日蓮の意外な逸話5つ!かの大聖人が残した影響がわかる本も紹介

更新:2021.11.9

日蓮は鎌倉時代の僧侶で、法華宗の宗祖であり日蓮宗の開祖です。安房国に生まれ、故郷の清澄寺にて出家した後、京都の寺院において遊学を重ねました。数々の法難に遭うも、晩年には総本山となる久遠寺を開山。『立正安国論』のほか、数多くの著書を遺しています。

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日蓮とは

1222年、日蓮は安房国の漁師のもとに生まれます。11歳で同国の清澄寺に入門し16歳で出家すると、蓮長と名乗り、本格的な仏門の道へと入りました。青年時代には比叡山や京都の各寺で遊学を重ね、天台宗の僧侶として学びを深める日々を送ります。

京都での遊学を終え再び清澄寺に戻ると、名を日蓮と改め、説法を行います。しかしそこで念仏批判を行ったため、寺からは事実上破門状態となってしまいました。都で修行を収めた「都帰りの僧」、いわばエリートともいえる彼にとってこのことは、「約束された将来」を失うものでした。

故郷での居場所を失い向かったのは、遊学先の京都ではなく鎌倉です。彼が生まれる前年、承久の乱によって政治の中心は天皇から武士に移行しています。そして仏教もまた、京都を中心とする旧勢力から離れ、鎌倉を中心とする新勢力が台頭しつつあったのです。

天災や飢饉が相次いで発生し、人々はこれを「末法の世のでき事」として恐れており、多くの人が救済を求めていた時代でした。そんななか、とりわけ「新勢力」として法然が広めた浄土宗、いわゆる念仏宗の台頭は著しいものでした。そしてこれは彼が学んだ天台宗、いわば「旧勢力」の教えを揺るがすほどの力を持っていたのです。

日蓮は鎌倉で、当時の僧侶の多くがそうであったように盛んに辻説法を行い、多くの信者を獲得します。それは一般庶民のみならず、武士にまで及んでいくこととなりました。彼は信者となった武士の人脈を活かし、当時の鎌倉幕府の実力者であった北条時頼へ、彼の代表作ともいえる『立正安国論』を提出します。

「世の中が乱れているのは浄土宗のような間違った宗教がはびこっているからだ。このまま放置していると、国内では内乱が起こり外国からは侵略を受け、国が滅びる。したがって念仏を禁止すべし。」

この内容が浄土宗の信者に知れ渡り、彼の草庵は彼らによって襲撃に遭いました。また鎌倉幕府からは、他宗の批判や政治批判を理由に、流罪を言い渡されてしまいます。

数年後の1268年、元王朝の使者が国書を携えて来日し、服属を迫ります。彼が『立正安国論』に記した「外国の侵略」が、ついに現実味を帯びてきたのです。

彼にとって最大の危機は、極楽寺の僧であった良観との雨乞対決でした。日照りが続くなか、鎌倉幕府は良観に雨乞いを依頼します。これを聞いた日蓮は、「7日以内に雨が降らなければ法華経の教えを捨て、良観の弟子となろう」としました。

結果、良観は7日以内に雨を降らせることができなかったため、彼は良観を批判します。すると良観は鎌倉幕府に、他宗批判として訴えたため、彼は幕府に捕らえられ、佐渡への流罪を言い渡されてしまうのです。

佐渡の流罪が赦され鎌倉に戻ったると、再び「外国の侵略」を予言します。これが政治批判とされ、身延へと配流となりました。しかしこれは、その地の地頭であった南部実長によって迎え入れられた「厚遇」ともいえるもの。そしてこの地の身延山を寄進されると、そこに久遠寺を開山します。これが今日の日蓮宗の総本山となります。

彼を語るうえで欠かせない「外国の侵略」ですが、最初の襲来は1274年の「文永の役」です。佐渡の配流を解かれ、身延山を開山したころにあたります。『立正安国論』を幕府に建白してから10年以上の月日が経過していました。そし2度目は1281年の「弘安の役」です。

