淀殿(茶々)の知っておきたい4つの事実!三大悪女の素顔は?外交テクも紹介

更新:2017.8.18

時は戦国時代、淀殿は近江国の戦国大名である浅井長政と織田信長の妹である市との間に生まれました。豊臣秀吉の側室となり、2人の子を産み、秀吉の死後は徳川家康と対立した後に大阪夏の陣で自害をします。彼女の意外な事実と、壮絶な人生がわかる本をご紹介します。

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淀殿(茶々)とは?3度の落城を経験した波乱万丈な人生

1569年、後に淀殿となる茶々は、近江国の戦国大名である浅井長政と、織田信長の妹である市との間に生まれました。後に初、江という2人の妹ができ、彼女たちは「浅井三姉妹」と呼ばれ、戦国時代において重要な役割を担っていくこととなります。

茶々は生涯で3度の落城を経験することになります。最初の落城は1573年、彼女がまだ幼いときでした。父の長政が織田信長と戦って敗れ、自害。居城である小谷城が落城すると、彼女は母の市と共に信長のもとへ引き取られることになりました。

1583年、市が信長の重臣である柴田勝家と再婚すると、彼の居城である北ノ庄城がある越前国へと向かいます。しかし同年、勝家は秀吉と対立して敗れると、市とともに自害してしまったのです。これが茶々にとって2度目の落城経験になりました。三姉妹は秀吉に引き取られます。

1588年、茶々は秀吉の側室になりました。秀吉はすでに関白に就任しており、その後1590年に天下を統一を成し遂げます。2人の間には棄(鶴松)と拾(後の豊臣秀頼)が産まれました。これは同時に、母親である茶々に対して「母后としての地位を約束する」ものでもあったのです。

「淀殿」「淀の方」といった呼称は、最初の懐妊後、産所を与えられて以降に使用されたものです。この他に「二の丸殿」「西の丸殿」などと呼ばれていました。

当時、身分の高い人物は、本人の名前よりも出身地や居住場所などによる「通称」で呼ばれることが多かったため、「淀殿」が定着したものと考えられます。

しかし、幸せに思える彼女の栄華も長くは続きません。1598年に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭し、天下はしだいに豊臣家から徳川家へと移っていくのです。1600年に起きた「関ヶ原の戦い」を経て1603年に江戸幕府が開かれると、もはや世の中を牛耳るのは豊臣家ではなく徳川家でした。

このような状況下で、1614年に「大坂の陣」が勃発します。当初は豊臣家が徳川勢を苦しめ、一時は和睦が結ばれそうになったものの、結局交渉が決裂。完全に堀を埋められていた大阪城は防御機能を失い、もはや豊臣家に勝ち目はありませんでした。

1615年に落城し、淀殿は息子の秀頼と共に自害。家康が天下を統一し、戦国時代は終焉を告げることとなりました。

これが彼女にとって生涯3度目の落城経験です。戦国時代、落城を経験した女性は少なくありませんが、彼女ほどの波乱万丈な人生を経験した女性は、非常に珍しいといえるでしょう。
 

淀殿の姉妹外交テクニック

秀吉の死後、息子の秀頼がまだ幼かったため、淀殿が後見人の立場をとっていました。しかし関ヶ原の戦いが終わり彼が成人してからも、彼女は政治の実権を握り続けます。

関ヶ原の戦い後、西軍に属した大名は領地を失い、そして東軍に属した大名もまた「外様大名」として大阪あるいは江戸から離れた領地へと移封されていきました。そのため大阪には有力な後見人となる人物が存在していなかったのです。

加えて1605年、家康の三男であった秀忠が徳川幕府の2代将軍となります。彼の正室は淀殿の妹である江(小督)でした。

当然ですが将軍の正室の意見は大きな影響力を持ちます。秀頼が成人した後も彼女が政治の実権を握り続けた背景には、この「姉妹外交」の存在が大きかったのです。

淀殿の知っておきたい4つの事実!家康のアプローチを拒否!

1:けっして美女とは言えない風貌をしていた

「美女」の定義は時代によってさまざまで、特に目や口などの形においては大きく変化しています。しかしいつの時代でも共通しているのが、「顔型」ではないでしょうか。

母親の市や、従妹でおなじく秀吉の側室になっていた京極竜子の肖像画を見ると、いずれも「卵型」あるいは「面長」をしていることがわかります。

これに対して淀殿は四角型。これはどの時代においても、「美女」と判断される容貌からは外れていたと考えられます。

2:家康が娶ろうとしてきたが、拒否した

徳川家康は正室2人と死別しています。最初の正室である築山殿は「武田家と内通している」という疑いで長男の信康とともに死罪を命じられ、2番目の正室として迎え入れた豊臣秀吉の妹である朝日姫も病死しています。

一般的に正室を迎え入れる際は、身分の高い女性との「政略」が重視されたため、仮にこの時家康が淀殿を娶った場合は、正室として待遇を受ける可能性が高かったといえるでしょう。このような形の結婚は、当時けっして珍しいものではありませんでした。

しかしこれは同時に「豊臣家の存続が許されない」ということを意味していたのです。彼女が家康の正室として結婚した場合、息子の秀頼は徳川家の養子になり、豊臣秀頼から徳川秀頼になる可能性が高いです。

淀殿と秀吉の間に子どもは他にいないため、仮にこの結婚が実現してしまうと、豊臣家は実質「お家断絶」となってしまいます。これが淀殿が結婚を拒否した最大の理由だと考えられています。

