中国、後漢の時代に活躍した蜀の丞相、諸葛孔明。彼は天才軍師として有名ですが実は時代の先を見通す視野、国を取り仕切る政治力、兵器を開発するアイデア、そして主君に尽くす忠誠心にも優れていました。そんな孔明の溢れる魅力に迫る5冊の本を紹介します。
諸葛孔明は181年(光和4年)に地元の名士、諸葛珪の息子として生まれます。しかし幼い頃に両親を亡くし親戚の諸葛玄の元に引き取られ、その諸葛玄も政争に巻き込まれ死去。孔明は弟と共に荊州(けいしゅう)の襄陽(じょうよう)付近の田舎に居を構え、晴耕雨読の生活を送ることとなります。
当時、襄陽付近には司馬徽という著名な学者が住んでおり、その門下にも優秀な弟子達が集まっていました。諸葛孔明も司馬徽の元で学問や兵法を学び、これが後の天才軍師の下地となっていったのです。
そのころ中国各地では黄巾の乱が起き小競り合いが多発。それが収まっても首都洛陽では宦官が政治を支配し、混乱に乗じて董卓(とうたく)が政権を奪取するなど混迷を極めていました。そして董卓討伐のために各地から連合軍が召集されますが、その中には後に天下を三分する、劉備(りゅうび)、曹操(そうそう)、孫堅(そんけん)がおり、これをきっかけにそれぞれが台頭していくこととなります。
曹操は献帝を擁して大将軍の地位につき中原の支配を確実なものとし、孫堅も親子で呉郡一体を平定。劉備だけはいまだ領地を持たず荊州の劉表の元に身を寄せていましたが、とある折に襄陽の司馬徽を訪ね、そこで伏龍(ふくりゅう)と鳳雛(ほうすう)なる2人の人物を手中にできれば天下を獲れるという話を聞くことになります。
この伏龍とは諸葛孔明のことで、その話を聞いた劉備はすぐに孔明の住居を訪ね、その場では門前払いされますが、3度目にやっと会うことができ幕下に迎えることとなりました。これが有名な三顧の礼です。
そして諸葛孔明は劉備に対して曹操、孫堅の息子孫権との戦は避け、荊州・益州を平定する天下三分の計を献策。この策に感心した劉備はそのまま劉表の食客として荊州に留まり、時期を見計らうこととなったのです。
その後、劉備は孔明の外交により孫権と同盟を組み、赤壁の戦いにて大軍で攻め寄せた曹操を退け、さらに劉表の後継であった劉琦が没すると自ら荊州牧となり荊州を支配。次いで益州も手に入れて牧となり、ついに諸葛孔明の献策の通り、魏の曹操、呉の孫権、そして蜀の劉備として、「三勢力が鼎立し均衡を保つ」という戦略、天下三分の計を成し遂げます。
天下三分の計が成ると、孔明は丞相として蜀の施政に携わり、魏、呉とは戦と外交を自在に駆使してうまくバランスを保ちながら国力を養うのですが……。事はそううまくは運ばず、呉の軍師、呂蒙の策略により劉備の義兄弟の関羽が死亡。それに怒った劉備も呉に対して無理な戦を仕掛けて戦地にて病没してしまいます。
劉備の死後も諸葛孔明は劉備の息子、劉禅をよく支え、南方征伐をして雲南などを支配下に組み入れ、さらには宿願である魏を討つために北方征伐を行います。
しかし魏の軍師、司馬懿は孔明の智謀を恐れ、国境を慎重に守ったので、さすがの諸葛孔明もなかなかこの守りを崩すことができず、北伐が5回を数えた頃……。長期に渡った戦の疲労がたたり、ついに孔明は五丈原で病没。234年の晩夏、54歳の生涯を閉じることになったのでした。
1:三顧の礼の時に漢の行く末を予言していた
劉備が孔明の草盧を3度目に尋ねた際に、ついに孔明は劉備と面会していますが、その時に劉備に対してその後の中国を以下のように予言しています。
「漢の情勢は強いものが勝つというわけではなく、天の時に依るものでもなく、人の謀り事よって決まることも多い。中原の曹操は皇帝を擁し、江東の孫権は地域に根付いて盤石である。しかし荊州の劉表は地の利に優れるものの守りが弱く、益州も土地は豊かだが劉璋は君主の器ではない。よって荊州、益州を取り、南方の異民族を懐柔し、孫権と同盟を結び、政治を整えた上で各地方に進出するならば覇業の成功と漢王室復権は必然である。」
これはまだ劉備が荊州すらも支配していない流浪の身の時の話ですが、孔明のこの話の内容はその後の漢の情勢を極めて正確に言い当てています。このことから、すでに孔明の頭には天下三分の計を実現するイメージがあったのでしょう。
2:決して美しくはないけれど賢い嫁を選んだ
