作家・石原慎太郎の魅力を探る

作家・石原慎太郎の魅力を探る

更新:2021.12.1

はじめまして。西田藍です。グラビアと書評をやっています。今回のテーマは「石原慎太郎の魅力を探る」です。どうして、今、石原慎太郎なのか、少し説明させてください。ちょうど、この連載のテーマを考えていたとき飛び込んできたニュース。舛添要一・東京都知事辞職の意向、というニュース速報を見て浮かんだのは、6代目都知事の政治家・石原慎太郎でした。

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舛添氏の辞職のきっかけとなった“不適切な支出”の内実は、なんとも庶民的な経費の使い込みでした。例えば、出張時にクオカード付きのビジネスホテルを予約して、クオカード分得をする、といったようなサラリーマンライフハックの延長線上にあるような……まさに庶民感覚の不適切な支出でした。私は政治に疎い人間ですが、それでも都政において、目立った失策があったとは思えません。ドケチな人間はお金を持ってもケチなんだ、と、報道が白熱するにすれ、感心すらしたほど。芸術を愛する苦労人ドケチ、という今まで知らなかった強いキャラクター性を感じました。こんなにおもしろい人だっただなんて。

でも、舛添氏は、東京都民に愛されていなかったのです。

では、1999年から2012年まで都知事だった石原慎太郎はどうでしょうか。作家として愛され、文化人として愛され、政治家として愛されていたからこそ、長く都知事を続けられてきたのではないでしょうか。「いや、愛してないし!」って声が聞こえてくるようです。私も別に愛してはいませんけれど。でも。失政も暴言も税金の無駄遣いも、なんだか「世間」から許されてしまっていた一因は、その個人の魅力にあったと思うのです。 ところで、Twilog(Twitterのログ保存サービス)を見たところ、私がアイドルとして初めて石原慎太郎に言及したのは2013年8月26日。

石原慎太郎を読んでみた

著者
["豊崎由美", "栗原裕一郎"]
出版日
2013-08-26
この本のベースとなったのは、2012年4月から1年間、12回にわたって行われた栗原裕一郎と豊崎由美のトークライブ「いつも心に太陽を」。芥川賞作家であり、今なお現役作家として活躍している彼は、今まであまりにも語られてこなかった。色眼鏡を外して、毎回作品を批評し、作家・石原慎太郎を評価しようという試みだ。評価といっても、べた褒めしているわけではない。作品一つひとつと誠実に向き合い、「価値を判じ定め」ている。

文学批評に疎くとも、文学作品を読まずとも、2人の軽快な会話で難解そうな主題が、すっと頭に入っていく。

発売後、石原慎太郎本人が、原書房の社長に会食のお誘いの電話をした、なんて話でも盛り上がった(先ほどのツイートはその盛り上がりを見ての「ネタツイ」である)。そして、翌年には遂に実現。『婦人公論』(7/7号)(7/14号)にその鼎談は掲載されたのだ。ちょうどその頃、私はNHKのテレビ番組『ニッポン戦後サブカルチャー史』の第1回に出演することになった。50年代の時代の代表として取り上げる作家が、石原慎太郎であるという。恥ずかしながら、『〜読んでみた』ですっかり読んだ気になっていた私は、この時点で、初めて『太陽の季節』の文庫本を手に取ったのであった。

太陽の季節

著者
石原 慎太郎
出版日
1957-08-07
表題作は1955年発表。あまりにも有名な芥川賞受賞作品である。弟を主演に据え映画は大ヒット。そして、作家としてスターダムに駆け上がっていく。弟・裕次郎の放蕩生活をモデルに描いたとも言われる作品で、戦後消費社会を無気力に生きる放蕩する若者たちが描かれている。端的に言うと、金持ちの高校生たちが好き放題遊びまくる話。有名なシーンとしては、障子から興奮したアレを突き出したり。障子は破ける。「太陽族」という言葉も生まれた。

大人の規範を無視する子供。コクトーの『恐るべき子供たち』が有名な原型だろうか。大人たちが作り上げた虚構を馬鹿にしながら、暴力とセックスに明け暮れる。約束された将来を嘲笑しながら、そのときがくるまで、夢を失った少年たちは、肉体言語に溺れる。あれ、消費社会で夢を失った子供たちって、なんか私たち世代も言われてきたんだけどな……1932年生まれの石原慎太郎(83歳!)が描いた同年代の若者も、大人に顔をしかめられる、ショッキングな新しい若者だったのだ。

