南方熊楠についての意外な10の事実!粘菌の研究などで知られる博学な人物

更新:2021.11.8

南方熊楠の名を聞いて、あなたは彼が何をした人物か思い浮かぶでしょうか?「粘菌の研究の人」といえば、少しはピンとくるのではないでしょうか。今回は、知れば知るほど惚れてしまう天才熊楠について、オススメの本とともに掘り下げたいと思います。

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南方熊楠とは

1867年、260年以上続いた江戸幕府が大政奉還を決意し、あの坂本龍馬も近江屋で暗殺され、日本中が新しい時代を予感して揺れに揺れていたこの年に、南方熊楠は生まれました。

和歌山の裕福な商家の二男であった彼は、比較的自由に学べる環境の中で育ち、その非凡さは小学校低学年の時点ですでに開花しています。中でも有名なのが、105冊にもおよぶ百科事典『和漢三才図会』の筆写です。天文、人、植物、地理など様々な分野に関して考証されたこの本は、以後彼の研究者としての道においての基礎となり、生涯手放せないものとなりました。

驚きなのがその筆写方法で、彼は他所で借りて読んだものを都度記憶し、家に帰った後にそれらをちり紙に図ごと書き写したのでした。8〜9歳ほどの子供が、膨大な内容を記憶していたというところも信じられませんが、それを3年の歳月をかけて書き写したという根気強さも、アナログから遠のいている現代の私たちからすれば尋常ではありません。

彼はその他、いくつもの学術書を記憶しては書き写すという独特な方法でジャンルを超えた知識を習得していきましたが、学校での生活は不得手で、机上で考えるより実地観察こそ勉学なりと、野山を駆け回っていたといいます。

そのアウトロー極まりない生活スタイルは続き、1884年に東京大学予備門に入学するも、まともに授業に出ずに退学になってしまいました。その後、彼は1900年に帰国するまでの14年間の間、アメリカ、キューバ、ロンドンを遊学し、博物学、天文学、人類学、宗教学など、列挙すればキリがないほどの分野において独学で知見を深めて行きます。

これらのバイタリティあふれる青年期の歩みや、知の巨人、天才と謳われる現代の評価から想像すれば、さぞ、以後の研究者としての道が華々しかったであろうと考えてしまうでしょう。しかし、熊楠はロンドンから帰国し、その74年の生涯を閉じるまで、自らの生まれ育った和歌山で、無位無冠、在野の研究者であり続けました。
 

南方熊楠についての意外な10の事実!

1. 18カ国語を操る驚異の記憶力                                                 アカデミックな教育環境とは無縁で、生涯定職にも就かず、今でいう中卒だった熊楠。しかし、生きるように学ぶ彼は、その私生活の中でなんと数十ヶ国にもおよぶ語学を習得したといわれています。その勉強法は、対訳本に目を通し記憶することと、酒場に行き現地の人の会話を聞くというもので、いたってシンプルですが、彼らしい実践的なものでした。 

2. お金が無くなりサーカス団に入団 

熊楠は、東大予備門を退学して半年と経たずに渡米し、現地の大学に通い始めます。しかし、アメリカ人の学生と乱闘騒ぎを起こし、またも放校処分となってしまいます。その後、動植物の研究をしながらアメリカ大陸を南下、キューバに辿り着いた頃にはお金が底をついていたので、サーカス団に入団し身銭を稼ぎました。そして、彼はこのキューバにおいて、ギアレクタ・クバナという新種の地衣植物を発見しました。

3. 雑誌『NATURE』に歴代最多の投稿

アメリカや中南米での遊学を終えた熊楠が次に渡ったのは、イギリスでした。相変わらず貧乏生活を送っていた彼でしたが、現代も発刊されている科学雑誌『NATURE』への東洋の星座に関する論文の寄稿を皮切りに、以後、帰国後も含めて51本もの論文が掲載されました。この数は、研究者の論文掲載数としては歴代最多となっています。 

