江戸時代中期に活躍した発明家として知られている平賀源内。エレキテルを修復したことでも有名ですね。また発明家だけでなく、本草学者、蘭学者、戯作者などの多彩な顔も持っていました。この記事では、そんな彼の生涯をおさらいし、杉田玄白とのエピソードや名言、さらにおすすめの関連本をご紹介していきます。
平賀源内(ひらがげんない)は、本草学者、地質学者、医者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家……といった多彩な顔を持ち、江戸時代の中期に活躍した人物です。
1728年、現在の香川県さぬき市志度の白石家の三男として生まれました。彼の天才っぷりは幼いころから発揮されていて、12歳の時には、「お神酒を供えると天神様が顔を赤らめる」という仕掛けを施した、からくり掛け軸「お神酒天神」を作ったそうです。
また、高松藩の藩医である三好喜右衛門から本草学を、儒者の菊池黄山からは儒学を学びました。
1752年に初めての長崎遊学をおこない、この時オランダ語を身に着けます。1754年に藩の役目を辞めて浪人になると、1756年には江戸へ向かいました。ここでは本草学者の田村藍水に師事しています。
そのかたわら、漢学を学ぶために林家の塾にも入門し、1760年ごろまで湯島聖堂に寄宿しました。
1759年、高松藩に再雇用されますが、1761年に再び辞職。その時「仕官御構い」という罰を受けます。これによって、高松藩以外への再就職を禁止されてしまいました。
その後、江戸に写った源内は、杉田玄白や中川淳庵(なかがわじゅんあん)らと交流するようになります。ここからは戯作者、浄瑠璃作者、発明家として名が知られるようになり、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』という著書を刊行。
さらに鉱山開発をおこない、オランダで発明された静電気発生装置「エレキテル」を修理復元するなど、活躍の場を広げていきます。
しかし、1779年、ある勘違いから事件を起こして投獄され、最後は獄中で52年の生涯を終えるのです。
彼の葬儀を執りおこなったのは、杉田玄白だといわれています。また彼の墓には、その死を惜しんだ玄白から、次の言葉が送られました。
嗟非常人
好非常事
行是非常
何死非常
非常の人よ、
常識ではないことを好んで、
常識とは違うおこないをしていたけど、
死ぬときは普通に死んでほしかった。
このような意味が込められています。杉田玄白が平賀源内の才能を認め、死を悲しんだことがわかるエピソードです。
石綿(火浣布・かかんぷ)
鉱山開発に励んでいた源内は、現在の秩父鉱山で石綿を発見しました。これは耐久性や耐火性、電気の絶縁性に優れていて、「アスベスト」という名称でも知られています。
石綿を使用した布は、火をつけると汚れだけが燃え落ちてキレイになるため、中国では「火浣布」と呼ばれ重宝されていました。石綿を発見した源内もこれにならい、布にして幕府に献上したそうす。
この時の布は京都大学に保存されています。
エレキテル(静電気発生装置)
源内の業績としてもっとも有名なのがエレキテルではないかと思いますが、実はこれも彼の発明品ではありません。
元々はオランダで発明され、主に医療器具として用いられていたそうです。木製の箱の中に蓄電瓶が入っていて、外付けのハンドルを回すと内部のガラスがこすれて摩擦を起こし、電気が発生する仕組みです。
エレキテルが日本に持ち込まれたのは江戸時代の時。幕府への献上品でした。源内は電気などに対する知識はほとんど持っていなかったそう。ただ外国でおこなわれた科学実験の情報はもっていたようで、長崎で手に入れたエレキテルを修理・復元しました。
その後彼が製造したとされるエレキテルが2台現存していて、そのうちのひとつは郵政博物館に収蔵され、国の重要文化財にも指定されています。
このほかにも外国の文化や技術を紹介することに力を注ぎ、文芸や絵画など多ジャンルで活躍しました。文学者としては、戯作や人形浄瑠璃などにも多くの作品を残しており、また自らも油絵を習得して、日本初の洋風画「西洋婦人図」を描いています。
土用の丑の日に鰻を食べる習慣の由来には諸説ありますが、平賀源内が発案したとされる説が一般的になっています。
まず「土用」とは暦のうちのひとつで、立春・立夏・立秋・立冬の日の直前18日間を指します。これを十二支に割り振った時に「丑」にあたる日のことを「土用の丑の日」といい、年によって違うが、1年間におよそ6日存在しています。
一般的には、「土用の丑の日」というと夏の日のことを指す場合が多いです。
当時、夏場になると鰻が売れなくなり、困った鰻屋が源内に相談しました。すると彼は、「本日は土用の丑、鰻食うべし」と書いた看板を店先に出すよう言ったそう。
源内の言うとおりにするとその鰻屋は大勢の客で賑わい、他の鰻屋もそれにならったことから、「土用の丑の日」には鰻を食べるという習慣が広まったそうです。
