江戸時代の老中・田沼意次。商人や役人中心の経済政策をおこなったため、裏で賄賂を受け取る金権政治をしていたのではと思う方も多いのではないでしょうか。この記事では、彼の生涯、「田沼政治」、逸話、さらにおすすめの本をご紹介していきます。
田沼意次(たぬまおきつぐ)は1719年、紀州藩士から旗本に出世する田沼意行(おきゆき)の長男として生まれました。
父親は8代将軍徳川吉宗の側近になり、江戸幕府に入ります。当時の吉宗は、紀州の家臣を多く登用して幕臣にし、自分だけでなく子どもたちの側近に配置しました。意次は2代目の幕臣として、吉宗の長男である家重の小姓になります。
1745年に家重が9代将軍になると、意次も本丸に仕え、10代将軍・家治の時には老中にまで登り詰めました。
当時の幕府は、財政赤字で悪化の一途を辿っていました。そんななかで意次は、いわゆる「田沼政治」と呼ばれる政策の数々で、財政難を乗り越えていくのです。
しかしこれは商人や役人を中心に考え、彼らに特権を与える経済政策だったため、賄賂が横行します。さらにおよそ6年にもおよぶ「天明の大飢饉」という不運にも見舞われました。
財政難と食糧難で、都市部の治安は悪化。農民たちの不満が溜まり、一揆などが激化していきます。
1786年に10代将軍の家治が亡くなると、意次も失脚。田沼家は大名家としてかろうじて生き残りましたが、意次自身は蟄居生活を強いられ、70歳の時に江戸で亡くなりました。
1:将軍の代わりに、経済政策をおこなった
9代将軍の徳川家重は生まれた時から体が弱く、言葉の発音も不明瞭で、父親の吉宗が裏で政治を支えていました。そのため10代将軍の家治は、吉宗から多大なる期待を受けていたといわれています。
しかし家治は、趣味の書や将棋の世界に没頭し、将軍としての仕事を意次に任せっきりでした。
2:先進すぎた経済政策をおこなった
老中になって経済政策を託された意次は、財政赤字を改善するために数々の経済政策を実行します。
これは「重商主義政策」と呼ばれ、株仲間の結成・新田の開発・鉱山の開発・蝦夷地の開発・外国との貿易などです。米から金へと切り替える、つまり旧来の農民中心の経済から、商業を中心とした経済に切り替えるという、先進国にも近い政策でした。
こうして江戸幕府の財政赤字は改善されます。
しかしこれは商人や役人しか恩恵を受けず、農民と年貢(米)による財政をおこなっていた諸藩の状況は厳しくなりました。
「士農工商」の江戸時代に、身分の高い農民よりも商人を優遇したのが田沼政治です。その結果、たとえ財政赤字が改善されても、松平定信を中心とした一部の幕臣から批判を受けることになってしまいました。
3:不運に見舞われた田沼政治の後期
商人中心の経済政策のため、お米よりお金の方が大事だと価値観が転換されていきます。農村が荒れ、さらには浅間山の噴火や「天明の大飢饉」なども重なり、米の値段がどんどん上がっていきます。
経済状態は悪化し、意次は反対派に追い込まれて退陣。息子の意知(おきとも)は暗殺されてしまいました。失脚後は、蟄居生活のまま生涯を終えたのです。
農業だけでなく商業や流通の収入を増やし、幕府の財政を立て直そうとした意次。外国との貿易を黒字化させて、国内の金保有量を高めようとしていました。
当時の貿易は赤字状態で、日本の金や銀が大量に流出する状態が続いていました。国内で算出できる金銀の量にも限界があり、機能不全に陥る直前だったのです。
これを打開するために意次は、海外で需要があり、自国で量を賄える銅や海産物の輸出を全面に押し出しました。長崎に「銅座」と呼ばれる銅の取引や鋳造をする場所を作り、後押ししていきます。
さらに、蝦夷地を開拓してロシアとも貿易をおこなおうとしましたが、こちらは実現しませんでした。
1:大名家と婚姻関係を結び、家族を幕府の役人にした
意次は老中という地位に就き、将軍から政治を任されていました。さらに田沼家を盤石のものにするために、自分の子供など家族を大名家や幕府の重要人物と婚姻関係を結ばせました。
また大奥とも密接な関係を持ち、田沼派と呼ばれる派閥を作って絶大な力を持ったのです。
2:『解体新書』が翻訳できたのは、意次のおかげ?
鎖国をしていた江戸時代では、外国の書物は中国のもの以外読むことを禁止されていました。しかし意次は、平賀源内と交流があったこともあり、蘭学を保護。オランダの本を読むことを許可しました。
これが無ければ、後の杉田玄白や前野良沢による『解体新書』の翻訳はおこなわれなかったかもしれません。
3:悪いイメージは作られたものだった?
