あまり読まれてなさそうな『ビアンカ オーバーステップ』をオススメしたい。

更新:2021.11.7

『ビアンカ オーバーステップ』は、複雑な傑作です。その出来の良さ、つまり「面白さ」にも関わらず、あまり読まれない作品かも知れません。もったいない。

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著者
["筒城 灯士郎", "いとう のいぢ"]
出版日
2017-03-16

『ビアンカ オーバーステップ』(以下『オーバーステップ』)は、
『ビアンカ オーバースタディ』(以下『オーバースタディ』)の続編として書かれた作品です。

この時点で、『オーバーステップ』に手を伸ばすのは『オーバースタディ』を読んだ人に限られてしまいます(実際には、『オーバーステップ』をさきに読んでも問題ありません)。『オーバースタディ』は2012年に刊行された筒井康隆の作品です。

『オーバースタディ』を読んだことのある人の中で、さらに「『オーバースタディ』の続編だよ」と言われて「期待する」ことのできた数少ない人だけが『オーバーステップ』を手に取ったのでした。

「自分は『オーバースタディ』も「涼宮ハルヒ」シリーズも読んでいないが『オーバーステップ』を読んだ」という人がいるかも知れません。それはそれで正しい。えらい。君に幸いあれ。でも多数派ではありませんよね。

そもそも『オーバースタディ』からして、谷川流の往年の人気シリーズ「涼宮ハルヒ」のパロディという側面のある作品でした。

その「涼宮ハルヒ」が元ネタの1つにした作品、『時をかける少女』。そのの作者にして日本SF界/日本文学界の大御所であるところの筒井康隆が手掛けた意欲作、それが『オーバースタディ』なのです。

著者
筒井 康隆
出版日
2016-05-25

『オーバースタディ』は意欲作でした。ライトノベルとして書かれたという以前に、読みやすい文体の追求にかけてひと世代を超越する実績のある筒井康隆が、敢えて取り組んだ作品です。

もっとも、その読みやすさとライトさ、面白さを認めたとしても、『オーバースタディ』は素直にライトノベルとして手放しに楽しめる作品だっただろうかというと、首肯しがたい、複雑な気持ちを抱えさせられる逸品でした。

「歴史の生き証人のような大御所が若者向けのライトノベルを書いてみた」という挑戦の意義を高く評価するとして、その「意義」が損なわれない程度の佳作であったことを認める人であっても、『オーバースタディ』が掛け値無しの傑作であったかと言われたら、答えに窮する筈です。

筒井康隆のファンならば、あるいは谷川流や「涼宮ハルヒ」シリーズのファンならば、『オーバースタディ』までは読んでいるかも知れません。

著者
["筒城 灯士郎", "いとう のいぢ"]
出版日
2017-03-16

そうは言っても、筒井康隆でも谷川流でもない新人がその続編を書いたからといって、いくら当の筒井康隆が帯で絶賛しているからといって、『オーバーステップ』を手に取るでしょうか。まして『オーバーステップ』は上下巻2分冊での刊行です。手を出すのに躊躇する読者も多かったに違いありません。

だから、その話題性と知名度に反して『オーバーステップ』は「読まれることすら稀」という過酷な位置に置かれている可能性が高い。作者の名前と文体が、人気作家の舞城王太郎に酷似しているとしても、むしろそれは読者を狭める要因になっているのかも知れません。

しかしなぜ『オーバーステップ』は読者の幅を狭めてまで、『オーバースタディ』の続編である必要があったのでしょうか。それは『オーバースタディ』の続編という要素が、『オーバーステップ』が「膨大な過去作品群のパロディの集合体」という性格を持っている以上、捨てるにはあまりに惜しいものだったのだと考えるのが妥当でしょう。

『オーバーステップ』の直接の前作である『オーバースタディ』は、繰り返し書いているとおりSF界と文学界に対して堂々たる存在感をもつ筒井康隆による「涼宮ハルヒ」シリーズなどのパロディであり、その「涼宮ハルヒ」シリーズも、当の筒井康隆作品である『時をかける少女』をはじめとして無数のSF作品への参照が目立つパロディ色の強い作品でした。おお面倒くさい。

でもこの面倒くささが大事なんです。

小説を成り立たせている言語というものは、一般的には現実の世界を素朴に指し示していると考えられています。椅子とか電車といった言葉は、読者が知っている現実の椅子や電車と言わば地続きのものだと考えられるのがふつうです。人の名前も、紙に印刷された名前だけを見た場合には、あるいは現実に存在している人の名前であれば普通は、現実の誰かのことを指し示していると考えるものです。「筒井康隆」と言えば、この言葉は、この文字列は、普通、現実のどこかにいる「筒井康隆さん」のことを指し示していると素朴に考えられるはずです。

しかし、それが別の作品に描かれたことのある椅子や電車、あるいは別の作品に書かれた誰かの名前は、素朴な現実を指し示しているのではありません。作品Aに描かれた椅子や電車、作品Aに登場した人物の名前が、別の作品Bに登場するとき、その椅子や電車や人物の名前は、素朴な現実ではなく、作品Aを参照したものになります。

こういう作品と現実との参照関係についての思弁は、一般的に言って好まれないことは現代では明白です。難しいことはよくわからない、そう言明するのが流行り始めてだいぶ経ちました。

