仙厓義梵にまつわる逸話8つ!彼が描くゆるかわ禅画の魅力とは。

更新:2021.11.9

みなさんは江戸中期に活躍した臨済宗の僧、仙厓義梵(せんがいぎぼん)をご存知でしょうか。近年、地域おこしや企業PRのための様々なゆるキャラたちがブームとなっていますが、実はこの仙厓、今から200年以上前に、ゆるかわイラストで禅の教えを人々に説いていました。

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仙厓義梵とは

「博多の仙厓さん」といわれ、武士にも庶民にも親しまれた禅僧、仙厓義梵(せんがいぎぼん)は、1750年に美濃国(現在の岐阜県)の貧しい農民の三男として生まれました。彼の代表的な作品は、見ている人を暖かい気持ちにさせるものが多いですが、それとは裏腹に、彼の幼少期はとても悲惨なものだったのです。

当時の貧しい民衆たちの悪習として、間引きや口減らしといった、養う余裕のない長男以外の子供を捨てるというものがありましたが、望まれた子供ではなかった彼もこの対象となり、山へ捨てられてしまいます。この時、運良く木こりに見つかり、親元へ戻されたものの、貧相な容貌を「四国猿」と周囲から馬鹿にされて育ちました。

そんな彼の唯一安心できる遊び場は、村はずれの輪番寺(近隣の禅寺の和尚が交代で住職を勤める寺)でした。そして、この寺にたまたま来ていた清泰寺の空印円虚との出会いが、彼に禅僧としての人生を歩ませるきっかけとなります。孤独な仙厓の境遇を哀れに思った空印和尚は、彼を自身の寺に連れて帰り、義梵という名を与え出家させたのでした。

真面目で忍耐強く、大人でも根を上げる荒行もやり遂げた彼は、19歳の時に、神奈川の東輝庵という全国から修行僧たちが集まる寺の門をたたきます。以後、途中で諸国行脚の旅に出るものの、40歳で博多の由緒ある古い寺、聖福寺の住職として落ち着くまでの間、この東輝庵は彼の僧としての人生における大きな修行の場となりました。

では、一般的な彼の禅画として知られる、ゆるくてかわいい作品たちは、一体どの時期に描かれたものなのでしょうか。聖福寺住職時代にも少しずつその兆しは見せるものの、実はそれらの多くは、彼が隠居した後に描かれたものでした。

仙厓義梵にまつわる逸話8つ!

1. 若い頃は頑固者だった

悲惨な境遇であったためか、青年期の仙厓はコンプレックスも強く、ダメ坊主にありがちな、「ビッグになって認められたい」といった私欲や頑固さもあり、彼自身その葛藤に悩まされました。そのため、掃いて捨てるほどに入門志願者が訪れては消える東輝庵の門前で、脅威の断食を続け、その様子が兄弟子たちに認められ入門を許されます。

しかし、肝心の住職である月船老師からはなかなか認められず、彼の臨終の世話を許されるほどの立場にまで登りつめたにもかかわらず、最後まで後継としての遺言をもらうことはできませんでした。後に、東輝庵の住職に就かないかと周囲から声が上がった時も、持ち前の頑固さで、老師からは許されていないからと断ってしまいます。

2. 仙厓の見た天明の飢饉

彼が生きた時代は、数多くの天災や政情不安に見舞われていました。月船老師の死後、彼は行雲流水の旅に出ますが、東北行脚の最中に天明の飢饉に苦しむ民衆たちを目の当たりにします。彼がこの時見た地獄は、少なからず彼の禅僧としての生き方に影響したことでしょう。晩年に描いたゆるかわ禅画は、こうした苦しむ民衆たちを思って描かれたのかもしれません。

実はこの頃に多くの大衆文化も生まれており、葛飾北斎や写楽などが有名な浮世絵の他、お伊勢参りも流行します。うんちくで人は救えないということだったのでしょうか、それらの多くに共通して言えるのが、民衆にとって親しみやすいかどうかということでした。

3. 実はとっても絵がうまい

彼がいつ頃から絵を描くようになったのかは不明ですが、少なくとも壮年期には狩野派風の細密描写を試みており、それらは晩年の親しみやすい作品とは全く異なり、技術の高さは伝わるけれど、どこか近寄り難い印象があります。