大名屋敷の修理を請け負った源内が、大工の棟梁と酒を飲んでいた時のこと。酔っぱらった彼は、棟梁に修理計画書を盗まれたと勘違いをします。
そしてなんと、相手を切り殺してしまうのです。
その罪により小伝馬町の牢獄につながれ、その後1780年に、牢内で罹った破傷風により死亡。52歳でした。
「良薬は口に苦く、出る杭は打たれる習ひ」
現代では2つに分けて使われることが多いこの名言。「よく効く薬はまずいし、人と違う行動をする人や才能がある人は非難され憎まれる」という意味です。
ただ彼は「出る杭になるな」とは言っていません。彼自身、鎖国中の日本で蘭学者として外国の文化を紹介するなど、積極的に出る杭になりました。彼の墓には杉田玄白からの「常識とは違うものを好み常識とは違うことをした人だ」という旨の言葉が刻まれています。
「考えていては何もでき申さず候。われらはしくじるを先につかまつり候。」
何か新しいことを始めたり挑戦したりする時、考えすぎて動けなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。失敗を恐れて、いわゆる「石橋を叩きすぎて渡ることができない」タイプです。
平賀源内は気球や電気の研究をしていましたが、結局どれも実用化には至っていません。エレキテルの修復においても、原理について正確に理解していないまま取り組みました。ただそれでも後世に名を残す人物になっているので、考えるだけでなく、実際に動いて取り組むことが大切なのでしょう。
1728年に現在の香川県に生まれた異端の天才、平賀源内の波乱の人生と彼を取り巻くこれまた個性豊かな人々との交流を通して、当時の様子がよくわかる一冊です。
- 著者
- 小中 陽太郎
- 出版日
- 2012-06-01
多彩な才能を有し、才気の人、天才、奇才とも称された平賀源内。そしてその源内を取り巻く同時代のさまざまな人々、杉田玄白、青木昆陽、前野良沢、田沼意次、滝沢馬琴など、多彩なメンバーが登場します。
これら著名な人々との交流も描きながら彼の生涯を追う歴史小説です。本書から江戸のにおいを感じてください。
異端の天才として著名な源内ですが、そのさまざまな発見と業績を技術史的に検証されることは、稀でした。エレキテルや万歩計に物産展など、その足跡を追いながら検証していきます。
- 著者
- 奥村 正二
- 出版日
- 2003-03-25
平賀の残した業績、それはただ江戸にいるだけでなしえたものではありません。当然、日本各地を歩き回っていました。本書はその足跡を辿って検証をおこなっています。
まずは、源内がどんな生涯を送ったのかにはじまり、万歩計や物産展、江戸で過ごした時代についてが書かれています。次に、科学にまつわる話、最後にその生きた時代についての検証がすすめられているのです。
科学に関する部分では、エレキテルについてだけでなく、量程器(歩数計)や温度計についても詳しく記されています。量程器について、本書ではロンドンの時計師ペインが発明したものを例にあげて説明され、温度計については、そのしくみより、ガラスの質や技術に着目して説明がなされているのです。
江戸での源内の足跡を辿れるように地図も入っていて、当時の江戸の様子を垣間見ながら、源内の残した業績を辿っていける一冊になっています。
本草学という学問にもスポットをあてながら、平賀源内の学者としての実像に迫り、再評価を試みた一冊です。
- 著者
- 土井 康弘
- 出版日
- 2008-02-08
本草学とは、古代中国で誕生した学問です。自然に存在するものの中で、薬になるものは植物性のものが多く、本草学は漢方医学でいう薬物学を指します。日本では、1607年に中国で書かれた書籍「本草綱目」が輸入され、それを元に本格的な研究が行われるようになりました。江戸初期の本草学は薬効に主眼が置かれたものとなっています。
平賀源内が生涯をかけてこだわり続けた「本草学」ですが、今日ではどのような学問なのか知る人は少ないでしょう。本書では、その「本草学」についての解説からはじまり、本草学者である平賀の誕生からその業績についても語られています。
そして、芸術や文学への傾倒についても語られ、最後に源内の本草学への思いがどんなものであったかも語られています。本書は、本草学者としての面からみた平賀源内を検証している1冊です。
起業や新規プロジェクトなど、何か新しいことを始めたくなった時にぜひとも読んでほしい一冊です。
- 著者
- 出川 通
- 出版日
- 2012-09-26
本書では、学者、発明家、起業家など多彩な顔を持つ平賀源内の業績を検証し、現代に生かすヒントや方法を導き出しています。
彼の発想法や生き方が、起業や新規プロジェクトなど新しい事に取り組みたくなった時、何かに挑戦したくなった時、大変ヒントになる本です。
いかがでしたか。エレキテルで有名ですが、戯作者、殖産事業家などの多彩な才能を発揮した平賀源内。その発想法や生き方は、現代を生きる私達にもきっと参考になるものがあると思います。