4. 中国の革命家、孫文とも仲良しに 

26歳の時に前出の処女論文を発表した熊楠の名は、一気に識者の間で有名になり、それがきっかけで大英博物館に出入りするまでになりました。辛亥革命で有名な孫文ともここで知り合い、短い期間でしたが深い交流を結びました。孫文は、後に日本に亡命した際も、熊楠のもとを訪れました。

5. 下ネタ好きだが、シャイだった 

学問を探求する人はどこか硬派なイメージがありますが、アウトローな熊楠はしばしば明け透けに猥談を語りました。というより、セクソロジー研究もしていた彼にとっては、猥談も議論のうちだったのでしょう。それらは彼の著作においても顕著で、さぞ遊んできたのだろうと勘違いしてしまいますが、実際のところはとてもシャイで、40歳で結婚するまで、女性経験がなかったそうです。

6.日本で最初のエコロジスト

熊楠は、日本で初めてエコロジーを提唱したといわれます。明治政府が神社合祀政策を行った際には、歴史保護だけでなく環境保護の観点から、神社が持つ鎮守の森の大切さを説きました。 

7.昭和天皇とキャラメル箱

1929年、突然、宮中内の博士が熊楠の元にやってきました。その来訪の理由は、昭和天皇行幸の際に進講をお願いしたいというものでした。熊楠のような破天荒な経歴の者が天皇に進講した前例はなく、奇人の噂もあったので侍従は心配したそうですが、実は、かねてから植物の研究を行っていた天皇本人からの希望だったといいます。

この時熊楠は、自身が集めたたくさんの生物標本をミルクキャラメルの箱に入れて献上しました。通常、献上物などはかしこまった桐箱などで納められるそうですが、いかにも飾らない熊楠らしい、可愛らしいエピソードです。 

8.喧嘩の必勝法は吐くことだった

アメリカ留学時代の乱闘騒ぎやイギリスでも、頭に血がのぼりやすく、酒好きで喧嘩っ早かった熊楠は、議論をするうちに熱くなり拳が出てしまうこともありました。最終的に立ち行かなくなった時は、胃の中のものを自在に吐けるという変わった特性を生かし、相手にかけて撃退していたそうです。 

9.無類のネコ好きだった

動物の中で特に猫が好きだった熊楠は、貧しいロンドン時代でも猫を飼っていました。お金が無いので、ご飯はまず自分が咀嚼をしてから、残りの味の抜けた部分を猫にあげていたそうです。汗っかきで年中裸で過ごすことの多かった熊楠にもロンドンの冬は寒く、その際はこの猫を抱いて寝ました。 

10.粘菌の場所は幽霊に聞いた

熊楠はよく1人で山に入り、動植物を採集する際に幽霊に会ったといっています。幽霊が教えたままの場所に行ってみたら、新種の植物を発見したこともありました。彼は、心理学にも明るく幽霊と幻についての検証も行っていますが、このような不思議な体験の解明はできず、自身の脳の死後献体を希望し、今でもその脳は大阪大学に保存されています。

南方熊楠に惚れるための入門書

本書は、南方熊楠を知りたいと思ったらまず読んでもらいたい一冊です。彼が耳にした民話を、日本を含む様々な国の文献を用いて比較検証し記したものに加え、南方植物研究所設立のための寄付金を募ろうと、日本郵船の矢吹義夫に宛てた履歴書が収録されています。

著者
南方 熊楠
出版日
1994-01-01

この履歴書、そう呼ぶにはあまりに膨大かつ猥雑で、矢吹義夫の希望であるとはいえ、本人もこんなレスポンスが返ってくるとは思わなかったのではないでしょうか。人が人に見せる文章を書く時、多少なりとも、かっこ良く見せようとか、こうした方がウケるだろうなどというような打算が働くものです。