20歳頃であろうか、引きこもり時代に「太陽の季節」の姉妹編である、映画『狂った果実』(1956年)を観たときはたまらなく苛々した。いかにも現代的な病んだ引きこもり青年であった私ですら苛々したのだから、50年代の大人たちにはどれほどのものだったか! 『ニッポン戦後サブカルチャー史』で、豊富な映像資料とともに、いかに石原兄弟が時代の寵児であったかを学んだ。そして、『〜読んでみた』や『太陽の季節』の文庫解説にあった当時の文壇の評価や空気を、身近に感じたのだ。
 
私にとって石原慎太郎は作家ではなく、保守論客のイメージが強かった。体罰擁護や差別発言にはその都度怒っていたし、石原氏本人は、私の嫌いフォルダにばっちり入っている。しかし、個人的な好悪で思考停止することは、その時点で既に、彼や彼の支持層への敗北であるのだろう。

慎太郎ワールドが支持を集めた理由

作家・石原慎太郎をどう評価するのか、『〜読んでみた』を目標に、ぜひみなさんも、実際に作品を読んでいただきたい。文化人として、政治家としての石原慎太郎はどうであろうか。アナーキーな作家性は、鳴りを潜めている(ように見える)。しかし、保守論客としても、政治家としても、彼が支持を集めた理由はそのアナーキーさにあるのだ。

私は、政治家としての彼を都知事時代からしか知らない。政策評価はここではしない。しかし、是非はともかく、さまざまな改革を実行してきたのは事実だ。彼が若いころに小説で描いた、体制的な、規範に沿った、つまらない……それこそ「保守的な」大人たちが今も生きていたら、アッと驚くであろう政策の数々ではなかったか? 私が嫌いになったきっかけは、多数の暴言、失言、放言である。政治はわからぬとも、暴言はわかる。

一見、保守的に見えるが、一貫して行動はアプレゲールである。12、3歳で敗戦を迎え、いちばん白熱した愛国教育を受けた世代ながら、梯子を外された形だ。実家の没落後も、弟が戦後消費社会の中で放蕩を重ね、金策に走っていたという彼は、本来「太陽族」の演出家であって、「太陽族」ではない。しかし、時代の寵児はそのまま波に乗り、無責任で、無軌道な、慎太郎ワールドを作り上げた。失政も失言も、そのなかのひとつに過ぎなくなる。だからこそ、彼は4期に渡って都知事を務めることができたのであろう。

彼が80代になった今でも、アプレゲール的慎太郎ワールドを保ちつつ、保守論客であり、保守派政治家であり、ときたま遊び心を見せる、そんな余裕を保ってきた。それ故に、愛され、許されてきたのだろう、と記した。しかし、もちろん私は慎太郎ワールドの住人ではない。いくら終戦当時にアプレゲールと呼ばれたからって、その思想は旧弊だ。

社会はなぜ左と右にわかれるのか

著者
ジョナサン・ハイト
出版日
2014-04-24
さて、いよいよ、最後の本の紹介に移る。石原慎太郎を苦々しく思っていた人々へのひとつの政治的ヒントになるであろう本だ。
 
父が外国人で、女に生まれてしまったため、私は残念ながら保守になりたくても、なれない。そんなシンプルな理由で、私の価値観はリベラル的だ。近頃、リベラルの敗北、という文字をよく目にする。アメリカではトランプ候補が躍進中だとか、イギリスがEU離脱だとか、日本でも右傾化がどうのこうの、だとか。

思想を左右で分けた時、両陣営は対立する。当たり前のことだ。ただ嫌い、毀損を繰り返していても、政治では勝てない。それぞれがそれぞれを理解するために、正義、道徳、そして宗教の考え方について“道徳倫理学”から、探っていく本である。政治と宗教について、異なる考え方の人々を理解する助けになるだろう。アメリカの保守と日本の保守は政府観が異なるので、そのまま日本に当てはめることはできないものの、感情にきちんと向き合う調査は非常に興味深い。

理性的な思考と道徳的直感は、相反することがある。前者を優先させるのがリベラルで後者を優先させるのが保守……だとして。リベラルの敗北が語られるとき、頭でっかちの恵まれた高学歴のお花畑な理想像の敗北だ、と一蹴されることがある。実際そのような論客もいるし、私個人は非常に苦々しく思っている。しかし、道徳的直感から排斥される人間にとっては、その理想もお花畑なんぞではない、死活問題なのだ。

保守思想の中に、私の居場所はない。
 
敵を知らなければ、異なる人々の考え方を知らなければ、勝つことはできない。繰り返そう。個人的な好悪で思考停止することは、その時点において、敗北であるのだ。

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    アイドルが、本好きのコンシェルジュとして、おすすめの本を紹介します。小説に漫画、詩集に写真集に絵本。幅広い本と出会えます。インタビューも。

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