福永武彦のおすすめ作品5選!古典の現代語訳も務める小説家

更新:2021.11.8

長編小説『草の花』で小説家としての地位を確立した福永武彦。病を抱えながらも、小説や詩だけでなく、仏文学や古典の研究、翻訳と多くの成果を遺してきました。そんな福永武彦のオススメ作品をご紹介します。

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愛と孤独を見つめ続けた作家、福永武彦

深い思索と情緒溢れる描写で知られる福永武彦。その人生と作品に影響を与えたであろうものに、キリスト教、病気、戦争の3つが挙げられます。

1918年、福岡で生まれた福永は、7歳の時にキリスト教伝道師であった母を亡くします。翌年父は福永を連れて上京。母を思い出させるもの全てから遠ざけられ育てられますが、教会だけは例外で、父と亡き母の約束通り彼が中学生になるまでは連れて行かれたようです。その後福永は教会を離れますが、作品にはクリスチャンの登場人物を配したり、聖書で多く論じられている愛についての考察がみられたりしています。

また彼は、多くの病を抱えた人でもありました。20代で結核を発症すると、結核菌は肺、咽頭、腸、副睾丸までも侵します。外界から隔絶され、プライバシーのない療養所の生活。闘病仲間が他界することも多かったでしょう。青年期の約10年間をそうした場所で過ごした彼の中に、自己と他者との関係、集団の中で感じる孤独についての深い考察が生まれたのは想像に難くありません。

福永はその後も気管支拡張症、肋膜炎などで入退院をくり返し、61歳という若さで他界しています。

さらに、戦地での実体験こそありませんが、福永は青年期を戦争の濃い影の中で過ごしました。当局の指示で戦争賛美の作品を作らされたり、自分の書きたいものを書けない作家や詩人たちを見るなかで、文学が戦争に屈してきたことを痛感します。以後彼は、病と闘いながら、想像力の追いつかないほどの巨大な現実にどう向かい、越えていくのかを模索し続けることになります。

文学は戦争という集団的かつ個人的な体験をどう超えていくのか。そして人間は他者や、自らの内にある愛や孤独とどう向き合っていくのか。彼はこうした問いの答えを真摯に探し続けました。元々は詩から出発した福永の文学ですが、問いを抱えた彼は、小説の執筆、フランス文学の研究、古典の研究なども行うようになるのでした。 愛と孤独への深い考察と、怜悧な分析力を持ちながらも、アイロニカルなユーモアも忘れなかった福永武彦。その多才な作品の中から5つご紹介しましょう。

福永武彦の代表作

白い雪の降る日、結核患者の「私」の療養所仲間である汐見は、自らの強い希望で自殺行為ともいえる肺葉の摘出手術を受けて死んでしまいます。

「私」の手元には汐見から託された2冊の手帳が残りました。第1の手帳には藤木という年下の青年との思い出、第2の手帳には藤木の妹、千枝子との淡い恋が記されていたのでした。

著者
福永 武彦
出版日
1956-03-13

この作品は、「冬」「第一の手帳」「第二の手帳」「春」の4つの章で構成されていて、現実と過去を行き来し、「私」「僕(汐見)」「わたくし(千枝子)」と視点を変えながら、亡くなった汐見の内面が映し出されています。

生きることが芸術であり、自分はそう生きた、もう肉体の死に意味はないと手術前夜に語っていた汐見。彼は豊かな感性を持ちながらも同時に理知すぎました。

汐見の恋の結末の真相は、「春」の章における千枝子の手紙の中で明かされます。しかし、それは千枝子にとっての真実であり、亡き汐見にとっての真実はもう変わることはないのです。

『草の花』が書かれたのは戦後まもない時。当時の恋愛模様や死生観は、古風に感じられるかもしれません。しかし、青年期に自分の存在意義について考える姿には共感できる人も多いのではないでしょうか。

時代は変わっても、生と死のギリギリのところにいる人間の心情を切り取った深い文章に、心揺さぶられるでしょう。福永の豊かな情景描写が感動をより深くしてくれます。

すれ違う家族の愛と情を描いた傑作長編

自宅とは別に誰にも秘密で借りているアパートで、物思いにふける中年男の藤代。戦後起こした会社がそれなりに軌道に乗り、今は社長になっています。

しかし、目の前で死んでいった戦友のこと、社会主義運動の仲間を裏切ったこと、自分の子を身ごもって投身自殺した恋人のことなど、その胸中には後悔が渦巻いているのでした。

著者
福永 武彦
出版日
1969-05-02

藤代の妻は10年もの間病床にあり、長女はその介護で結婚しそびれています。わがままな次女は大学生活を謳歌している様子。妻とは親の勧めで愛なく結婚し、最初の子を亡くした時にその溝は決定的になっていました。長女は母に代わって彼を責め、次女は無関心を貫いているのです。

全体が7章に分かれていて、章ごとに藤代、長女、次女、妻が代わる代わる語っていき、物語が進むにつれ、すれ違っている家族それぞれの思いが浮き彫りになってきます。

人は自らの孤独を抱えて生きるしかない、しかし同時に他者と関わることなく生きることもできない……そうした矛盾のなかで、どう善く生きるかを追求した福永の思想が色濃く表れています。

すっきりしたハッピーエンドではありませんが、夫婦や家族のあいだに芽生える、愛を越えた「情」のようなものが彼らにもあったということが終盤でわかり、少し救われた気持ちになることでしょう。