「歴史というものは、その時代の勝者が、自分たちに都合の良いように作るものだ」と言った学者がいます。賄賂をもらっていた、などの意次の悪いイメージは、彼に反対していた松平定信らによって作られたのではないかという説があるのです。
ここでひとつ、有名な「狂歌」をご紹介します。狂歌とは、五七五七七で構成された和歌で、社会風刺を取り入れたもののこと。古くは平安時代から詠まれていましたが、江戸時代に人気を博し、全盛期を迎えました。
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
これは、意次が失脚した後に老中になった松平定信が、「寛政の改革」という政策を実行し、役人にも庶民にも厳しい倹約を強要していた時に詠まれた歌です。
「白河」とは、第3代白河藩主だった松平定信のことを指しています。意次の政治にも不満があったけど、今の定信の厳しい改革と比べればまだ良かった、と皮肉を言っています。
「詠み人知らず」とされていますが、幕府官僚として財政を担当していた大田南畝(おおたなんぽ)が詠んだ歌だという説が有力です。
こちらの画像を見て「イケメン」と感じるかどうかは読者の皆さんにお任せしますが、彼は大奥で大変モテていたそうです。
大奥とは、江戸城にいた将軍たちの正室や側室、女中たちの居所または女性たちのことを指します。彼女たちから支持を得られると政治を動かしやすくなるため、大奥を上手に利用することは政治家にとってとても重要なことだったのです。
そこで意次は、10代将軍家治の側室だった蓮光院(れんこういん)と親しくなりました。彼女は後に、正室とのあいだに男児をもうけることができなかった家治の長男を生む女性です。
蓮光院自身も政治に介入したい気持ちが強かったため、2人の思惑は一致していました。さらに家治はもともと側室にはあまり興味がなく正室を大切にしたいタイプだったので、将軍から目の敵にされることもなく、むしろ蓮光院の相手をして感謝されるほどでした。
著者の大石慎三郎は、徳川吉宗がおこなった享保の改革を研究していた歴史学者です。丹念に、田沼政治について書き上げています。
贈収賄と権力の悪用というイメージを持たれている意次を、経済政策の面から払拭する一冊です。
- 著者
- 大石 慎三郎
- 出版日
- 2001-06-15
学校の教科書などで習うのは、「賄賂政治」「金権政治」をおこなったダークなイメージの意次。しかし、本当に彼は悪人と呼ばれるほどの老中だったのでしょうか。
本書には、財政赤字だった江戸幕府を改善させた意次の手腕が書かれています。農業中心だった江戸幕府を、商業中心に変える新しい経済秩序の樹立をしたり、ロシアとの交易をしようとしたりと、彼には確かに才能がありました。
さらに著者が投げかけるのは、彼は本当に賄賂を受け取っていたのか、ということです。意次を失脚させた松平定信らが、歴史を塗り替えたのではないかと提言しています。
汚職政治家という悪いイメージがある一方で、財政難だった幕府を立て直す手腕を発揮した意次。本作は、出世という側面から彼の生涯を追っていきます。
著者の藤田覚は日本史学者で、学術団体である「歴史学研究会」の委員長も務めた人物です。
- 著者
- 藤田 覚
- 出版日
- 2007-07-01
意次は紀州藩出身で、徳川吉宗の側近として江戸幕府にやってきました。そこからどうやって、9代、10代将軍の、政策を実行する責任者である「老中」の地位にまで登りつめたのでしょうか。そこには、自分の家族と幕府の重要人物に婚姻関係を結ばせたり、大奥と良好な関係を作ったりした、彼の人脈づくりがありました。
さらに、10代将軍の家治は、意次に絶大な信頼を寄せていたそうです。
人間関係を上手に構築し、実際に政治の手腕も発揮したからこそ出世に繋がり、およそ20年にわたって「田沼政治」というものを実行できたのでしょう。
著者の鈴木由紀子は、歴史小説やノンフィクション、エッセイなど、幅広いジャンルの作品を執筆している女性作家です。
本作では、意次が開国の先駆者だったことが述べられていて、「田沼時代がなければ明治維新はなかっただろう」と感じさせてくれる一冊です。
- 著者
- 鈴木 由紀子
- 出版日
- 2010-06-01
意次には、それまでの格式に捉われることのない発想の斬新さと、先見性がありました。さらに彼の政治は農民たちを苦しめはしましたが、商人や町民を中心に活気のある時代を生み出しもしたのです。
また意次のほかにも平賀源内や杉田玄白などの功績も描かれていて、江戸時代の先駆者たちのエネルギーが感じることができるでしょう。
著者の山本周五郎は言わずと知れた時代小説、歴史小説家。優れた物語性を有し、その時代を生きた名もなき人々を描かせたら天下一品です。
本作も、田沼意次の視点ではなく、田沼時代を生きた人々の視点から意次という人物像を描いています。
- 著者
- 山本 周五郎
- 出版日
- 1972-10-03
田沼政治では商人が力を持っていましたが、彼らが武士階級を脅かさないよう、意次は幕府の老中として奮闘していました。そんな彼の姿はまさに清貧。自分の利益よりも、幕府のためにひたすら働いています。
しかし彼の政治は諸藩だけでなく幕府内部からも批判を浴びるようになり、彼と息子の意知は孤独に耐えながら改革を進めていくのです。そして徳川家治が亡くなると、追われるように老中を辞めさせられ蟄居を命じられました。
財政赤字を改善したにもかかわらず、革新的すぎて理解を得られなかった田沼政治。悪人という意次のイメージを一新できる一冊です。
いかがでしたか?賄賂政治・金権政治のイメージが強い田沼意次でしたが、幕府の財政赤字を改善したところは十分に評価できるのではないでしょうか。歴史の見方は一方向からではないことがわかります。