしまうのでした。
本書は、「母の縮小」「母の発達」「母の大回転音頭」という3つの連作短編です。「母の縮小」で縮み始めた母は、「母の発達」で1度殺されるも、死なずに布団から再構築されます。ヤツノが母の指示通り、それぞれに名前と小話を与えて育てていくと、母はワープロになって発光し、トイレの天井を突き抜けて消えてしまいます。そして「母の大回転音頭」で再び現れ、万華鏡のように大回転するのです……。
- 著者
- 笙野 頼子
- 出版日
母から生まれた娘は、自らも母になり娘を産み、最初の母が死ぬころに孫娘は新たな母となってまた娘を産み……ヒトはそんな営みを延々と繰り返してきました。母となる人はそれぞれ皆違った個性を持ちつつも、「母」という種としての役割は同じです。母と娘の境界は曖昧で、でも別個の人格であるのもまた事実なのです。
本書は、母娘の葛藤を描いていると読むことができます。ヤツノに対して医者以外の進路を認めない母と、そんな母の精神的奴隷になっているヤツノ。2編目の「母の発達」の中で、ヤツノが「あ」から「ん」まで50音すべての母を呼び出すシーンがあります。その姿は滑稽でありながら切実で、2人の会話は怖いようで笑い出したくなる部分もあり、母娘の複雑な関係性が混ざりながら完全に一体化はできないことが表現されています。
すさまじい発想と、言葉の羅列のオンパレードです。日本語の言葉としての意味はわかるけど、つながりがわからない、それでも更に読んでいくとおぼろげに浮かび上がってくるものがあります。なんとも不思議な読後感が読者を襲うでしょう。
「おんたこ」が第一党となった、だいにっほん国には、みたこ教と呼ばれる宗教を信じる人たちがいました。物語は、彼らが「弱いから」という理由で弾圧されるところから始まります。
「現にっほん政府は常に一番犯しやすそうなものを仮想敵にし、それを権力に仕立て上げて、そこに反逆するポーズを取ることで団結をはかるのだった。」(『だいにっほん、おんたこめいわく史』より引用)
だいにっほん国は架空の国という体裁のはずなのですが、どこかで聞いたような話です。
- 著者
- 笙野 頼子
- 出版日
- 2006-08-19
宗教を転向した教師たちに密告され、みたこ教の学生たちが連行されるあたりから笙野頼子の本領発揮となります。作者である笙野本人が登場したのを皮切りに、かつて遊郭にいた比丘尼の子、おんたこのせいで首吊りをした火星人の死霊、稲荷山古墳の主などが現れ、口々に語り始めるのです。
これはおかしいと反発する感情が徐々に力をもち、しかし個人で声を上げるしか闘うすべがなく、その声は黙殺されていきます。
ありえない、と突き放すこともできますが、本書の意味するところを考えてみると、まさに私たちのいる現実にも起こっていることで、唖然とさせられるはずです。
実はこの話には『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』と続く3部作で、本書は火星人少女遊郭を描くところまでで終わっています。ぶっこわれ度はどんどん加速し、大笑いしつつも背筋が凍るような展開が続きます。おんたこに犯された、だいにっほんの行く末が気になる方、3作続けてお読みください。
主人公である「私」は朦朧としていた意識が戻ると、ウラミズモ国にいることを知ります。ウラミズモとは、日本の茨城県に独立国家として建国された女尊男卑の国。原発利権と、日本との癒着とで成り立っていました。
作家の「私」は当初ウラミズモの現状に恐れをなしますが、次第に慣れていきます。そして、国家の根幹をなす神話づくりに関わることになるのです。
- 著者
- 笙野 頼子
- 出版日
笙野頼子の文体は、素人がブログで垂れ流すようなもの、と酷評されることがありますが、それは誤りであることがよくわかる作品です。この『水晶内制度』では、ジェンダー、国家権力、神話などについての笙野の豊富な知識と、考え抜かれた思考が表現されています。
