松平定信にまつわる逸話7つ!政策の意図は?寛政の改革を行なった真意に迫る

更新:2021.11.8

江戸時代に寛政の改革を行ったことで有名な老中、松平定信。緊縮財政や風紀取り締まりなど、引き締めを図ることで経済を活性化させようとしたその手腕と、真逆の政策を行っていた先代の老中、田沼意次との意外な関係などを紐解いていきます。

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将軍になるかもしれなかった?田沼意次に左右された松平定信の人生

徳川家康が江戸幕府を開幕してから150年余り経った、第10代将軍徳川家治の時代。江戸の町が不安定さを増し、百姓一揆も増えだした1759年に、徳川宗武の7男として松平定信は生まれました。幼名は賢丸(まさまる)といい、その名の通り聡明なことで知られ、徳川御三家ということもあり将来は将軍になるのでは、と言われていたほどです。

定信が生まれたのと時を同じくして、幕府では田沼意次が老中になり内政を取り仕切ることになります。田沼は年貢などの米よりも、商品経済による財源に価値を見出し、商人を支援してそこから税金を取り立てることで幕府の財政を立て直そうとしていました。

しかしこれは極端な利益追求や賄賂なども同時に生み出すことになってしまったのです。聡明であった定信はそのような賄賂が横行する重商主義を批判していたのですが、これを田沼に疎まれ、その影響力を恐れた定信の親族は彼を陸奥白河藩主、松平定邦のもとに養子に出してしまいます。

1782年ころ、浅間山の噴火を発端とした天明の飢饉が東北地方を襲いますが、定信は養子先の白河藩でさっそくその政治手腕を発揮。他の藩が次々と困窮して餓死者を大量に出すなかで、白河藩は豪農や米屋との交渉、家中の禄を減らすなどうまくやりくりし、ほとんど餓死者を出さずに飢饉を乗り切ることに成功しました。

一方、江戸の田沼意次は天明の飢饉への対処に失敗し、食糧難と疫病により大量の死者を出したことでついに失脚。この田沼の失脚と白河藩での功績により、定信は徳川御三家の推挙を受けて老中首座となります。1787年のことでした。

老中首座に就任した定信は、まずは天明の飢饉で傾いた幕府の財政を立て直すために寛政の改革を行います。

田沼の商人中心の重商主義から一転、緊縮財政と賄賂の禁止、風紀の取り締まり、商人優遇制度の廃止と、江戸に流入していた農民を農村へ返し農地の生産量を増やすなど、カネからモノへの回帰を推進。さらに朱子学を奨励して、他の学問を禁止したり、史書や地誌の整理保存をしたりと文教振興を推し進めました。

しかし6年にも及ぶ、改革の厳しい倹約と引き締めによって、役人や民衆に不満がたまり、また農地の活性化によって農民が力を持ってしまう弊害もあり、幕府内の反発がおこって失脚してしまうこととなります。その後は再び白河藩に戻り、藩政に尽力しました。

松平定信の意外な逸話7選

1:第8代将軍徳川吉宗の孫だった

松平定信が生まれたのは徳川御三家のひとつ、田安徳川家。8代将軍吉宗の孫にあたり、また9代将軍徳川家重は、彼の叔父なのです。定信は幼少のころより聡明であったのと、兄たちが皆早世、病弱であったため、いずれは将軍になるかもしれないと噂されていましたが、田沼意次の影響力により松平家に養子に出されてしまいました。

実際、定信の兄たち6人はみな彼の元服までに早世してしまったので、もし彼が田安徳川家にいればそのまま将軍になっていた可能性は高かったようです。それもあり定信は、田沼を強く恨んでいたと言われています。

2:後の世に名を残すために自ら都合よく記録させていた

彼は歴史に造詣が深く、世間や後の世での自分の評価を気にしていたようです。自らの家臣に伝記を書かせ、都合の悪い部分は隠して記録させていたと言われています。実際に近代までその試みは成功しており、清廉潔白なイメージだったようですが第二次大戦後に学術や国文学の研究が進んでくると、徐々にその真の人物像が明るみに出てきています。

3:将来的には自分を神として祀らせようとしていた

松平家の家格を上げる事に執心していた定信は、居城である白河小峰城に御霊屋を作り、藩祖である松平定綱の木像やゆかりの品々を集めて祀り、定期的に祭礼を行っていました。

そして藩祖の権威に便乗するために自分の品々もそこに貯蔵しておき、死後は自らが日本を守る神となることを志向していたと言われています。

4:源氏物語を愛読していた

定信は儒教に傾倒し、自粛的で堅物といった人柄でしたが、平安時代の恋愛や不倫などを題材とした源氏物語を愛読しており、なんと7回も書写しています。儒教的思想からいえば不倫など言語道断な行為なはずなのですが……。もしかしたら彼は、自分にはできない情熱的で背徳的な恋愛模様を、源氏物語の中で体験していたのかもしれません。

5:賄賂嫌いで有名だったが昇進するために賄賂を使っていた

若いころに田沼の賄賂政治を批判し、養子に出されてしまった定信。しかし自らが白河藩主になった際には必要に迫られ、仕方なく賄賂を送っています。そしてその効果により昇進した際に、「賄賂は嫌いだが、風潮であるからお家のためには仕方がない」と家臣に言っていたそうです。

ちなみにその後、老中首座になってからは寛政の改革の一環で役人の賄賂を禁止しています。役職に就くために慣例に従い、役職者になってから改革をするというのは、いつの世も同じなようですね。

