現代批評において「作者」概念と併せて非難されがちな「作品」概念を新たな角度から擁護するために読むべき6冊の批評書を紹介。
- 著者
- ロラン・バルト
- 出版日
構造主義と記号論を文学批評に導入した中心人物であるロラン・バルトの批評論集。写真・映画・演劇・音楽に関する評論が集められており、美術を扱った文章をまとめた『美術論集』(みすず書房)と対をなすような位置にあります。
バルトの批評の基本にあるのは、知覚という出来事が成立するのは、それが言語構造を経由する限りにおいてのみである、という一種の言語中心主義です。これは「言語学が記号学の一部なのではなく、記号学こそが言語学の一部なのだ」という旨の彼の有名な発言に象徴的に表れた態度でもあります。
しかしバルトは、写真や映画、音楽における記号のうちに、そういった社会的な意味のコードに回収されない剰余の次元をしばしば認め、その無意味性についてアツく語るひとでもあります。本書に収録された「声のきめ」では、オペラ歌手パンゼラの声のうちに、そのような剰余としての身体の固有性を読み取る/聴き取ることが試みられます。このような、ただひたすらに自分自身を指し示すだけの純粋なシニフィアン(意味するもの)への執着は、バルト晩年の著作『明るい部屋』におけるプンクトゥムの概念の発明にまでつながるものです。
「作品」を超える「テクスト」の次元について語ったバルトですが、裏を返せば、彼自身が紡いだ「テクスト」について再考することからこそ、テクスト論以降の新しい「作品」についての思考は始まるだろうと言えます。「声の肌理」が聴取という探求にとっての行き止まりではないように、「テクスト」のさらに先にある「作品」を構想することもまた、身体についての彼の抽象的な空想から引き出すことが可能であるように思われるのです。
- 著者
- 江藤 淳
- 出版日
- 2005-05-11
江藤淳は吉本隆明と並んで、60年代までの戦後日本批評のシーンを、そのオーセンティックな教養と鋭い文学的/政治的センスとを兼ねそなえた評論文によってリードし、のちには柄谷行人や中上健治、高橋源一郎、福田和也などの錚々たる書き手を世に送り出してきたことでも知られる、重要な文芸評論家です。若干23歳で上梓した処女作『夏目漱石』に続き、彼が1959年に発表した第二の主著がこの『作家は行動する』です。
本書における江藤の主張ははっきりしています。彼は小説作品の「文体」を「行動」の観点から、つまりそれが担いうる機能の観点から考察します。しかし江藤は言葉を道具とみなしたうえで、小説をもっぱら技術的に論じようとしているのではありません。江藤は言葉を実体(もの)から自由になった「記号」とみなし、そのうえで記号活動こそが人間の存在そのものにとって消去不可能な要素であると考えようとするのです。
文学作品の生産から日常的なジェスチャーまでを含む、最広義の言語活動が、社会的現実を実際に自由に変えていくものでありうるというここでの江藤の言語観は、『ゼロ度のエクリチュール』においてエクリチュールを、作家による社会的な選択の産物とみなしたバルトのそれに、不思議なほどに似通っていると同時にそこからはみ出す可能性も少なからず含んでいます。
言語についての原理的叙述を終えたうえで江藤は、本書で次々と具体的な作家の作品を実例を交えて論じていくことになるわけですが、志賀直哉や小林秀雄といったそれまで模範的な「文体」をもつとされてきた著述家のまさにその「文体」を、「もの」への惑溺とそれに相関する「行動」(すなわち「記号」)の放棄という理由で激しく攻撃する箇所などは、読者に意外の感と鮮烈な印象とを必ずや残すことになるでしょう。
「作品」は、権威化されたモデルを永続化するための膠着した非歴史的規格のようなものであってはならないのです。
- 著者
- ポール ド・マン
- 出版日
- 2012-09-01
アメリカにおける「脱構築」の文芸批評への導入を担った第一人者であり、現在の批判理論(Critical Theory)への影響も絶大であるポール・ド・マンの最初の評論集である本書には、緊迫感溢れるいくつもの「読みのドラマ」が収載されています。
「読みのドラマ」とはどういうことでしょうか。通常私たちは、文学作品を分析し解釈する批評家の営みに対して、その作品を生みだした作者自身には見えていなかった部分を当該の批評家がどれだけ見抜けているかでもって、評価を下そうとします。つまり批評家は、もっぱら「作品」に対する彼の洞察の卓越性においてのみ、読まれうるとみなされているわけです。
他方、本書でド・マンが提示するのは、ビンスヴァンガーやルカーチ、ブランショ、スタロバンスキーやデリダといった批評家(に相当する著述家)たちが彼らの洞察の内容を明示的にしてゆけばゆくほどに、彼らの盲目をも露呈することになるのはいかにしてかという、一種のパラドックスです。このパラドックスを浮かび上がらせるためにド・マンがとる方法は、批評の主張内容以上にそれを語ることを可能にしている形式、つまりレトリックに着目する方法になります。
本書に収められた論文のなかでは、デリダによるルソー解釈のうちにそのようなレトリカルなパラドックスを見出した「盲目性の修辞学」がとりわけ有名ですが、それ以外の論文でも、たとえば「アメリカのニュークリティシズムにおける形式と意図」では、歴史的(時間的)なものを前提とする解釈学的循環が、非歴史的な形式を扱う文体論のうちに、半ば必然的に繰り込まれざるをえないことが論じられており、類似したパラドックスが見出されることになります。ド・マンはニュークリティシズムの形式主義にさまざまな留保を付けつつも、彼自身のダイナミックな形式主義をこの論文で打ち立てようとしています。