女性に人権はあるが「人」ではない国、日本と、男性が徹底的に貶められ、人権すらない国、ウラミズモ。ではウラミズモにいる女性が幸せなのかというと、そうは描かれていません。笙野は、男VS女という単純な構図で表現するつもりはないのです。彼女は、現実にある複雑なものを、わかりやすくひとつにまとめたりはしません。彼女が感じているものを、ありのままに描こうとしています。
日本神話をベースにして、裏の神話を作ろうとする作家「私」を据えて、笙野は「見えなくされたもの」「ないものとして黙殺されたもの」を再発見させます。これが見えないままでは考えることも闘うこともできず、新しいものを作り出せないからです。国家や集団、制度などが個人を蝕み、あるはずのものを見えなくしているという現実を、架空の国に託して、自由すぎる筆致で描いた作品です。
愛猫たちと自分の食べるものをあつらえようと買い物に出た「私」は、生前1度も会ったことのない故人に出会います。痩せていて清潔な雰囲気の「おさない」老婦人、森娘です。
森娘とは森鴎外の娘、茉莉のこと。鴎外の影を求めて、自分の作品を上辺だけしか見ない批評家たちと闘った森茉莉と、文壇に限らず男性優位社会と真っ向から対峙し続けている笙野頼子。この2人には共鳴するところがありました。
- 著者
- 笙野 頼子
- 出版日
- 2013-12-11
文豪の娘、ファザコン、生活能力がない、元祖やおい系……と、目につきやすいところばかりがフォーカスされている森茉莉のことを、笙野が愛と毒をもって評していきます。
そしてラストは森と笙野、そして笙野が関った猫たちが交錯し、ある場所でつながっていくのです。
ちなみに「森茉莉が元祖やおいである」という決め付けに対して笙野がおこなった口撃は、森ファンの喝采を浴びたとか。笙野頼子の作品は読んだことがないけれども森のファン、という方にもおすすめの1冊です。
二百回忌に死んだ祖先が甦ってきて法事に参加する、という家に生まれ育った「私」。すでに親とは絶縁しているにも関わらず、祖母に会ってみたいという気持ちから出席を決めます。
二百回忌の期間は、時間も空間も歪んであり得ないことが起きますが、そられをすべて「めでたい」こととしなければならないのです。
- 著者
- 笙野 頼子
- 出版日
故郷の習慣というものは、その周囲の人たちの間では「普通」であっても、世間一般からすると「信じられない」ことがあります。主人公の「私」も、二百回忌に死者が甦ってくるのは他の家庭ではないと知るのは、かなり成長してからのことです。
親との関係をほとんど絶って都会に猫と住んでいる主人公は、ついつい二百回忌に惹かれてしまいます。生まれや育ちというものが、当人が思うよりも深くその人の内に根を張っていることの表れなのでしょう。
笙野は、このように目に見えず気付きづらいけれども、確実に人を支配している力に非常に敏感です。そしてこれを読者の無自覚から引きずり出して意識させることが、彼女流の闘い方でもあるのでしょう。
二百回忌に集った人たちは、年の数だけ輪にしたトンガラシを湯に入れた「トンガラシ汁」をひたすら飲み、生きているのか死んでいるのかわからない親戚たちと、お互いに意味が通じていない話をし続けます。
支離滅裂な宴の後で、「私」は帰宅し、普段の日常に戻ります。しかし本書の最終行を読むと、読者は「私」にふるさとの因習が続いていることに気づくでしょう。
笙野作品の中では短めで比較的読みやすく、ラストでゾッとさせるのが秀逸な作品です。
かなり強引に「闘う」という切り口だけで紹介してきましたが、いかがでしたか?このことを笙野頼子が知れば、「纏めるなよ。纏めたら却って取りこぼしが出るぞ」(『母の発達』より引用)と言うのでしょう。広がりがあり、深い作品ばかりなので、興味のある方は読んでみてくださいね。