5代将軍徳川綱吉は、稀代の暴君とも、名君ともいわれています。後世にこれほど評価の分かれる将軍は他にはいません。生類憐みの令は本当に民を苦しめただけの法令だったのでしょうか。綱吉の逸話7つと、彼をよく知るのにお薦めの本4冊を紹介しています。
徳川綱吉は江戸幕府の5代将軍です。1946年江戸城内で産まれました。3代将軍徳川家光と、その側室で身分の低い出だった桂昌院との子供で、幼名は徳松といいます。
家光の子としては4男でしたが、早くから館林藩の藩主をしていた綱吉に将軍職という白羽の矢が当たりました。1680年に将軍職につき、1709年に63歳で亡くなっています。
彼は儒教のなかでも秩序を重んじる学問である朱子学を奨励し、学問の中心地となる湯島聖堂を建立しています。また現代に至ってもまだ悪評とされることが多い「生類憐みの令」を出しました。
この時代はまだ戦国時代の風潮も残っており、切り捨て御免が当たり前のような世のなかで、身分の低い人や犬などの動物が簡単に、そして大量に殺されていました。そこで、犬や猫を殺さない、子供を捨ててはならない、お年寄りは大事にする、という内容の法令を次々に出していったのです。
また彼の時代には幕府の財政も悪化しており、その対策として貨幣改鋳をおこないました。
悪政ともいわれた彼の政策でしたが、8代将軍吉宗がおこなった享保の改革は、綱吉の「天和の治」を元にしているともいわれています。後世に、ここまで評価の分かれる将軍はなかなかいないでしょう。
綱吉に対して、稀代のダメ将軍というイメージをお持ちの方も多いかもしれません。ただこの法令、犬を殺したらその人は死刑、というだけではありませんでした。現代の憲法にも繋がる、捨て子の禁止や、お年寄りを大事にする、という内容も含まれていたのです。
つまり、人殺しや犬殺しが横行していた世のなかで、もっと命を大事にしていきましょう、という法令を135回にわたって出し続けていたのです。彼の時代に、劇的に日本の治安が良くなっています。
現代にも続いている七五三の風習。その起源には諸説ありますが、定着してきたのは綱吉の時代からともいわれています。
彼の長男である徳松は、彼が将軍についたためわずか2歳で家督を継ぎました。当然彼らは離れて暮らすことになり、数え年で3歳の時の11月15日、息子の健康を願って祈願をしています。
残念ながら徳松は5歳で亡くなってしまいましたが、七五三のお参りは11月15日という風習が残りました。
3:将軍になっても勉強熱心で学問を広めた
綱吉は大変勉強家でした。儒教を学び、多くの寺院を残しています。特に朱子学を奨励し、学者が開いていた私塾をきちんとした学問所に整備をするなどしました。こうして商人の間でも学問が広がっていったのです。商人が学ぶと経済が活性化するので、後々の経済効果にはひと役買っているはずです。
4:忠臣蔵事件において正統な処分をした
彼の時代には忠臣蔵事件も起こりました。
将軍綱吉が重要視していた朝廷がらみの儀式の最中、接待役として浅野長矩ともう1人がいましたが、その2人の指南役としてついていた吉良上野介がたいそう意地悪だったのです。これに我慢ができなくなった浅野は、とうとう江戸城内で吉良を切りつけます。
その後浅野は切腹し、浅野のお家も断絶。浅野は赤穂藩主で、その部下たちも追い出されてしまいました。一方の吉良は無事でおとがめなしです。主君の恨みを晴らすべく、赤穂浪士たちは計画的に吉良家を襲撃し、殺してしまいます。討入りをみていた庶民たちは、武士の精神に感動し拍手喝采したともいわれていますが……
綱吉は、赤穂浪士たちも全員切腹としました。武士道的には主君の恨みを晴らすための討ち入りが当たり前の時代です。それでも殺生を嫌い、暴力的な世を平和に整備する最中だった彼は、切腹を命じたのです。この時代では革新的な裁きだったといわれています。
彼の正室は信子という、身分の高い公家出身でした。それに引き換え綱吉の母、桂昌院は下流の出です。家光の側室で綱吉を産み、彼が大抜擢で将軍になったため、思いがけずに将軍聖母になった人でした。信子に対して劣等感を持ち、子供はまだできないのかなど虐めていたそうです。
桂昌院はお世継ぎ誕生を願い、彼に3人の側室をつけたり、僧侶から助言をもらったりしていました。彼も儒教の教えから母親をとても大切にし、2人で子供が授かるよう大金を使って善行をしましたが、結局は亡くなった徳松ともうひとりの女児以外は子を授からず、お世継ぎには恵まれませんでした。
6:身長が124センチだった?