しかし、履歴書における熊楠は、まるで少年のように、思ったことを自由に書き殴っています。最初こそ、自身の生い立ちや父母のことを語っていますが、話が進むにつれ、自慢や西欧学者への悪口、終いに猥談など、まるで彼の生活をのぞき見ているかのような内容になっており、読み終わった頃には熊楠に惚れてしまうこと間違いなしです。

自分の干支が好きになるきっかけとなりそうな一冊

本書は、現在も私たちの生活にも根付いている、干支に関する諸説をひたすらまとめたものです。政府官僚でもあり、民俗学者でもあった柳田國男に、「わが南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間なみというものがちょっと探し出せそうにもない」といわせたほど、南方熊楠の考えることに対する異常なまでの執着が各項目において見られます。

著者
南方 熊楠
出版日
1994-01-17

例えば虎一つに対しても、なぜそう呼ばれるかに始まり、人との関係性や仏教における虎など、彼が研究した分野の知識全てを投入して全力で虎を語っており、目からウロコの内容となっています。もし自分の干支がかっこ悪くて嫌いだった人でも、読後には親近感を持ってしまうことがあるのではないでしょうか。

昔話のあれこれを南方熊楠が徹底検証!

本書は、熊楠が研究した民俗学の中でも、比較的身近な題材を集めています。タイトルにもある人魚の話や、河童の話など、田舎のおばあちゃんが、囲炉裏を前に語ってくれそうな内容の民話や俗説を、南方熊楠が徹底検証しています。

著者
南方 熊楠
出版日
2017-06-12

中でも面白いのが、「桃栗三年柿八年」という故事についての話です。南方熊楠は、これを幼い時から聞かされてはいるけど、本当かどうかを確かめるために、元禄時代や平安時代の文献を引っ張り出してきた挙句、やはり実地検証だということで、実際に自宅にそれらの木を植えて育ててみました。結果は、まったく故事に沿っていなかったため、いい加減なことわざだとぼやいていますが、普通の人ならばここまでやらないでしょう。

それは、学ぶということと、お金を稼ぐということが、切っても切れない環境にある現代を生きる私たちだからかもしれません。この本では、そんな私たちとは真逆の生き方をした南方熊楠の、結果が出たところでお金にもならない小さな疑問を、答えが出るまで掘り下げる天真爛漫さが垣間見え、暖かい気持ちになれます。

仏教は科学?南方熊楠の到達地点的一冊。

本書は、人類学者の中沢新一の解題による、熊楠の仏教に関する考察をまとめた一冊で、彼の驚異的な才能が最も感じられるものとなっています。彼は、ロンドン時代に仏教学者で真言宗の僧侶でもある土宜法竜と出会い、帰国後も彼と宗教についての議論を行いました。

著者
南方 熊楠
出版日
2015-04-28

彼は、廃仏棄釈が行われた明治を生きた人とはいえ、民衆レベルでは宗教やそれにともなう風習に対する畏敬の念が強いであろう時代に、現代の物理学者や脳科学者が論じていることと同じような内容を、法竜宛の手紙の中で語っています。

南方熊楠の研究スタイルは、学問の枠を決めずに比較検証するというものでしたが、彼はこの一連の手紙のやり取りの中で、仏教を宗教としてではなく、人文科学的な側面から見て評価しています。また、表現の冒険者でもある彼は、得意の猥談を仏教における言い伝えと絡めてみるなど、相変わらず奔放ですが、それによって、科学や仏教といった重たい主題が非常にとっつきやすくなっており、苦手な人でも楽しめる一冊となっています。

いかがでしたでしょうか。南方熊楠の魅力を感じるエピソードは、彼が破天荒かつ赤裸々にそれらを書いて残したこともあってか、歴史上の人物の中でもかなり多く、ここでは語り尽くせないほど面白いものがたくさんあります。

また、幼い頃から挿絵も含めて書物の書き写しをしていたこともあってか、彼はイラスト上手でもあります。ご紹介した本を手に取って頂けた際は、ぜひ、それらも合わせて楽しんでみてください。

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