豊臣秀吉の近習として必ず登場する福島正則。豊臣家のために働く人材として、幼少のころから秀吉の正室ねねの元で過ごした人物の一人として有名です。しかし、彼がどのような人生を送ったのかあまり知られていません。福島正則という武将はどのような人生を送ったのでしょうか?
豊臣秀吉は農民の出身のため、織田信長や徳川家康などのように、代々の家臣というものを持っていませんでした。「織田家のために!」「 徳川家のために!」と無条件に命を投げ出す人がいなかったのです。
そこで、縁のある子供たちを正室・ねねが預かり育てることで、将来の豊臣家恩顧の家臣を作ることにしました。福島正則はその子供のうちの1人だったのです。
22才になった正則は、ついに世に出るきっかけを作ります。織田信長が本能寺で討たれた後、豊臣秀吉と明智光秀との間でおきた「山崎の合戦」で活躍しました。その後、豊臣秀吉と柴田勝家との間に起った「賤ヶ岳の戦い」でさらに活躍を見せ、後世に「賤ヶ岳の七本槍」の1人として称えられることに。
その後も数々の戦で大活躍し、25歳になったころには10万石の大名にまで成長します。これは、豊臣子飼いの武将のなかでも群を抜いた出世でした。
福島正則は、豊臣秀吉の天下取りのストーリーとともに大きくなっていった武将です。秀吉の天下取りの陰には正則は欠かせない存在だったと言っても過言ではありません。その後、豊臣秀吉の二度の朝鮮出兵にも参加しています。これまでの戦と同じように、朝鮮半島でも先頭を切って戦いました。
そんな正則に転機が訪れます。豊臣秀吉が亡くなるのです。その後正則は、豊臣家の内紛の中心人物となっていきます。彼の宿敵は石田三成でした。戦場を得意とする正則と、行政を得意とする三成は、豊臣家臣としてのスタンスの違いから対立するようになっていたのです。
いわゆる人間関係のもつれ的な理由から福島正則は、徳川家康と石田三成による「関ヶ原の戦い」で東軍(家康側)として戦い、再び大活躍を見せました。この活躍から、安芸(広島)49万石の所領をもらうことになりました。
福島正則は、豊臣秀吉、徳川家康の2人の天下人から信頼された戦国大名になりました。豊臣恩顧の武将で、徳川家康からこれだけの恩賞をもらった武将は、正則ただ1人です。
1:豊臣秀頼の従弟だった
福島正則は豊臣秀吉の子飼いの武将だということは知られていますが、とても近親の関係にあることはあまり知られていません。
豊臣秀吉の叔母(正室ねねの妹)の子供である正則は、豊臣秀頼の従弟ということになります。ただし、秀頼はねねの実子ではありませんので、血縁関係はありません。
2.豊臣家のことを最後まで気にかけていた
関ヶ原の戦いでは東軍に与しながら、その後の正則の行動は普通じゃありません。徳川家康を気にするあまり、豊臣秀頼から距離をとる武将が大半の中、堂々と秀頼を気にかけるような行動をします。
「自分の惚れた人間には最後まで仁義を尽くす」
時流が変われば簡単に人を見限ることが多い古今東西の世の中で、漢(おとこ)をつらぬく稀有な存在です。
3:決して仁義を貫くだけの直情的な男ではなかった
福島正則は、時代劇や映画などでは仁義に厚く、戦上手で、だけど政治は下手で、性格は直情的で豪快な、場合によっては単細胞の戦馬鹿として描かれることも多いです。
しかし、そうではない一面があります。豊臣家が滅亡することになる「大坂の陣」では、豊臣側から味方になるように打診されるのですが、それを断りました。 国家が、社会が大きく乱れてでも自分を貫くことはしませんでした。決して直情的で単細胞ではないことを表しています。 このときの正則の言葉が以下です。
「時すでに3年早く、3年遅かった。こうなってはあとの祭りである」(『人生を決断する!武将<サムライ>の言葉1000:総勢230人の珠玉の言葉』から引用)