孔明が結婚したのはまだ劉備に仕える前の話。当時孔明は妻を求めていましたがなかなか意中の女性に会うことができませんでした。
そこで黄承彦という名士が自分の娘を孔明の嫁に推薦したそうなのですが、この娘は肌の色黒く、髪は黄の醜い容貌……。しかし孔明は喜んで妻に迎えています。というのも彼女は大変に賢く、後に孔明が蜀の丞相に就き、家庭を顧みることができないのほど激務でもよく家を守り、孔明は家事の心配をする必要がなかったそうです。
また、『桂海盧衝志』には、孔明に来客があって夫人に麺を作らせるとあまりにも速やかに出来上がるので、孔明が怪しんでこっそり覗くと、木偶(木の人形)数体が麦を切り、臼を回していたという不思議な話が記述されています。それほどまでに賢い女性だったということでしょう。
3:「水魚の交わり」の語源となる言葉を言った
劉備が三顧の礼をもって孔明を軍師として受け入れ、日増しにその信頼を高めていきますが、劉備の義兄弟であった関羽と張飛は、自分たちを差し置いての信頼ぶりに対して不満を漏らします。そこで劉備は2人を呼びこのように諭したのです。
「孤(わたし)の孔明あるは、なお魚の水あるがごとし。願わくば諸君また言うなかれ」(『諸葛孔明の兵法』より引用)
自分を魚に例え、孔明を水に例えて、その信頼関係の強さを表しました。これが「水魚の交わり」の語源とされています。
4:絵が趣味で、未開部族に政治手法を絵図で伝えた
孔明が南方征伐を行った際、現地の雲南付近はまだまだ未開の地であり、人を殺してその首を神として祭るような部族が住んでいた地域でした。
孔明はこうした部族を支配下におくために、あえて交流を持ち、この未開の部族達に紙芝居のように絵図を何枚も書いて説明することで、部族長が租税を取って土地をうまく治めるための流れを伝えたそうです。
また、人の首を狩る代わりに、豚肉を穀物の皮で包みこれを供える風習を教えたものが、肉まん(饅頭)の始まりであるとも言われています。
5:泣いて馬謖を斬る
孔明が初めて魏への北方征伐に赴いた際に、自分の弟子であり極めて親しかった馬謖(ばしょく)を街亭の戦いの先発隊指揮官に任じました。しかし馬謖は机上では極めて優秀な戦略家ではあったものの実戦経験がなく、副将王平の諫めを聞かずに山上に布陣し、補給路を断たれて大敗を喫してしまいます。
経験豊富な副将の諫めを聞かずに山上への布陣を断行し、敗戦を招いた責任は大きく、孔明は軍律に従って涙を流しながら馬謖を斬首したのでした。親しい人間でも軍律を徹底し、斬首するという孔明の厳しさを物語る逸話として残されています。
6:空城の計という心理戦を行った
魏への北方征伐の最中、孔明は魏延に主力部隊を預けて東に向かわせ、自身は残りの兵と共に陽平関に駐屯していました。しかしそこへ、司馬懿(しばい)率いる魏軍が20万の大軍を率いて攻め寄せてきてしまいます。圧倒的不利な状況で浮足立った味方兵に対して孔明はなんと門を開け放し、城内を掃き清めるように指示。敵の到来を待ちます……。
城門に到達した司馬懿は、開け放たれひっそりと静まり返った城内をいぶかしみ、孔明の計略による罠であると判断。伏兵を警戒して撤退してしまったのでした。
しかし司馬懿は後に、この空城の計こそが孔明の計略であったことを知ると、じだんだを踏んで悔しがったということです。
7:孔明は死してなお影響力を持った
234年、五丈原にて孔明が病により没した時に、赤く輝く星が東北から西南に流れ蜀の陣営に落ちました。その後、軍師を失った蜀軍は撤退しますが、それを見た魏軍の司馬懿は孔明が死んだと見て、すかさずこれに追い打ちをかけようとします。しかし孔明の部下であった姜維の判断で蜀軍がすかさず反撃の姿勢を見せたため、司馬懿は孔明が死んだと見せかけて実はまだ生存しているのではないかと疑い、深追いをしませんでした。
この司馬懿が孔明を恐れた慎重すぎる行動は、後々まで「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言われたそうです。
8:発明家でもあった
孔明は優れた軍略家であると同時に優れた発明家でもありました。有名なところでは木牛・流馬という木で出来た手押し車のようなものがあり、大量の補給物資を運ぶことができたといわれています。