当時大陸を支配していたモンゴル帝国とその属国によるこの2回の進攻を、「元寇」あるいは「蒙古襲来」といいます。

弘安の役の翌年、病にかかった日蓮は身延山を下山。常陸国への湯治に向かう途中の、武蔵野国の池上宗仲邸にて生涯を終えました。ここが日蓮宗の大本山である、池上本門寺となっています。

日蓮についての意外な逸話5つ

1:彼の思想はそれほど過激ではなかった
 

『立正安国論』では、「世の中の乱れは浄土宗が広まっていること」「諸悪の根源は法然」とまで言い切っています。非常に過激な内容に聞こえますが、当時の考えとして、これは特別極端なものではありませんでした。

彼が京都に遊学をする前から、すでに天台宗をはじめとする「旧勢力」と、浄土宗をはじめとする「新勢力」の対立が発生しており、とりわけ天皇家に近く、最も権威のある宗派とされた天台宗からは「念仏を禁止すべし」という要望が何度も行われていたのです。

実際に法然と弟子の親鸞も天台宗から念仏批判をされており、朝廷がこれに応ずる形で彼らに流罪を言い渡しています。

2:先見の明があった

「蒙古襲来の予言」は有名ですが、それ以前にも、彼には時代の流れを鋭く読むセンスがありました。

11歳で出家した日蓮は故郷に近い清澄寺で出家した後、京都の遊学を経て帰郷を果たします。京都は、いわば「仏教の本場」であり、僧侶にとっては憧れの場所でした。にもかかわらず、彼が京都に留まらなかった原因のひとつに出自の問題があるといわれています。

庶民の出であった彼は高位の人間とは異なり、将来の出世が望めず、またそのような条件で出世した人を師としても僧として大成することは難しいのでないかと判断したのです。

また当時は、承久の乱が起こって武家が朝廷から政治の支配権を手中に収めた時代です。天台宗が開かれた平安時代とは異なり、政治のみならず宗教の一大拠点としても発展しつつあったのは鎌倉でした。天台宗系の寺院や僧侶の多くが京都に留まるなかで、彼は鎌倉を目指し、そこを布教の拠点としたのです。

3:北条家から嫌われてはいなかった?

彼の最初の配流先となったのが伊豆ですが、この流刑は2年で赦免となっています。それも、直接の裁定者である北条長時の死によって「恩赦」という扱いです。

平安時代に清盛に対するクーデターを企てた俊寛という僧が遠方に配流された後、恩赦すらされなかったのと比較すると、これは非常に軽い罪だといえます。

4:天文学者だった?

彼にまつわる奇跡的なエピソードが3つあります。1つめは上記で説明した、良観との雨乞い対決です。

2つめは「伊豆の法難」と呼ばれるもの。彼は伊豆への流刑となりましたが、実は伊豆に到着する前に、海岸から離れた小さな岩に置き去りにされています。そのとき彼がお経を唱えると、小舟にのった漁師が通りがかり救われました。

そして3つめは、「龍の口の法難」と呼ばれるものです。佐渡への流罪が決定した日蓮でしたが、その途中龍ノ口刑場で斬首されそうになります。刑が執行されるそのとき、彗星のようなものが現れ、それに驚いた人々は斬首を中断し、あらためて佐渡へ配流されます。

いずれも「奇跡」を伝える逸話ですが、それぞれのでき事を天文学、あるいは気象学によってあらかじめ予測していれば、これらは決して不可能なことではありません。彼はそれらの学問によって奇跡を演出していた可能性が高いと推測することができます。

5:「懲りない」彼を支えた「法難は必然」という考え方

佐渡に配流された日蓮は念仏宗の信徒から攻撃を受けますが、後に現れた支持者の庇護のもと、佐渡での流刑生活を過ごしました。彼が発表した『開目抄』には、支持者に対して感謝の意を示す内容が書かれています。

しかし同書には、自らの不幸を嘆くものや、他宗への批判を行ったことへの反省などの記述は存在しません。それどころか「法華経の信者は法難に遭うとされている。これがまさしく私が真の法華経の伝道者である証である」とポジティブな方向に持っていくのです。

