紀元前3世紀から2世紀にかけて生きた、カルタゴの将軍ハンニバル。ローマ史上最強の敵として語り伝えられ、現代でもその戦術が参考にされている彼の人生を、おすすめの本とともにご紹介します。
ハンニバル・バルカは紀元前247年、カルタゴに生まれました。当時はローマとカルタゴの戦争、第一次ポエニ戦争の末期で、カルタゴ側の将軍ハミルカル・バルカが、ハンニバルの父です。彼が20歳頃のときにハミルカルが亡くなり、その意志は娘婿のハスドルバルに引き継がれました。ハンニバルも義理の兄であるハスドルバルのもとで過ごします。
紀元前221年、ハスドルバルが暗殺され、ハンニバルが後継者となりました。このとき、弱冠26歳です。そして紀元前219年、ローマの同盟都市サグントゥムを陥落させました。ハンニバル戦争ともいわれる、第二次ポエニ戦争の始まりです。
ローマを屈服させるため、彼はイタリア本土を直接攻撃しようと考えます。しかし制海権はローマが握っており、またカルタゴの侵入に備え、ローマはイタリア西部、南部の守りを固めていました。そこで彼はアルプス山脈を越えて、北方から侵攻するという前代未聞の発想に至るのです。
紀元前218年5月、彼はスペインのカルタゴ・ノヴァを出発します。そして9月、兵士約4万名と象およそ30頭を率いてアルプス越えに挑みました。イタリアに到着したときには、兵士は2万6千名、象はわずか3頭に減っていたという、過酷な行軍でした。
ローマは、まさかアルプス側から侵攻してくるとは思っておらず、ただちに軍を出動させるも撃破されます。彼はその後の戦いでも勝利を収め、北イタリアに勢力基盤を築くことに成功するのです。そして南下を開始し、216年のカンナエの戦いでローマの大軍を包囲殲滅するなど次々と勝利を上げ、並行して同盟都市の離反も図っていきます。
しかし、多くの同盟都市とローマの結束は崩れず、膠着状態に入りました。ローマ側の消極的戦法や、ローマ側の軍師プブリウス・スキピオの作戦により、ハンニバルはアプリア地方に封じ込められてしまいました。そんななかスキピオはアフリカに渡航し、カルタゴ本土で戦いを開始します。狼狽したカルタゴ政府はハンニバルを召喚し、紀元前203年、彼ははおよそ15年ぶりに故国に戻りました。
紀元前202年、スキピオと会見し休戦を提案しましたが、スキピオは拒否。交渉は決裂しました。第二次ポエニ戦争の最後の戦い、ザマの戦いの火ぶたが切って落とされたのです。ハンニバルとスキピオ、2人の天才戦略家の戦いは、スキピオに軍配があがりました。
戦後、彼は先頭に立ってカルタゴの復興を図りました。政治家としての手腕も高く、行政改革は確実な効果を上げ、不可能と思われた賠償金返済も完遂します。しかしそのことが逆にローマ側の危機感をあおってしまいました。また強引な改革に国内から反対の声もあがり、シリアへ亡命します。
ローマ・シリアの戦争ではシリア側の参謀の1人となりますが、意見は採用されず、敗北。その後は逃亡生活を続けますが、追い詰められ、自ら命を絶ちました。没年ははっきりしませんが紀元前183年~181年といわれています。軍人であり、政治家であった天才はこうして世を去りました。
1:少年時代、「ローマに好意を抱かない」という誓いをたてた
紀元前237年、彼が9歳のとき、父mpハミルカルはカルタゴを離れスペインに向かいました。そこにハンニバルを同行させるとき、父は息子にある誓いをたてさせます。それは、ローマとの友好関係を否定するという誓いでした。のちにシリアに亡命した際、ローマとの仲を疑われると彼自身がこのことを語り、幼いころからローマは敵であると主張したといわれています。
2:ギリシア的教養があった
父のもとにギリシア人の側近層が形成されていたこともあり、彼もギリシア的な教養を身につけていました。ソシュロスからスパルタの王制などについて知識を得て、ギリシア・ヘレニズム世界の軍事関係の書物にも大きな影響を受けたのです。特に、彼のアルプス越えをはじめとした遠征に深い影響を与えたのは、アレクサンドロス大王の偉業だといわれています。
3:捕虜の扱いを通してローマと同盟都市の切り崩しを図った
彼は戦いに勝利するだけではなく、同盟都市を離反させることでローマの弱体化を図りました。そのため、捕虜の扱いに大きな差をつけています。ローマ本軍の捕虜には厳しく接する一方で、同盟都市の捕虜は丁寧に扱い、故郷に戻したのです。