そんな彼がゆるかわ禅画を描くきっかけとなったのが、文人画家の浦上春琴に忠告を受けたことでした。春琴は、仙厓の絵を賞賛しながらも、雪舟のように絵の技術のみ評価され、僧としての徳は語り継がれなくても良いのかと問います。これを聞いた彼は、その場で絵を破り捨て、以後ゆるテイストに傾倒していくのでした。

4. 73歳での「厓画無法」宣言

彼は弟子の堪元に聖福寺の住職を任せた後62歳で隠居し、翌年に虚白院という終の住処に移ってから、画僧としての活動を活発化させていきます。そこで描かれたものたちは、初期の作品の面影などは見られず、まるでノートの端に走り描きしたような自由さと軽やかさを持っていました。

そして73歳の時、自身の作品には他の作品のような一定の法がないという、「厓画無法」宣言をします。ユーモラスに単純化された絵と、それに添えられた言葉たち。一見自由極まりなく、まるでおじいちゃんの落書きなのですが、実にコンパクトに禅の教えや道徳を語っています。

5. 我が隠れ家は雪隠(せっちん)か

仙厓の禅画は彼の在世当時から大人気で、虚白院には、酔っ払いや近所の娘などの庶民だけでなく、黒田藩の藩士など様々な人が訪れました。そんな彼は僧でありながら、「うらめしや我が隠れ家は雪隠(トイレのこと)か、来る人ごとに紙置いて行く」 と、彼らに対してユーモアたっぷりの愚痴をいっています。

また、ある時は玄関に「本日不在」と書いた紙を貼り居留守を使いました。揮毫を求めにやってきた藩の重役の久野外記が、庭で草をむしる本人を発見し、いるじゃないかと疑問に思って話しかけると、仙厓は「本人がいないといっている」と、とんちで返したそうです。

6. 弟子をカエルに例えてピシャリと一言

彼は、その生涯で数多くの動植物の画賛を描きました。その中でとても印象的なのが、「座禅蛙画賛」です。ニヒルなうすら笑いを浮かべて座っているカエルと、それに添えられた「坐禅して人が佛になるならば」という句。

万物に仏性があるという禅の教えに従うなら、カエルも悟りを開けるはずで、素直に見ればカエルが頑張って修行している様子にも見えます。しかし、彼がこの作品に込めたのは、形式ばかりにこだわって中身がともなっていなければ、悟りへの道は遠いぞという、皮肉と笑いたっぷりのお説教でした。

7.これ食うて茶飲め

彼の作品はさらに自由を極めていきます。彼は、画面の中に大きな○だけを描いた、「円相図」というものをいくつも残しています。古くから伝統的な禅画のモチーフとして描かれてきた円相ですが、彼もこの作品を、弟子たちや客人と歓談でもしながらササっと描いたのでしょう。しかし、やはり彼の作品だけあって、そこに込められた意味の読み解きは一筋縄ではいきません。

円は禅の世界で悟りなどを意味しますが、彼は「これくふて茶のめ(これを食べながらお茶でも飲みなさい)」という言葉を添えています。「これ」とは円相のことで、実はこの作品に描かれた○は饅頭でもあり、悟りの道をお茶うけのように楽しんでほしいというメッセージが込められているのです。博多の人々や日々の些末な出来事を大切にした、仙厓らしい表現ですね。

8.長生きしたのに死にとうない

東輝庵や聖福寺における僧としての功績が評価され、本山妙心寺からの紫衣の勧めを受けるも断り、生涯通して黒衣の僧として博多の人々に寄り添い続けた彼は、当時としてはかなり長い88歳の天寿をまっとうしました。彼は亡くなる5年前に絶筆宣言をするものの、程なくして再開したり、流刑になってしまった弟子の堪元の代わりに聖福寺住職に返り咲いたりと、生涯現役であり続けたのです。

そんな彼が最後に残した言葉は、「死にとうない」でした。職や身分など関係なく、禅僧らしからぬ言葉を残してしまうほど自然体であり続けた彼だからこそ、民衆たちに親しまれ、愛されたのかもしれません。

彼が「博多の仙厓さん」になるまで

本書は、仙厓と同じく臨済宗の僧であり作家の玄侑宗久の解題によるものです。晩年のゆるかわ禅画ばかりがピックアップされがちですが、ここでは、彼が博多に入り禅僧としての分岐点を迎えるまでの、煩悶期に描かれた作品についても多く取り上げられています。

著者
玄侑 宗久
出版日
2015-06-12

師である月船老師は、実は「毒月船」と呼ばれ厳しかったこと、東輝庵で四天王と呼ばれていたものの、自身はただの物知りの域を出ていないとして悩んでいたことなど、若い頃の心情にまで立ち入っており、彼が「博多の仙厓さん」になるまでの所以が読み解かれています。

また、先に挙げた月船の他、弟子の堪元や臨済宗の祖である栄西まで、仙厓にまつわる人々のエピソードも多く、彼についてさらに掘り下げたいファンにも楽しめる一冊となっています。

仙厓の周りには愉快な人がいっぱい!