小説という虚構作品一般にとっては、小説を成り立たせている言語が現実の世界を素朴に指し示している方がより単純で、読者は安心して読める、それでいいじゃないか、というわけです。

これは、虚構は虚構で、現実とは分断されているのだ、そう暗黙の裡に了解してしまえばいいじゃないか、と言うこととも同じです。

そこで虚構もまた現実世界に含まれるものであるとばかりに、虚構を指し示す言語が混入するようになると、読者は途端に不安になってしまう。最初から見も知らぬキャラクターの立ち居振る舞いを自然なものとして読んできたのに、読んだことのない作品が言及されていることに引け目を覚えてしまう。現実と虚構の境界は、歴然としている必要があるのです。

しかしそれは同時に、仲間内に向けた目配せでもありました(この仲間内に向けた合図のようなネタの使い方が、一層排他的に感じられる読者も多そうです)。なので『オーバーステップ』はわざと自閉性をあからさまにすると同時に、他作品への多重の帰属を表明しているのです。

筒井康隆がそうであったように、文体が軽妙であり、物語の着想が鮮やかであればあるほど、作中の他作品や現実の史実的なものへの言及はスパイシーなノイズとして機能します。

かつて舞城王太郎が、佐藤友哉や西尾維新とともにファウスト系と呼ばれていた頃は、ミステリ小説がSF由来の思弁小説的性格を受け継いで、文体の遊戯と読者共同体への自閉と他作品への言及というノイズを、文学的な着想と共存させるという試みを続けていました。『オーバーステップ』の作者が舞城王太郎の名前を露骨に思い出させるのは、当時のスタイルへの言及だと言えるでしょう。

では、『オーバーステップ』における文学的な着想とは何なのでしょうか。これがもしくだらないものであれば、すべての試みは単なる衒学的な悪ふざけということになります。『オーバーステップ』が単なる衒学的な悪ふざけであるという可能性は否定できないのですが、そうでないのだとしたら、ここにある文学性とは、姉妹愛に象徴される愛情一般の戯画性です。

『オーバーステップ』の主人公であるロッサ北町は、前作『オーバースタディ』の主人公だったビアンカ北町の妹であり、常軌を逸するほど姉を愛していることになっています。『オーバーステップ』のなかで、ロッサは繰り返しビアンカへの愛情を吐露するのですが、ビアンカはある夜突然にロッサの前から姿を消します。『オーバーステップ』は、消えたビアンカをロッサが探し求めるという物語なのですが、普通の読者であれば、ロッサのビアンカに対する恋慕の激しさと根拠の無さに、ちょっと白けてしまい、突き放して読もうとするでしょう。

まったく動機に共感できないまま、しかしストーリーテリングの軽妙さに誘われてどんどんと読み進んでいくうちに、ロッサをまるで身近な誰かのように親しく感じるようになり、物語の終盤を迎える頃にはすっかり見慣れたアニメの常連キャラクターであるかのように感じ始めるかも知れません。繰り出されるSF的な世界表現の数々は、元ネタがわかれば懐かしいものでしょうし、元ネタがわからなければ新鮮な小説的な実験だと驚かされると思います。いずれも過剰にはならず、いわゆる「上手い」使い方で按配されていきます。

最後の最後で読者は、もう一度だけ「大技」を喰らうでしょう。そのときに、ようやく理不尽、非合理的、ご都合主義的にすら思われた、ロッサのビアンカへの盲目的な愛情が、そのまま愛情一般の無根拠性、根拠がないことは問題ではないということ、それに気付かされるのです。

韜晦にも見える、過剰で排他的なほどの手練手管の数々は、「ロッサのビアンカへの愛情」あるいは「妹から姉への愛情」といった特殊な愛情ではなく、誰かが誰かを愛すること、つまり愛情一般の姿を描くための材料だったことが判明するのです。誰かが誰かを愛するという、ひとつの特殊な感情は、それが愛情である限りは一般性を帯びています。この特殊と一般の通底という矛盾は、愛情をテーマにする文学のひとつの典型的な構造です。定型的、紋切り型だと言ってしまうことすらできるでしょう。

しかしそれは普遍的な文学の水準に到達しているということでもあります。愛情を描くにあたって、技法を尽くしてその戯画性を表現することを選ぶ。その結果として読者が出会うのは、作品の文体の味わいであり、その世界の手触りです。単なる完成度の高さではなく、高い完成度の作品だけがもつ「面白さ」を楽しむことができるのです。そして、一部の読者はこれこそ「涼宮ハルヒ」シリーズにも、筒井康隆や舞城王太郎の限られた作品にも通じる、傑作を読む楽しみだったことを思い出すかも知れません。

『オーバーステップ』を読む読者は少ないでしょう。それでも本作が書かれたこと、そしてそれが高く評価され、刊行されたことは喜ばしいことです。そして話題性のわりに読まれていないこと、また読まれてもその評価が低いことは、この作品が傑作の1つであることをなんら疑わしくするものではありません。もし幸運にも『オーバーステップ』に興味を持つ人がいるのなら、その人は、その人が筒井康隆や舞城王太郎やSFをどれくらい読んだことがあるかを顧みることなく、まず本作を手にとって読み始めてしまうことをお勧めします。

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