また連弩は、連発式の弩で10本の矢を装填し、連発で打ち出すことができたそうですが、これは当時としてはかなり強力だったのではないでしょうか。他にも攻城の際に使われる折り畳み式のはしごである雲梯や、鋼鉄製の全身鎧である満袖鎧鉄帽などその発明は多岐に渡っていたそうです。
中国、後漢の時代、三顧の礼によって劉備に仕えた諸葛孔明は、呉と盟約を結び、侵略する曹操を赤壁で迎え撃つ……。正史を元に、より現実的な人としての孔明像が描かれています。
- 著者
- 陳 舜臣
- 出版日
- 1993-10-01
純粋に孔明を題材とした初の小説と言われており、『三国志演義』に出てくる英雄的な諸葛孔明ではなく、生まれる前の時代から、出生、そして死までをひとりの歴史上の人物としてリアルに描き出した作品です。何を考えているかわからない神算鬼謀の天才軍師ではなく、神がかった活躍もありませんが、状況と動機に裏付けられた知略は、より現実的な迫力に満ちています。
諸葛孔明自身が書き、現在では散逸してしまった兵法書を、後の時代に再編した『諸葛亮集』を参考に、その孔明の兵法や、時代、人に対する考え方を解説。それぞれのエピソードや人心を動かすポイントごとに分類されており、時代背景や状況から、孔明がどのように判断を下して勝ったのか、また負けから何を得たのかがよくわかる兵法解説書です。
- 著者
- 諸葛 孔明
- 出版日
- 1977-01-01
「中国の兵法書に一貫して流れているのは、人間そのものに対する鋭い洞察であり、分析である。その意味では人間存在の内奥に根差した「兵法」なのである」(『諸葛孔明の兵法』)
孔明に関して興味がある人はもちろんのこと、人心掌握や対人関係に悩む、社会の一線で活躍する方々にも読んでもらいたいという作者の意図を感じる一冊。兵法だけでなく、規律や軍議、外交の重要性までも読み取ることができる、天才軍師、諸葛孔明の人を操るあらゆる智慧が詰まっています。
名を売るために自ら噂を流す、とっても野心的な諸葛孔明。腰は低いけど人望は厚い劉備に、武勇はあるけどプライドが高すぎる関羽、正史とさほどイメージの変わらない張飛……。個性豊かな登場人物が躍動する、どこか緩い新解釈の三国志です。
- 著者
- 酒見 賢一
- 出版日
- 2009-10-09
ネタと遊び心溢れる新解釈の三国志ワールド。新解釈だけに、正統派の作品を1度も読んでいないと変なイメージばかりついてしまうかもしれませんが、ある程度全体像を踏まえていればちょくちょく出てくる小ネタにくすりと笑ってしまうこと間違いないでしょう。なんといっても著者の三国志愛をひしひし感じる作品です。
諸葛孔明の兵法、リーダーシップ、忠誠心などを現代に生かしその人間性から学ぶため、孔明の弟子、姜維が日常のあらゆる場面における孔明の考え方を解説するというユニークな啓発書です。
- 著者
- 姚磊
- 出版日
- 2005-12-21
諸葛孔明の兵法、リーダーシップ、忠誠心などの考え方を参考に、ビジネスシーンを含む社会的な場面で応用しようという啓発書。孔明本人ではない人物が解説することで、読者に寄り添った視点での説明がなされ、より馴染みやすい構成になっています。
天才軍師として、また忠誠の志として日本人に親しまれている諸葛孔明。三国志の歴史をたどりながら、天才軍師を解説し、またそれぞれの立場、時代から見た孔明の評価なども記載されている、孔明研究の古典です。
- 著者
- 宮川 尚志
- 出版日
- 2011-10-13
この本の初版が発売されたのはなんと1940年であり、著者がまだ大学院生の頃だったそうです。それから何度も改定、新訂され現在まで読み継がれる、諸葛孔明研究の古典中の古典であり、歴史観が更新されていく中で、当時の孔明研究の状況を知る貴重な資料でもあります。
諸葛孔明の逸話8選と、天才軍師を紐解く5冊の本を紹介してきました。
三国志演義では天才軍師でもあり英雄として描かれている孔明ですが、正史でも変わらず天才軍師であり英雄のままであることに驚きを隠せません。調べれば調べるほど、その神算鬼謀とも言える知略、統率力、兵法などの軍師としての魅力はもちろんのこと、忠誠心や粘り強さ、厳格さなど人としての魅力も存分に兼ね備えた人物であることがわかってきます。
日本ではまだ弥生時代で稲作をし始めた頃に、中国では三国が群雄割拠する壮大な戦乱の中でこのような人物が戦場で軍略を練っていたというのは、歴史の奥深さを感じると共に感慨深さも感じてしまいます。