彼の身長は、その位牌から124cmと推測され、小柄だったとされています。徳川歴代将軍の位牌は代々亡くなった際に、生前と同じ身長でつくられたそう。歴代の将軍は150センチ台が標準だったようでが、そのなかでも彼は特に低かったようです。
ただコンプレックスからか周りの気遣いか、彼がとても小さかったという文献は残っていないようです。
7:美少年も好きで、男版大奥もつくっていた!
彼は男性も好んでいたようです。歌舞伎や能に明るく、化粧部屋と称して美少年たちを集め、江戸城内に囲っていました。側室の美少年を時期将軍にしようとして信子の怒りを買い、彼女が刺し殺して自分も心中したのが死因だったという一説もあるくらいです。
『最悪の将軍』は、徳川綱吉の劇的な生涯を、彼自身と、その正室の信子の目線で交互に描写している長編小説です。
大火災に大地震、富士山の噴火に忠臣蔵事件、元禄文化が花開いたりと、さまざまなことがこの時代にありました。武家社会を断ち切り、文治政治へと改変させる際の家臣との対立や苦悩が描かれています。
- 著者
- 朝井 まかて
- 出版日
- 2016-09-26
自身も武家で育った綱吉が、武家社会を断ち切る……そこにはどのような思いがあり、どのような苦悩があったのでしょうか。そしてそれを傍で見ていた信子は何を感じていたのでしょうか。
本書を読むと想像が膨らみ、彼の見方が変わるかもしれません。
綱吉の生涯をまとめて書いているのが本書です。戦国時代が終わり、平和な時代への移行、そして武家中心社会の終焉……そして誤解されがちな「生類憐みの令」について、良いところも悪いところも詳しく記されています。
- 著者
- 塚本 学
- 出版日
- 1998-02-01
「生類憐みの令」は、彼が135回も出し続けた法令です。なかには極端なものもありました。
また人事の面でも彼のこだわりは強かったといいます。将軍であり、ひとりの人間であった綱吉の、良い面と悪い面の両方がわかる一冊です。
著者のベアトリス・M. ボダルト=ベイリーは、ケンペル研究の第一人者です。
ケンペルは1690年からオランダ商館の医師として、およそ2年間出島に滞在しました。綱吉にも謁見していたとのことで、後に彼が統治していた時代の日本の対外政策について記した『日本誌』を出版しました。
- 著者
- ベアトリス・M. ボダルト=ベイリー
- 出版日
- 2015-01-29
日本の歴史上では史料が捏造されているなどともいわれるほど貶められた綱吉ですが、実際に彼に会ったことのあるドイツ人の目線から見ると、どのような将軍に映ったのでしょうか。
日本人とは違う目線で、斬新に綱吉の生涯が綴られています。
本書には、ケンペルの生涯が書かれています。地球を半週する大旅行をしたケンペル。世界を旅し、その旅路で鎖国中の日本にも立ち寄り、将軍綱吉に謁見しました。
- 著者
- ベアトリス・M. ボダルト・ベイリー
- 出版日
- 1994-01-01
ケンペルは元禄時代の日本について記録した貴重な人物で、日本に来るまでの旅路や、綱吉への謁見とその感想などを記しています。
帰国後には事実のみを書いたという『廻国奇観』を執筆したケンペル。彼に書籍を執筆させるほど突き動かしたものは何だったのかがわかります。
以上4冊を紹介させていただきました。いかがでしょうか?徳川綱吉という将軍は暴君だったのか、それとも名君だったのか。真実に近づいてみたいような気持ちになった方、ぜひ興味のある1冊からはじめてみてください。