山県有朋は、現代の陸上自衛隊につながる大日本帝国陸軍(旧陸軍、帝国陸軍)を創設した人物で「近代陸軍の父」と呼ばれる人物です。山県の経歴と人生について、そして、明治時代の権力の形成を知る5冊をご紹介します。
山県有朋(山縣有朋)は、1838年から1922年まで生きた人物です。出身は今の山口県にあたる長州藩で、幕末には高杉晋作が作った奇兵隊に入り活躍しました。
明治時代になると、軍務に関する政治家である軍政家として辣腕をふるいました。また、2度内閣総理大臣にもなっています。
山県は軍政家としては極めて有能であったものの、権力欲が非常に強い人物でした。各省庁にまたがる山県派の派閥を作り、晩年には国政に大きな発言力をもつ元老という地位になりました。
彼が関与した制度である軍部大臣現役武官制、統帥権の独立などは、昭和の軍部の発言力強化につながり、ひいては太平洋戦争開戦の原因となった制度です。
1:山県有朋の家庭と権力への執着の関係とは
彼は5歳で母を、23歳で父を亡くしています。また、母替わりだった祖母は、山県が奇兵隊で活躍中に入水自殺をするというショッキングな形で亡くなりました。このように次々と家族を失い、家庭の愛情を満足に得られない環境で成長したことが、彼が自分の地位を安定させる権力と、いわゆる「とりまき」となる派閥の形成に執心する原因になったと言われています。
2:奇兵隊での活躍と馬関戦争で軍事の重要性を知った
山県は、同じ長州藩の高杉晋作が作った奇兵隊に参加し、軍監として活躍します。
1864年、長州藩がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と戦った馬関戦争で、彼は欧米列強の力と、身分を問わない奇兵隊の勇敢さを身を持って感じることとなります。この経験が、後の国民皆兵制度である「徴兵令」へとつながりました。
3:山県有朋が建議した廃刀令とは
1875年、山県は廃刀令の建議をします。建議の内容は、以下のようなものでした。
「今全国を通史するに、華士族の輩、猶依然として旧習を固執し、刀剣を其腰間に挿む者少なからず。蓋し此輩は皆頑固無識にして時態の変遷と兵制の更革を暁(さと)らず……」(人物叢書『山県有朋』から引用)
士族を「頑固無識」と断言した建議は彼らの不満を大きくさせ、明治初期の士族反乱の原因となりましたが、翌1876年に廃刀令が発せられることとなりました。民兵の寄せ集めであった奇兵隊の意外な強さを知る山県は、あくまでも国民皆兵の徴兵令を重視する姿勢を取り、武士の誇りと特権の象徴であった刀を取りあげました。
4:山県有朋の「超然内閣」とは
内閣総理大臣の地位についた山県は、現代の国会にあたる帝国議会を軽視する態度をとりました。このような内閣を「超然内閣」といいます。 彼は、伊藤博文の書いた憲法の本である「憲法義解」を何度も読み、議会の知識を得ようとしましたが、どうしても議会の有用性を理解することができませんでした。
その結果、民党と呼ばれた、与党のような立場の人たちを無視して政策を進め、内政の混乱を起こしてしまいます。軍務では優秀であっても、民意を反映させるという議会の意味を彼は理解できなかったようです。
5:強い権力欲のせいで周囲から孤立した
山県は陸軍を中心として、内務省、宮内省、枢密院などで自らの派閥作りに執心します。山県派の派閥は伊藤博文が暗殺されると政界で最大になり、山県に逆らえば政治生命が危ういという状況を作り出しました。
山県派の人物として桂太郎、寺内正毅などがいますが、大正デモクラシーの時代に民衆や護憲運動の議員によって民意を無視する態度を避難され、倒閣しています。彼は権力によって、子供の頃から飢えた愛情を埋めようとして、かえって自分の派閥以外からは嫌われる人物となってしまいました。
さらに、後の昭和天皇となる裕仁親王の皇太子妃に内定していた久邇宮良子に色盲の遺伝子があると言って結婚に反対し、大いに嫌われました。大正天皇の「科学といえども間違うことはある、と朕は聞いておる」というひと言でこの件は終わりますが、これは「宮中某重大事件」と呼ばれ、彼が次第に「老害」となっていったことを象徴する事件となりました。
6:さみしい葬儀だった
彼は1922年2月1日、83歳の天寿を全うすることとなります。元老として東京日比谷公園で国葬に付されたものの、彼の葬儀は参列者が非常に少なくさみしいものでした。当時の新聞には「席も空々寂々」とあり、少数の軍人、官僚が参列するだけの葬儀となりました。
