過激な性描写や暴力描写が取り上げられることが多いこの作品。しかし、魅力は決してそれだけではありません。小説の細部に注目した読み方をご紹介します。
村上龍の処女作品として1976年に発表され、群像新人文学賞および芥川賞を受賞したことでも知られているのがこの『限りなく透明に近いブルー』という作品です。
その後も数多くの文学賞を受賞してきた経歴をもつ村上ですが、中でもこの作品は当時の芥川賞史上最高の累計発行部数を記録し、多くの人に時代を超えて読み継がれてきた代表作だと言えるでしょう。
- 著者
- 村上 龍
- 出版日
- 2009-04-15
主人公のリュウは東京都福生市の米軍ハウスに住み、仲間や米軍基地の黒人たちとともにドラッグとセックスに溺れる生活を送っています。自堕落な生活を送っていたリュウは次第に錯乱状態に陥るようになっていき、生活もより過激に変化していくのです。
生々しく読者に迫る性描写や暴力表現、退廃的な内容から、この作品はしばしば、「いわゆる最近の若者」の生態を描いた問題作として語られます。確かにここに描かれるセンセーショナルな世界は、異常なものとして我々の日常から隔離したくなるものにも思えます。
しかしこの作品は、異端なものを、異端なものとして自分たちから切り離して描いたものでは決してありません。作品の細部に目を向けるとむしろ、心のどこかで閉塞感を感じながら日々を過ごす、そんなどこにでもいる人々の一部を切り取った小説であると言えるでしょう。
小説において何度も登場する「虫」を、リュウはいつも見つめ、自分と重ねているふしがあります。虫はゴキブリであったり、コバエであったり、小さな蛾であったりして、常になにか大きな存在に食われ、つぶされる存在として描かれているのです。
リュウは、大きな「黒い鳥」に怯えます。戦争が日常の中に色濃く影を落とす時代に、米軍基地がある土地で暮らし、米兵から流されたドラッグに溺れて暮らす彼にとっての「黒い鳥」とはつまり、米兵の黒人たち、大空を舞う飛行機、アメリカの支配そのものだと言えるでしょう。
鳥に潰された虫たちが体液を迸らせて死んでしまうように、リュウたちもまた、色とりどりの体液を外に放出して日々を過ごしています。ある時はセックスで、ある時は嘔吐によって、ある時は暴力によって。彼らが痛々しいほど享楽に溺れてしまうのは、こうした「黒い鳥」による支配から抜け出したい、「外に出たい」、そんな欲求があるからに他なりません。
「(略)天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている。テーブルの足先は毛足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座っている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。」(『限りなく透明に近いブルー』より引用)
この長い引用文は、この作品の冒頭3行目以降を抜き出したものです。リュウの視線は自在に遠近を変化させ、まるで映画のカメラワークのように周囲を漂います。自分は当事者でないかのような、観察者の視点で彼が事物を眺めていることが、ここから分かるわけです。
そんなリュウの物の見方を、彼の恋人であるリリーは「赤ちゃんみたい」と表現します。
「あなた何かを見よう見ようってしてるのよ、まるで記録しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さな子供みたいに。(略)リュウ、ねえ、赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ」(『限りなく透明に近いブルー』より引用)
彼は目の前に現れては消えるあらゆる事物を、そのまま飲み込むかのようにただ見続けています。こうした観察者の視点もまた、当事者として物事を目の当たりにしている「ここ」から逃れようとする、「外に出る」動きに通じているのでしょう。見たものをそのまま映してしまう彼の瞳は、リリーの言う赤ちゃんのようでもあり、ガラス(もちろん、限りなく透明に近いブルーの)のようでもあります。
目の前でくり広げられる暴力などの異常な光景を、ただ眺めているだけのように見えるリュウ。その実、彼が深く傷ついていることは彼の夢からも分かります。
「(略)いろんな人間が集まっていろんな事をやってる宮殿みたいなものが頭の中ででき上がるんだよ。そしてその宮殿を完成させて中を見ると面白いんだぞ、まるでこの地球を雲の上から見てるようなものさ、何でもあるんだから世界中の全てのものがあるんだ。」(『限りなく透明に近いブルー』より引用)
リュウが夢見る宮殿は、自分がその場から離れ、上から全てを見ることのできる世界です。彼はあらゆるものを無感動に受け入れているかのように見えて、その実「ここから出たい」という思いを誰よりも強く持ちあわせているのです。
「血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。」(『限りなく透明に近いブルー』より引用)
本作の終盤でリュウは、「黒い鳥」を殺そうとして自身の腕にガラスを突き立てます。時代を、土地を、ドラッグを、セックスを通じて自分の中に巣食ってしまった「黒い鳥」を殺し、解放されたいと願うリュウ。
「ガラスみたいになりたい」とはすなわち透明になるということであり、それは空っぽになること、出すものがなくなることを指すのでしょう。すべてを出し切るほど、「外に出たい」。全編を通して変わらぬその想いが、多彩なイメージから成るこの作品をひとつにまとめあげているのです。
この小説は文庫にしておよそ160ページの文量で、決して長くはありません。その中に、ガラスの中で輝きが無数にきらめくように、たくさんの言葉が散らばっていて、それらが紡がれることで初めてそこに描かれるものが浮かび上がってきます。
本作を若者の病理を描いたセンセーショナルな現代小説として受け取るか、ひとつひとつの細部が選び抜かれ、緻密に編まれた傑作小説として受け取るかは、ひとえに読者に委ねられていると言えるでしょう。