「家族」というとお互いによくわかっていると思い込みがちですが、それぞれが別の構成員なのです。すれ違いつつも互いを切り捨てることはできない、愛し憎しが交錯する家族ならではの心情が丹念に描かれています。

愛について磨き抜かれた福永武彦の思惟

「僕は愛について語りたいと思う」(『愛の試み』より引用)

という直球勝負な宣言で始まるエッセイ集です。日本人は「愛」というと単純に男女の恋愛感情を想像しがちですが、聖書やギリシア語に通じていた福永にとって、愛とは「アガペー」と「エロース」の2種類がありました。

キリスト教でいうアガペーは無償の愛、神の愛とされることが多いですが、福永はアガペーを静的な「兄弟愛」、エロースを動的な「欲望としての愛」としています。そして、エロースの中にもアガペーはあるというのです。

著者
福永 武彦
出版日
1975-05-28

幼少期に母の愛を失い、戦争と病気によって常に自己の内面と向き合うことを余儀なくされてきた福永。「愛について語る」などというと少し気恥ずかしい感じもしますが、彼はいたって真剣です。

そして聖書の中のソロモン王による雅歌「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず」を引用しながら、愛と孤独について真っ直ぐに掘り下げていきます。

内容が観念的にならないようにと、要所で挿入される創作小話も真実をついており、読み応えがあります。薄めの本ですが何度も読み返したくなる、そしてそのたびに新しい発見ができる一冊です。

福永武彦の読みやすい工夫がいっぱい

古典には様々な訳が出ており、それぞれ訳者の個性が際立つものです。日本最古の書である古事記にも多くの訳がありますが、その中でもわかりやすいといわれる福永版には特長があります。

まず、原本のすべてではなく、代表的な部分のみが収められていること。また、古典の現代語訳本によく見られる、下部に注釈を置く形式をとらずに、最低限の解説を本文中に入れ込んであること。そして福永の圧倒的な文章力です。

「お前の身体は、どのようにできているのか?」 
「私の身体は、これでよいと思うほどにできていますが、ただ一ところだけ欠けて充分でないところがございます。」 こう女神は答えた。イザナギノ命がそれを聞いて言うには、
「私の身体も、これでよいと思うほどにできているが、ただ一ところ余分と思われるところがある。そこでどうだろう、私の身体の余分と思われるところを、お前の身体の欠けているところにさし入れて、国を生もうと思うのだが。」
「それは、よろしゅうございましょう。」 こうイザナミノ命も同意した。(『現代語訳 古事記』より引用)

ともすればあけすけになりそうな部分なのですが、品性を保ちつつも堅すぎず、味わい深い文章になっています。

著者
出版日
2003-08-05

この他にも、国産みの時には初々しかったイザナギとイザナミがまるで倦怠期の夫婦のように喧嘩をする黄泉の国の話、スサノオノ命のヤマタノオロチ退治、姉妹で嫁にいったのに醜い姉イワナガ姫だけが帰されてしまったコノハナサクヤ姫の話など、有名な話や人間くさい話が選ばれており、読むうちに昔の神様たちに親近感がわいてきます。

また近年では、福永の息子で作家の池澤夏樹も古事記を訳しています。こちらはかなりフラットな訳になっているので、読み比べてみると面白いでしょう。

福永武彦が描く、かなわぬ恋たちが織り成す世の無常

信濃から上洛した大伴次郎信親は、身を寄せた中納言家の娘、萩姫に心を奪われます。しかし姫は忍んで来た左大臣の息子、安麻呂を慕っているのでした。安麻呂も姫に心惹かれていますが、彼女が入内を控えていることを知り、身を引くのです。

一方、笛師の娘、楓は次郎を慕っていますが、次郎の心は姫にあり、思い余った次郎は姫をさらってしまいます。しかし姫は安麻呂のことを忘れられません。諦めた次郎が彼女を返そうとした時、盗賊である不動丸に姫を奪われてしまうのでした。

著者
福永 武彦
出版日
2015-07-04

福永が愛読し、現代語訳も出している今昔物語を題材にした時代小説です。しかし、ひとつの話を膨らませた芥川龍之介の『羅生門』『鼻』や谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』などと違い、様々なエピソードを抽出して混ぜ合わせ、濾過したような作品になっています。

注目すべきは登場人物のキャラクターでしょう。田舎で埋もれたくないと上洛し、想いのあまり姫をさらってしまう行動力ある次郎、入内が決まっている姫を諦めてしまう生粋の貴族安麻呂、自分の想いをはっきりと伝え、身を挺して次郎を守ろうとする勇敢な楓、昼夜で善と悪を体現する不動丸……内省的な人物を描くことの多い福永には珍しく、線のくっきりしたキャラクター造形がされています。

登場人物たちの恋は滑稽なほどすれ違い、すべて一方通行で、報われることはありません。残された萩姫は尼となり、俗世を離れて亡くなった者たちの菩提を弔い、ひっそりと生きていきます。

ここには、人は愛を乞いながらも本質的には孤独のうちに生きていて、他人の心を知ることができない、という福永文学におけるモチーフをみることができるでしょう。誰も幸せになれなかったラストに、冷たい秋風が吹き抜けていきます。世の無常を感じるシーンですが、福永らしい情緒溢れる描写は深い読後感を残してくれることでしょう。

真摯な態度で人生に向き合い、それを明晰な分析力と豊かな描写力で遺した福永武彦。彼の小説家としての代表作から随筆、古典の現代語訳、時代小説に至るまで、様々な作品をご紹介してきました。どの入り口から入るのもオススメですよ。

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