「自分は彼らの独立のために戦うのだ」と示したこの心理作戦の効果は、戦場での勝利以上のものがありました。彼にとって軍事的な勝利は、政治的な勝利の第1歩にすぎなかったのです。
4:牛を利用して退路を開いた
彼はユニークな戦略でローマ軍に圧勝を重ねましたが、戦場以外でも将軍として、彼のアイデアは光りました。ローマ側がハンニバルの退路を遮断しようとした時のことです。彼は2千頭の牛の角に松明を結びつけ、火を付けました。夜陰に乗じて、大人数の軍隊が撤退していくようにみせたのです。
これを見たローマ軍は、道をふさいでも無駄だと考え撤収し、ガラ空きとなった道をハンニバル軍はゆうゆうと立ち去ったのでした。
5:ハンニバルはおじけづく味方を冗談で勇気づけた
カンナエの戦いで、カルタゴ兵はあまりのローマ軍の数の多さにおじけづきました。彼の近くにいたギスコが「なんと、敵の数の多いことか」と言ったところ、ハンニバルは「君は大事なことを見逃しているぞ。あれほど沢山の人がいたって、あのなかにはギスコという人はいないのだ」と語り、皆を笑わせたのです。
この冗談は口から口へ広まり、兵士たちも心のしこりがとれ、勇気が湧いたと伝えられています。そしてこの戦いは、カルタゴ軍の大勝利に終わりました。
6:味方の意見を退け、ローマへ進軍しなかった
カンナエの戦いで大勝利をおさめたあと、彼の部下たちはローマに進軍すべきであると強く主張します。しかし彼はそれを退けました。騎兵隊長のマハルバルは次のように言ったといわれています。「ハンニバルよ。貴方は勝つすべは知っている。だが、勝利の果実を刈り取ることはできないのだ」と。
しかし彼は冷静でした。ローマは奇襲で落ちるような都市ではないし、攻囲戦の見通しも立ちません。補給路も完全に確保できていないカルタゴ軍に勝ち目はないと、現実的に判断したのです。そして彼はマケドニアのフィリッポス5世と通じ、国外から圧力をかけることを考えたのでした。
本書は、軍人としてだけではなく政治家としても優れていた、ハンニバルの生涯を丁寧に追う学術書です。
- 著者
- 長谷川 博隆
- 出版日
- 2005-08-11
彼が生まれる前のカルタゴの歴史や政治体制から、第二次ポエニ戦争、カルタゴ改革、亡命、そして死まで、彼の生涯を順を追って描いています。
地図や写真など資料も多く、とても読みやすいので、彼についての基礎知識を得たい方におすすめします。
本作は、第二次ポエニ戦争の後半、ローマ側の指揮官としてカエサルを追い詰めたプブリウス・コルネリウス・スキピオを主人公とした小説です。
- 著者
- 佐藤 賢一
- 出版日
- 2016-01-22
スキピオから見たハンニバルの偉大さ、恐ろしさなどが描かれています。若者だったスキピオが敵の戦術を学び、実践し、追い詰めていく過程は、ひとり人間の成長物語として興味深く読むことができるでしょう。
小説として情景や感情が丁寧に描かれているので、入りこみやすく、ハンニバル戦争が立体的に浮かびあがります。
本書では、カルタゴとローマの戦いの数字や資料を示しながら、なぜローマが覇権を握るようになったのか、ひとつひとつのプロセスを追っていきます。
- 著者
- 塩野 七生
- 出版日
- 2002-07-01
文庫版で上中下巻からなり、上巻は第一次ポエニ戦争について描かれています。
ハンニバルの活躍は中巻以降ですが、その前の第一次ポエニ戦争、そして、その後第二次ポエニ戦争が起こるまでの23年間に、どのような情勢になっていたのかがよくわかる作品です。ぜひシリーズで読んでみてください。
戦略の父といわれた彼の作戦は、ナポレオンなど、その後の歴史的人物にも大きな影響を与えてきました。
そんな彼の戦略を、現代ビジネスと結び付けて紹介しています。
- 著者
- 奥出 阜義
- 出版日
- 2011-02-18
彼の原則は、十分現代のビジネスシーンでも応用できると語るビジネス書です。前半では戦略力の11個の原則、決断のしかた、イメージトレーニング方法など彼の戦略から抽出したエッセンスを紹介し、後半では実際の戦いを追いながら戦略を分析・比較しています。
歴史から学びたいビジネスマンにおすすめです。
「歴史は勝者が作る」という原則からいうと、ハンニバルは敗者であり、非難される側です。しかし、敵であるローマからも偉大な人物と認められ、彼の戦略は現代まで語り継がれています。彼の人生や戦略は、私たちが生き抜くヒントになるでしょう。ぜひ、色々な角度から触れてみてください。