7:山県有朋の恋女房「友子」
派閥を作り権力にまみれ、さみしい形で人生の幕を閉じた山県ですが、幕末の若き日には、熱き恋話もあります。 奇兵隊の軍監時代、馬関小町とあだ名された友子という女性に恋をし、熱烈にアプローチをしました。
周囲からは珍妙に見えていた奇兵隊の軍監であった山県は、友子の家から体よく断られてしまい、最初は失恋でした。しかし、失恋の傷をかえって仕事へのエネルギーと変えて、薩長の橋渡しをこなし、将来有望な人物として成長します。
すると今度は、友子の家から縁談を申し込まれます。結婚した2人は翌年の正月に「無隣庵」という別荘で水入らずの時間を過ごしました。無隣庵には彼の歌碑が今も残されています。
本書は、山県有朋という人物の人生を通して、明治の権力のメカニズムをわかりやすく書いた名著です。また彼に限らず、桂太郎、原敬など明治から大正時代にかけて活躍した人物の記述も豊富に載せられています。
- 著者
- 岡 義武
- 出版日
- 1958-05-17
明治時代の政治権力の形成を読むことで政治や権力の難しさを感じることができる一冊です。特に山県が派閥形成をしていながらも、派閥に属していた桂太郎などから反発を得ていた点などは、政治や権力の難しさをひしひしと感じさせられます。
本書は山県有朋という人物とともに、明治政府の権力形成を理解することができる一石二鳥な作品です。
2009年に刊行された本書は、古典的な山県像からの脱却を試みている一冊です。
従来とは異なった新たな人間像が豊富な資料に基づいて書かれている評伝となっています。
- 著者
- 伊藤 之雄
- 出版日
- 2009-02-01
古典的な山県像を「権力に執着した印象の悪い人物」とすれば、本書はそんな印象を「真面目で不器用な男」と転換するものです。
もちろん、単にイメージのみで転換しようとしているのではなく、十分な歴史的資料に基づいて分析がなされています。
この本は読者に、古典的な歴史観を考え直すきっかけをくれるでしょう。
本書は、2010年に刊行されました。大衆中心の社会へと向かうことをあえて阻止しようとして、富国強兵路線を採用した山県の考え方や、彼の人生観が述べられています。
- 著者
- 井上 寿一
- 出版日
- 2010-12-21
明治における富国強兵策は、後の太平洋戦争に続いてしまう「失敗」と捉える見方が従来から存在します。
そして、富国強兵策を推進してしまった山県有朋は、明治の政界において悪役の代名詞です。しかし、本書は山県の行動を「やむを得ざる判断」として考察しています。
読者に歴史の新しい見方を示してくれる作品です。
本書は、日本で最も力のある人物のひとりとなった山県有朋が、ただひとつ叶えることのできなかった「地方自治政策」の内容をメインとして扱う本です。
- 著者
- 松元 崇
- 出版日
- 2011-11-23
彼は軍政家としてのイメージが強調されており、徴兵令や軍部大臣現役武官制などに関与したことが有名ですが、実は明治の地方制度(地方自治)にも関与しています。それぞれの地を市・町・村・府・郡に分ける「市制町村制」と「府県制郡制」の政策を中心となって進めたのです。
本書は、内政家として、地方自治制度に関与した山県の姿が詳細に書かれています。地方自治の重要性を認識していた山県の内政家としての面を知ることができる一冊です。
本書は、近現代史の第一人者、半藤一利氏による作品です。
山県有朋を主人公としながら、客観的に明治、大正時代の流れを記述しています。
- 著者
- 半藤 一利
- 出版日
- 2009-12-09
本書には伝統的な山県像が描かれているため、彼について知りたいという人のための入門書となるでしょう。
ただ、山県自身についての本というよりも、彼を軸として明治時代の歴史の流れが、客観的にわかりやすく書かれています。そのため、明治時代を再勉強されたい方や、大学受験用にも役立つ一冊です。
山県は、人物評価が変化しつつある人物です。古典的には、山県は「権力の権化」という人物評の人物でした。しかし、次第に、明治の日本をリアリティをもって考えた人物として評されています。これは、明治という時代の捉え方、歴史観が変化していることのひとつの表れと言えるでしょう。明治時代を再考する試金石となる人物、それが山県有朋という人物であるといえます。