実はこの「法難は必然」とでもいうべき信念が、生涯、彼を支えました。彼にとっての法難は、単なる不運ではなく、むしろ自分の使命感を再確認させるものだったのです。よく言えば「ブレない」、悪く言えば「懲りない人」でしたが、これが今日に至るまで多くの人を惹き付けた彼の魅力でもあります。

日蓮の思想を知ろう

「東日本大震災は天罰」という発言をし、大いに物議を醸しだした末木文美士が作者です。しかし日蓮を研究していくなかで「災害=天罰」という思想は確かに存在しており、彼及びその影響を受けた人物の思考や発想という意味では、決して特別なものではありません。

著者
末木 文美士
出版日
2010-04-07

日蓮は良くも悪くも「極端な思考の持ち主」です。そしてその教えに影響を受けた人物の思考もまた、良くも悪くも「極端な思考」であることが少なくありません。

「なぜあの人の考えは極端なのか?」

その答えのひとつとして、本書に書かれている「日蓮思想とは何か?」がヒントになるといえるでしょう。これは単に彼の思想だけではなく、「日蓮の影響を受けた人物」の思考を探るうえでも重要な一冊だといえます。
 

 

彼の教えはいかにして広がっていったのか

生い立ちからはじまり、度重なる配流を経て身延山時代までの彼の生涯が詳細に書かれています。

また入滅後、江戸時代から明治以降に彼の思想が広まっていった流れもわかるようになっています。
 

著者
久保田 正文
出版日
1967-12-16

数ある仏教の宗派のなかで単純に信者の数だけを比較した場合、日蓮宗系の信者の数は決して多くはありません。しかし彼の教えの影響は非常に強く、そこに影響を受けた仏教系の新宗教が多く存在します。

本書は主に彼の後半生、とりわけ後世に教えが伝わっていった過程を知るうえで、非常に優れた一冊だといえます。過激な思想や攻撃的な姿勢がクローズアップされることも多いですが、本書には彼をとりまく環境が詳細に描かれており、これは彼の真意を知るうえでは欠かせない内容です。

仏教虎の巻ともいえる小説

『徳川家康』『伊達正宗』などの作品で知られる、山岡荘八による歴史小説です。

11歳で出家をし、39歳で鎌倉幕府に『立正安国論』を建白するまでの期間が描かれています。

著者
山岡 荘八
出版日
1987-08-03

山岡は太平洋戦争中、報道班員として数多くの特攻隊員の最期に立ち会いました。本作にはそんな山岡の願いともいえる「平和思想」が、日蓮を通じて描かれています。彼の根底にあるのはあくまで「人々の救済」であって、そこには「誰に対して勝つ」といった私利私欲は存在しないのです。

また本作では仏教の要点も簡潔に伝えられていて、小説という形式ですが仏教本としても示唆に富んだ内容になっています。山岡自身が多くの資料を丹念に読みこんだ形跡があり、単なる読み物の枠に留まらないリアリティがあります。

日蓮の代表作

蒙古襲来を予言した怪作として知られ、戦前の日本にも強い影響を与えた書物として名高い「立正安国論」と、思想の転換期の作品として知られる「開目抄」が収録されています。

著者
日蓮
出版日
2010-04-25

「立正安国論」は、「主人」と「客」による問答形式で話が進んでいきます。客は念仏に関心をよせる一般人で、主人は日蓮自身です。

「客」として描かれているのが、当時の庶民の信仰に対する態度です。彼らの対話内容から、日蓮が一般人の信仰状況を冷静に分析していたことがわかります。

彼自身の考えはもちろん、当時の人々について知るうえでもおすすめしたい一冊です。ビギナーと銘打ってあるため、分かりやすい現代語訳で初心者でも簡単に読むことができます。

いかがでしたでしょうか?その生涯や思想から評価の分かれる日蓮ですが、当時の時代背景や、彼の思想が成立していく過程を知ると、表面だけでは見えてこない様々な一面が見えてきます。本人はもちろん、本人以外の部分を調べ、あなた自身の日蓮像というものを探してみるのもよいのかもしれません。

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