一般的に美女といわれる人は、目や口などの形においては時代によって変化がありますが、いつの時代においても共通しているのが「顔型」です。母親の市や、秀吉の側室で寵愛を受けたとされる京極竜子の肖像画を見ると、いずれも「卵型」あるいは「面長」をしていることがわかります。

これに対して淀殿は四角型。一般的に美人とされる容貌からは外れていたと考えられます。

3:豊臣家を滅ぼした徳川時代の産物として、悪女に仕立て上げられた

豊臣家を滅ぼして天下統一を成し遂げた家康は「豊臣家に対する反逆行為」という評判を恐れました。反徳川勢力が反旗を翻すことを警戒していたのです。

これを防ぐために利用されたのが「淀殿=豊臣家を滅ぼした悪女」という説の流布でした。徳川家はあくまで豊臣家を滅ぼす気はなく、豊臣家を滅ぼした原因は淀殿であるという立場を主張したかったものと考えられます。

4:関ヶ原の戦い以降、摂食障害や頭痛、鬱に悩まされた

関ヶ原の戦いによって、豊臣家に属していた多くの有力大名が大阪から離れていき、淀殿は孤立無援の状態となりました。これが彼女の精神状態を悪化させていった原因と考えられます。

この時期、多くの戦国大名を治療したことで知られる曲直瀬一門の医師、曲直瀬玄朔から薬の処方を受けていたという記録があります。

親子でも楽しめる淀殿の「入門書」

本作は伝記漫画で、なかでも戦国時代の人物に焦点をあてたシリーズの第1作です。

家の滅亡から天下人の側室となって後継者を産み、絶大な権力を手にするも悲劇的な最後を遂げる……戦国時代の最後を飾る女性の波乱万丈の人生を描きます。

著者
["静霞 薫", "瀧 玲子", "加来 耕三"]
出版日
2016-07-11

歴史小説は、とにかく人物関係の理解が苦手という人が多いのではないでしょうか。「茶々と淀殿は同一人物である」「羽柴秀吉と豊臣秀吉は同一人物である」「内府殿と徳川家康は同一人物である」というのは、元々その知識を持っていないと落とし込むのに時間がかかってしまいます。

漫画では別の名前でも同一の絵で登場し、歴史を活字ではなくビジュアルで捉えることができるため、とにかく早く理解をすることができます。

親子で読むのも良いですし、本格的な小説を読む前に知識を入れる「資料」として読むのもおすすめです。今まで「歴史モノ」に挑戦して挫折した方、まずはここからチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

淀殿は「正妻」だった

本書は、当時の資料などをもとに、側室としての淀殿が置かれた立場が詳細に解説されています。

一般的に「淀殿は側室であり、地位の低い愛人」といったイメージがつくことも少なくありません。しかし当時の結婚観を理解することで、必ずしもそうではなかったことがわかってきます。
 

著者
福田 千鶴
出版日
2006-12-01

映画や小説、あるいは大河ドラマなどでは、「側室は悲劇のヒロイン」のように描かれることが多くあります。しかしそれは現代の価値観であり、当時には当時の考え方があります。

実は「側室=正妻」というのが当時の立場でした。このように考えると必ずしもネガティブなイメージだけで見ることはできない、視点を変えることで今までとは違った人物像が見えてきます。

文学的な物語ではなく、当時の女性の置かれた立場をリアルに追及してみたい方におすすめの一冊です。
 

すべては「お家再興」のために

著者は『風林火山』や『真田軍記』などの歴史小説を手掛けてきた井上靖です。

本作では、多くの肉親を失い、敵方である秀吉の側室となり、彼を愛した淀殿の一生を長編小説として描いています。
 

著者
井上 靖
出版日

本作のテーマは「女性によるお家の再興」です。男性が家を再興させる場合は、仕官あるいは合戦に参加して武功を立てる必要があります。

一方で女性は、権力者の寵愛を受け、子を産み、さらにその子が家督を継ぐことで「その家を手中に収める」ことができます。いわば側室は「女の仕官」ともいえるわけです。

戦国の世の運命に翻弄されつつも、自分をしっかり持って生き抜いた彼女の姿が描かれています。

淀殿と北政所はそれほど仲が悪くなかった?

北政所というのは、正室の呼び名です。北政所と淀殿というと、「正室と側室」という立場から両者は対立していたのではないかと思う方もいるかもしれませんが、実際は必ずしもそうではありません。

豊臣家を守るという共通の目的のため、関係は良好であったと言われています。

著者
小和田 哲男
出版日

 

前述もしましたが、「側室は正妻」であるということは非常に重要なことで、この考えに基づくと淀殿と北政所の関係は単純に「側室と正室」という見方はできません。

また秀頼は、淀殿の子であると同時に「豊臣家の子」でもありました。そうなると正室である北政所には「養育権」が存在します。つまり、北政所は正室であると同時に秀頼の「豊臣家の母」でもあったわけです。これらを踏まえて考えると、北政所と淀殿は共に「正室」であり「母」であったと言うことができます。

これまでとは全く違った見方で、淀殿や当時の女性たちを見ることができます。

 

淀殿、というと政治の実権を握り、豊臣家を滅亡に導いた悪い人物として語られることも少なくないのですが、実際には情の深い人物であったということ、そして当時の結婚制度というものが今とは全く異なった感覚であったことを考えると、イメージが変わるのではないでしょうか。

「歴史は勝者によって作られる」といいます。徳川家康が勝者であるとするならば、淀殿は「敗者」です。しかし敗者であっても、間違っていたとは限りません。むしろ敗者が「黙して語らずにいた内容」をこの機会に知ってみてはいかがでしょうか。