4:コミュニケーション不足のせいで損をしたことがある
徳川家康が生存中は自分の信念を貫き、そして家康もおそらく嫌々ながらそれを見逃していました。しかし、家康死後徳川将軍が代わり、同時に幕府の重臣が代替わりしたころから風向きが変わります。
広島城の修復作業をきっかけに、所領を10分の1にまで減らされてしまうのです。これは幕閣の本田正純(ほんだ まさずみ)の知略にやられてしまったのですが、正則の幕府とのコミュニケーション不足が原因とも言えます。
5:人生の最後は川中島で過ごした
福島正則の人生最後の地は、武田信玄と上杉謙信の激闘の地、あの川中島です。幕府から所領を大幅に減らされて転封された地が、信濃川中島4万5千石でした。そこで静かに暮らし、病気で亡くなったとされています。
豊臣秀吉の天下取りの過程で、その実行部隊の先頭を切って駆け抜けた福島正則。本書は、大大名へと成長していく彼を描いた長編歴史小説です。
- 著者
- 高橋 和島
- 出版日
あまりにもまっすぐな生き方から後年辛酸を舐めることになるのですが、それでもあの徳川家康に対しても自分を貫き、家康でさえ最後まで露骨な手出しはできませんでした。
誇り高き日本男児としての、男らしい一面を感じさせてくれる一冊です。
桶屋の息子だった市松が福島市兵衛の養子に入って武士となり、豊臣家子飼いとして選ばられたところから人生ががらりと変わります。
そして、豊臣家恩顧の武将として秀吉の天下取りとともに一気に駆け上がっていきます。その勢いは徳川家康の時代になっても変わりませんでした。
そんな福島正則のサクセスストーリーを描いた歴史長編小説です。
- 著者
- 高橋 和島
- 出版日
豊臣秀吉、徳川家康という2人の天下人に信頼された稀有な存在の福島正則。天下が著しく変化する、激動の時代を生きた男の人生が描かれています。
なぜ、豊臣恩顧の武将である正則が徳川家康にも高評価を受けたのでしょうか?決して世渡り上手ではなかった正則の、どんなところに魅力があったのでしょうか?
最後には憂き目にあってしまうのですが、それでも激動の時代を十分に生き抜いたといえる武将の生きざまが魅力です。
北信濃へ配流されてから1年。家督を譲った忠勝が暗殺されます。犯人は大久保党で、その裏には所領を10分の1に減らされた原因を作った宿敵・本田正純(ほんだ まさずみ)がいるとの情報がありました。
福島正則は最後の戦いを決意します。
- 著者
- 大久保 智弘
- 出版日
福島正則の最後の戦いとなる本田正純との戦いを描き、「時代小説大賞」を受賞した小説です。
本田正純から送られてくる、大久保党、鬼堂玄蕃、謎の女、城崩しに長じた人々……。多彩な刺客に対して正則がどのようにして攻防をくり広げるのか。刺客たちとのダイナミックな攻防が見どころです。
石田三成の不安は「誰が味方になってくれるのか」でした。一方、徳川家康の不安は「豊臣恩顧の武将たちの動き」でした。
双方10万近い軍勢を率いながら、たった1日で決着した関ヶ原の戦い。この戦いに命を賭けた武将たちの心の動きを描いた作品です。
- 著者
- 山本 兼一
- 出版日
- 2014-07-25
関ヶ原の戦いは、総勢約20万人もの兵がぶつかり合った戦です。刀や槍、火器による白熱したバトルが先に思い浮かびそうですが、本作は武将たちによる「心理戦」にスポットを当てているところが特徴的です。じりじりと額から汗が落ちてくるような緊張を感じられるでしょう。
また本作は、急逝した山本兼一の遺作となりました。
いかがでしたでしょうか?福島正則という実直で一本気のある人物の人生を、ぜひ感じてみてください。