大阪大学医学部教授が読む「分子生物学、温故知新」

勝手な本だがおもしろい、ワトソンの『二重らせん』

21世紀は生命科学の時代だと言われることがある。20世紀から21世紀にかけてヒトゲノムの解読が終了し、さまざまな現象や疾患が分子レベルで記載されるようになった。そして、現在その成果が続々と医療に応用されているし、これからも続いていくだろう。

このような爆発的な進歩は、分子生物学-生命現象を分子レベルで解明する学問-によるところが大きい。これまでに、分子生物学に関係する本でいちばん読まれたのは、ジェームズ・D・ワトソンによる『二重らせん』である。

著者
ジェームス.D・ワトソン
出版日
2012-11-21

フランシス・クリックと共にDNAが二重らせん構造であることを見出した経緯が詳しく書かれている。というと難しいと思われるかもしれないが、なんか、ちゃらちゃらした兄ちゃんであるワトソンが、女の子の尻をおっかけたりして遊びながら、けっこう歳をとっているのにたいした業績もないクリックと、ケンブリッジのパブでぺちゃくちゃおしゃべりをしながら正解にたどりついた、っちゅうような話で、かなりおもしろい。

この二人、自分たちで実験をしていた訳ではない。では、どのようにして結論に達したのかというと、他人の未発表データを利用したのである。そのX線解析データを出したのはとびっきり優秀な女性化学者ロザリンド・フランクリン。フランクリンは当時のボスであったモーリス・ウィルキンスと最悪の人間関係にあり、勝手にそのウィルキンスがワトソンにデータを見せたのだ。

世紀の大発見は、そのデータに基づいてなされたのだから、研究不正ぎりぎりのところだ。しかし、「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」で、ワトソン、クリック、ウィルキンスの三人がノーベル賞を受賞することになる。受賞時、フランクリンはすでに亡くなっていたとはいえ、なんとも釈然としない話である。

この本で、ワトソンはフランクリンのことを相当悪し様に描いている。ただし、これは客観的な物語ではない。あくまでも、ワトソンの記憶によるワトソンの私史なのだ。だから、後年、フランクリンはこの本に書かれているような性悪な女ではない、ということを示す本が何冊も出版されている。

その進め方、心理や名誉欲など、研究において普遍的な内容がたくさん含まれている。あくまでも嫌われ者ワトソンの私的解釈であるから、内容を少々割り引いて読む必要はあるが、出版されて半世紀たったいま読んでも十二分に面白い。二十世紀のノンフィクションベスト100にも選ばれたことがあるし、二十カ国語近くに翻訳されている『二重らせん』もし、未読の人がおられたら、ぜひお読みいただきたい。

絶版なれど読む価値は絶大! 『分子生物学の夜明け』

ワトソンの本が偏りのある私史であるのに対して、分子生物学の正史はこの本『分子生物学の夜明け - 生命の秘密に挑んだ人たち』につきる。残念ながら絶版になって久しいので、図書館で借りて読むしかないのだが、それだけの価値がある本だ。ちなみに原著タイトルは『The Eighth Day of Creation』。分子生物学を創造の第8日目に位置づけるという大胆な発想だ。

著者
H.F.ジャドソン
出版日

科学史家ジャドソンによる、DNA、RNA、タンパク質、からなる上下2巻の三部作だ。この本が圧倒的なのは、分子生物学という学問分野を創成した研究者たちに直接インタビューをおこなっているところだ。まるでリアルタイムで見るかのように、分子生物学の歴史がビビッドに描かれている。ただし、ワトソンの本が自分勝手な解釈で書かれているのと同じように、研究者たちの記憶も必ずしも一致しないのが面白い。

中国史についての本などを読むと、ある国がどのようにしてできたかのストーリーは実にエキサイティングだ。そこには強烈なリーダーがいて、偶然と必然が織りなされた結果として、新しい国ができあがっていく。

科学においても、ある学問分野ができあがっていく様を眺めるのは本当に面白い。分子生物学がいまのような隆盛を極めるにあたり、カリスマ性を発揮して正しい道に導いたのは、間違いなくクリックである。その快刀乱麻の活躍は、血湧き肉躍る英雄譚に引けを取らない。

分子生物学、古典中の古典といえば『生命とは何か』しかない

分子生物学の夜明けには、クリックやウィルキンスを含め多くの元物理学者が活躍した。それらの研究者に、物理学から生物学へと転向させた原動力となったのは、量子力学の研究でノーベル物理学賞に輝いたエルヴィン・シュレディンガーの『生命とは何か-物理的にみた生細胞』というさして厚くはない一冊だった。そういった意味で、1944年に出版されたこの本は、分子生物学の古典中の古典ということができる。

著者
シュレーディンガー
出版日
2008-05-16

生物における「秩序」がどのように保たれているかというところから、遺伝のメカニズムについての思考実験を押し進め、遺伝子は安定な構造をもつ巨大分子で、非周期性の固体である、と結論づける。そして、「生命」を物理学で解きほぐすための糸口があたえられたのだ。

もちろん、現在の分子生物学の知識をもって読めば、誤っているところもたくさんある。しかし、そのような後知恵による意地悪な読み方は間違えている。たとえ仮説は誤っていてもかまわない。新しく生まれた意義深い学問分野は、数多くの試行錯誤によって修正され、正しく打ち立てられていくものなのだから。

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