本書は、フィクションを交えながら語られる伝記で、彼の入門書でもあります。虚白院で臨終を迎える彼が自身の生涯を振り返るところから話は始まりますが、彼がどれだけ人々に愛されたかが伝わる日々のエピソードが満載。

彼のような最後が迎えられたら本望、とさえ思ってしまうでしょう。

著者
堀 和久
出版日
2010-06-07

彼が好んで描いたモチーフの中に寒山拾得(かんざんじっとく)という2人の変わった男たちがいます。唐の国清寺の僧、豊干の弟子ともいわれる彼らは、実際のところ弟子と呼ぶにはあまりに奇行の多い生活をしていて、世俗を捨てた彼らの暮らしこそ悟りの境地なのだと、禅の世界ではしばしば語られます。

仙厓の元にはなぜかこの2人のようなおかしな人々が集まり、様々な問題を起こしてしまうのです。しかし、彼らとの愉快な日常こそ、笑いあふれる禅の道へと導いたのではないかと感じさせる一冊となっています。

嘘か誠か、おもしろエピソードが満載

本書は、数え切れない面白エピソードを持つ仙厓の逸話を100も集めた、彼の人柄がとことん分かる一冊です。この逸話集の中に、「座禅座禅といわさるけれど尻の根太が痛うござる」といった話があります。

本来なら民衆を導く僧の身ですから、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、痩せ我慢してでも答えそうなものですが、彼にいたっては、座禅に重きを置く禅僧の言葉かと耳を疑うほどの発言です。

著者
石村 善右
出版日

しかし彼がここで伝えたかったのは、「座禅蛙画賛」と同じく、格好ばかりつけて真理を理解していないことへの批判でした。これは裏を返せば、形はどうであれ本質を理解しようとする姿勢が大切だということになります。

彼が当時の人たちだけでなく、今でも多く愛される理由は、このように、私たちにも親しみやすい方法で禅を説いているところにあると感じられるでしょう。

宇宙か、人か、はたまたおでんか。

本書は、仙厓の描いた禅画の中で最も有名で、そして最も謎が多い「○△□」を中心にとことん読み解いています。この作品には諸説あり、実に様々な議論が本書の中でもなされているのですが、彼自身が答えを示していないので明確な正解というものがなく、今でもその答えは謎のままです。

著者
中山 喜一朗
出版日
2003-08-20

議論の内容には、万物や宇宙を表すユニバース説や、真言密教の六大(地・水・火・風・空・識)に沿って、□は地、△は火、○は識とする説などがあります。中でも面白いのがおでん説で、「円相図」において○が饅頭だったのだから、今度は○△□全ておでんの具だというのです。

その他、仏教や禅の教えに沿った説は難解で、初心者は首を傾げてしまうかもしれません。しかし、仙崖の作品の魅力は、こうした謎かけがそれぞれの作品に隠れているというところでもあるのです。

あなたはこの◯△□をどのように感じるでしょうか。

いかがでしたでしょうか。ユーモアあふれる禅画を死ぬ間際まで描き続けた仙厓の作品の中で、最後に、筆者が最も好きな「堪忍柳画賛」というものを紹介します。この作品には、「堪忍」の力強い文字と、強風に吹かれる柳の図、そしてその横に、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」という句が添えられています。

彼が残した言葉や禅画たちはどれも親しみやすく、「わかる、わかる。」と共感してしまう身近なものばかりですが、この柳画賛は特に、現代社会でストレスを過剰に感じながら生きる私たちにとっての、先人の貴重な言葉のように感じます。今も昔も、人というものの本質は変わらないけれど、「気に入らぬことは柳のように気にせず受け流してしまえ」と仙厓がいうように、日々大らかな気持ちで過ごせたら素敵ですね。

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