以上のように本書は、「作品」を解析する批評をさらに「作品」と見立てて解析していくような、メタ批評のお手本という側面をもちます。さまざまな批評的レトリックに斜めから侵入するド・マン自身の思考の運動に倣うかたちで、読者である私たち自身もまた、この「読みのドラマ」へと入門することになるのです。
- 著者
- T.W. アドルノ
- 出版日
専門的哲学者のうち、音楽について深く踏み込んだ批評的ないし哲学的言説を残した人が少ないのは、単なる偶然によるものではありえません。20世紀ドイツのフランクフルト学派をベンヤミンとともに代表したアドルノが、哲学史のなかである例外的な地位を獲得しえているとすれば、それはひとえに彼が音楽を、自身の聴取の「経験」、もっと言えば「印象」のレヴェルで論じるのではなくて、「作品」として論じることができたからだ、と言えるでしょう。
アドルノの音楽論というと、本書にも収録された「ジャズについて」が、そこでなされたジャズに対する一方的な先入見にもとづく批判(とされるもの)によって有名なわけですが、筆者としては「ラヴェル」と「異化された大作」の二本を、そこで展開される作品分析の内容の豊かさと、著者自身の「聴く耳」の存在の確かさにおいて、推薦したく思います。
「ラヴェル」でアドルノは、作曲家ラヴェルを「鳴りひびく仮面の大家」と規定します。ラヴェルの作品においては外部の現実を直接的に反映している音はひとつとしてなく、すべては輝かしい仮象の戯れであるということです。
そしてラヴェルの作品を理解するうえで、その作品以外の何ものも必要とされないという断定が、この規定からは導かれてくるわけですが、実際この小文の後半部で示されるラヴェル《ソナチネ》についての記述は、著者アドルノ自身の子ども時代への憧憬と不可分に結びつきつつ、現実でも非現実でもない仮象の世界へと読者を導いて、ラヴェルの同作に「作品」という語に相応しい、ささやかな永遠性を付与することに成功しているように見えます。
「異化された大作」のほうはベートーヴェンの《ミサ・ソレニムス》論。傑作とされるこの作品が実際にはいかに奇妙な構成をもつものであるか、またベートーヴェン自身に一貫して聴かれる作風ともそぐわないものであるかが批評的に分析されていきます。
音楽批評は自身が受け取った感動をただ記述するだけでなく、自身が直面した謎について記述することもできるのであり、おそらくその謎こそ、音楽における「作品」に相当するものなのでしょう。
- 著者
- ウンベルト・エーコ
- 出版日
- 2011-02-23
ベストセラー小説『薔薇の名前』の著者であり、記号論の第一人者にして美学者でもあるウンベルト・エーコの主著である本書は、執筆当時の最新の芸術動向に敏感に応答して、そこにしばしば用いられる偶然性・不確定性・曖昧性などの表現特性を情報理論的な基礎にまで遡って分析することを試みた、一連の論考をまとめたものです。
エーコが本書で考える芸術作品ないし美的表現の定義は、曖昧性と自己集中性という二語によってなされます。これはニュークリティシズムにおける詩的言語の定義や、より広くは芸術作品の自律性とか美的判断の無関心性といった言い回しのうちにも見られるような考え方で、エーコ自身断っている通り、オーソドックスなものです。
しかし、著者エーコの本領が発揮されるのは、このオーソドックスな芸術の定義に含まれる曖昧性その他の概念を、シャノンやウィーナーの情報理論まで持ちだして精密に分析し、そこから現代芸術の挑戦にも耐えうる詩学の可能性を引き出そうとする点においてです。
アレクサンダー・カルダーのモビール彫刻やジャン・デュビュッフェのアンフォルメル絵画にそうした芸術的な「開かれ」の範例を見出すエーコの議論は、いまや古びて見えるかもしれませんが、現在の状況もその延長線上にあるということを確認するためにも、本書は必読に値するでしょう。
- 著者
- エルヴィン パノフスキー
- 出版日
- 2009-02-01
たとえ読んだことはなくてもその名前は聴いたことがあるでしょう、パノフスキーのこの著作を「作品」論として紹介することに違和感を覚えるひともいるかもしれません。というのも、パノフスキーは本書において特定の「作品」や「作者」を取り上げてそれを集中的に論じるということはせずに、むしろ西洋における視覚芸術の歴史全体を貫いているひとつの重要な形式の変遷を追うことに注力しているからです。
その重要な形式とは言うまでもなく遠近法なのですが、パノフスキーはこのいまや自明のものと思われ、自然なものと認識されている表現形式を、歴史的に人為的に構築されてきたものとして分析の俎上に載せます。彼の分析の射程は中世や古代にもおよび、したがってそこで扱われている遠近法の「実例」を近代的な意味での「作品」として理解することは、アナクロニズム以外の何ものでもありません。
とはいえ、「象徴形式」という哲学者カッシーラーからとられた用語が示唆しているように、パノフスキーが分析する遠近法とは、単に与えられた視覚的センス・データを秩序だてて表現するための中立的な方法などではなく、等質的で等方的である無限な空間という、より精神的な意味を表現するための方法だということは見落とされてはなりません。つまり、そのような歴史的な文脈のうちに置かれた遠近法の概念は、「作品」という概念の成立を準備する一要素であっただろうという点こそが、ここで筆者にとっては重要と思われるのです。
パノフスキーが最終的に「人間の意識を神的なものの容器にまで広げ」たと評価するルネサンス以降の遠近法の概念から、私たちは個別の「作品」を歴史的に貫く制度の問題のみならず、「作品」一般の概念が成立するための構造的な条件のようなものまで見通すことができるかもしれません。