6:浮浪者の自立支援施設を作っていた

1790年、定信は浮浪者や無宿人対策として、人足寄場を隅田川の河口にある石川島に建設しています。当時は百姓一揆や打ちこわしが多発しており、その際に浮浪者や無宿人が暴徒化していたため、江戸の街に浮浪者などを放置しないようにする施策でした。

ちなみに彼がこの人足寄場の立案をしたところ、あの鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵が率先して具体案を上申し、実現に至っています。

7:学力試験、武術試験を導入し旗本の士気向上を図った

当時問題になっていた打ちこわしには、町人や農民以外にも、貧乏旗本や浮浪浪人などが多数含まれていたようです。そういった武士階級には学問試験や武術試験を行い、成績上位者に名誉と報酬、そして職を与えることで風来坊からの脱却を目指してもらい、また武士としての誇りを取り戻すことで暴徒を減らすという施策を行っていました。

とはいえ職を与えるといっても、現実的には幕府の監視下に置き、打ちこわしなどの略奪行為に容易に参加できないようにする意味合いが強かったとも言われています。

政治家としての松平定信を政策別に読み解く

浅間山の噴火から政情が不安定になり、一揆や打ちこわしが多発、そして当時の老中だった田沼意次が失脚して、松平定信が老中首座となります。政治家として有名な彼の人物像と、あらゆる政策がよくわかる解説書です。
 

著者
藤田 覚
出版日

社会、外交、対朝廷政策など、それぞれの政策面から政治家として松平定信を解説しています。

彼の政策は長い時を経ても、現代の我々の何かヒントになるのではないかという著者の意図を感じる、経済政策の資料として価値のある一冊です。

政治だけではない松平定信の多彩な魅力

江戸時代の三大改革のひとつである寛政の改革をなしとげた定信。その思想、文学、芸術面にスポットライトを当て、多くの資料を元に彼の本当の人物像に迫る研究書です。

江戸時代の蘭学、美術史が専門の著者から見た、芸術家や収集家としての松平定信は、一体どのようなものなのでしょうか。

著者
磯崎 康彦
出版日
2010-10-25

真面目で政治的なイメージが先行しがちな定信ですが、好古癖、美術、文学、作庭、蘭書、銅版画など、幅広い趣味を持っていたことはあまり知られていません。本書はそういった思想、文学、芸術の嗜好から彼の生涯を追い、その隠された人物像を知ることができる貴重な研究資料です。

それまでの堅いイメージとは一味違った感受性豊かな彼の人柄は、江戸の歴史観にまたひとつ、鮮やかな色合いを加えてくれることでしょう。

入門書としておすすめの一冊

徳川吉宗の孫であり、寛政の改革を推し進めた定信。白河藩の改革に手腕を発揮し、老中首座に就任するとあらゆる分野の政策を展開しました。朝廷との関係や対ロシアの外交政策などの難問に突き当たりながらも、改革を断行していきます。

書画、作庭など文化人としても功績を残した彼の生涯を、政策と芸術の両面から追う入門書です。

著者
高澤 憲治
出版日
2012-09-01

定信の誕生、幼少の様子、寛政の改革、そして死の床で詠んだ辞世の句までが解説されています。定信の生涯の全てが時系列でよくわかる、入門書として必携の一冊です。

細かく小見出しがついており、それぞれの時代背景や人柄を知るためのでき事などがまとめられています。家系図や年表などの資料も巻末に掲載されていて、彼について興味を持ったら最初に読んでおきたい作品です。

松平定信が活躍した江戸幕府の人物評判記

「よしの冊子」とは、江戸時代後期、老中だった定信に仕える隠密たちが、幕府内の役人の勤務態度や市中の噂を調べ上げた報告書のこと。そして本書はその「よしの冊子」を現代語に訳して、読みやすく紹介した解説書です。

江戸時代も現代も変わらない、本音と建て前が交錯する、腹の探りあいとサラリーマン的会話、その実態とは……。

著者
山本 博文
出版日

江戸幕府の役職者たちの日常の様子が生き生きと描かれているのですが、あまりのリアルさに、これは現代社会で起こっていることなのでは?と錯覚してしまうほどです。

緊縮財政で倹約政策をしているのに派手な着物で登城し、定信と喧嘩になってしまう老中や、奉行所の奉行が残業ばかりしていて、部下が帰りづらくなってしまい不平をこぼすなど……会社勤めをしたことがある人であれば、似たような話を職場で聞いたことがあるのではないでしょうか。もはや江戸のサラリーマンコントとも言える幕府の裏話は、当時を知るうえでぜひ読んでほしい一冊です。

天明の飢饉と一揆や打ちこわしからが多発したことで幕府に求められた老中、松平定信。彼に関する逸話7つと、その人柄を知るための本4冊を紹介してみました。緊縮財政と倹約、商業から農業への回帰による寛政の改革を行った背景には、真逆の賄賂政治と重商主義だった先の老中、田沼意次への遺恨が垣間見えるような気がします。やはり将軍への道を閉ざされた悔しさは生涯持ち続けていたのではないでしょうか。

その遺恨から寛政の改革を断行し一定の功績は残したものの、あまりに引き締めが強すぎて民衆の反感を高めることになってしまい、老中失脚に繋がっていきます。

当時の引き締めの強さを、江戸時代の文人、大田南畝はこう歌っています。「白河の清きに魚の住みかねてもとの濁りの田沼こひしき」(定信のクリーンな政策はあまりに厳しく、以前の田沼意次時代の賄賂政治が恋しいという意味)

政策も性格も対照的な松平定信と田沼意次。この2人の関係がもう少しだけ違っていたら、寛政の改革の結果はかなり変わっていたのかもしれません。

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