マルティン・ルターの意外と知らない8つの事実!宗教改革の中心人物の生涯

更新:2021.11.9

キリスト教の宗教改革をおこなった人物として有名なマルティン・ルター。彼はどのような人間だったのか、おすすめの本とともにご紹介します。

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意図せぬ改革者、マルティン・ルター

マルティン・ルターは1483年11月10日にドイツの小さな村に生まれました。法学を専攻し官僚を目指していましたが、ロースクールに入学した22歳のとき、突如修道士になることを決意。大学を離れ聖アウグスチノ修道会に入ります。

当時ドイツでは、聖ピエトロ大聖堂の再建費用の名目で贖宥状が大々的に販売されていました。贖宥状とは、それを買った人は罪が軽減されて救われるという、教会が販売して収入にしていた一種のお札です。ルターは、それを購入するだけでありとあらゆる罪から免れられるという主張は、あまりにも安易ではないかと疑問をもちました。

そこで彼は、1517年に「95ヶ条の論題」を作成します。これは、贖宥状を販売していたドミニコ修道会に対し、学術討論を呼びかけた文書でした。しかしこれが、彼の意図とは違った形で大きな反響となり、宗教改革へとつながっていくのです。

彼の主張は教会の支配に疑問をもっていた民衆の支持を集め、教会側も無視できなくなり、両者は対決を始めます。そして1521年、ローマ教皇は、自説を曲げず教会批判を展開するルターを破門しました。彼はザクセン選帝侯フリードリヒ3世に保護され、ヴァルトブルク城にかくまわれます。そこで彼は新約聖書のドイツ語訳を完成させました。彼は教皇の権威ではなく、聖書の権威を前面に押し出したのです。

彼が不在になると、ヴィッテンベルクの街では教会の破壊など過激な改革がおこなわれるようになりました。これを見かねたルターは、1年もたたないうちに再び人々の前に姿を現し、行き過ぎた行為を警告します。

しかし事態は、彼に共鳴した人々が暴動を起こすまでに発展しました。彼の同志であったトマス・ミュンツァーは、「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルター説を根拠に農民たちを率い、暴動を起こします。さらに、1524年には、西南ドイツの農民たちが、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こしました。ドイツ農民戦争と呼ばれるものです。

ルターは、宗教や神の名のもとで戦ってはならないと、農民側を戒めます。これは、彼のお墨付きがほしかった農民側には納得のいかない話でした。彼の忠告を無視して戦い続ける農民たちをみて、彼は領主たちに徹底的に鎮圧することを求めます。

やがて農民たちは鎮圧され、ミュンツァーも捕らえられて処刑されました。この出来事により、ルターは南ドイツでの支持を失い、この地では改革があまり浸透しなかったといわれています。

その後彼は、大学で講義を続けながら、執筆や旧約聖書のドイツ語訳、領邦教会の成立などを進め、1546年、故郷アイスレーベンで静かに息を引き取りました。62歳でした。

そして彼の死からおよそ10年後の1555年には、ルターの考えを踏襲したプロテスタントが新しい宗派として認められることになるのです。

マルティン・ルターの意外と知らない事実5つ!

1:父親は教育パパだった

彼の父親ハンスは農民の生まれでしたが、村を出てザクセン地方でひと旗揚げ、銅の精錬炉を3つ経営する実業家となりました。努力で成功した父の生き方は、ルターに大きな影響を与えます。父は子どもたちに幼いころからラテン語を習わせ、さまざまな学校で勉強させました。 

そして、息子には法律を学ばせ、政治家や法律専門家にしたいと考えていました。当時は親の職業を継ぐことが一般的だったドイツで、こんなに教育熱心な親は珍しかったのです。父の期待にこたえたルターは名門であるエアフルトの大学へ入学しました。  

2:修道士になったきっかけは落雷の恐怖だった 

順調に学問を重ね、法学を学び始めた彼でしたが、ある日運命的な体験をします。大学に向かう途中、突然の落雷が彼を襲ったのです。そのとき彼は思わず「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!」と叫んだのでした。それから2週間後、彼は父にもらった法律書を捨て、大学を辞め、修道会の門をたたいたのです。  

3:たくさんの讃美歌をつくった 

彼はそれまでラテン語で行われていた説教やミサをドイツ語で行いました。日常の言葉で、聖書から読み解いたキリスト教徒としての生き方を教えようとしたのです。

それだけではなく、彼はドイツ語の讃美歌をいくつも作り、礼拝で人々に歌わせました。古くから歌い継がれてきた詞やメロディーを土台として改作し、一般の人になじみやすいようにしたものがメインでした。これらはコラールとよばれ、たくさんの人の心をつかんだのです。教会に集まって人々が讃美歌を歌う、という習慣を始めたのは彼でした。 
 

4:聖書のドイツ語訳事業は言語史的にも大きな役割を果たした 

彼が全生涯にわたってなした大きな仕事の1つに、聖書のドイツ語訳があります。それまで聖書はラテン語で書かれ、一般の人々は教会を通じて教えに触れることしかできませんでした。彼の訳ではじめてドイツの民衆は、聖書を読み、直接神に祈ることができるようになったのです。

1522年に出版された彼のドイツ語新約聖書は、ルターの生存中に22版を重ね、数え切れないほどの増刷回数で世に広まりました。そして、宗教改革の事業が促進されたばかりでなく、彼の使用したドイツ語が全国民に理解される標準語となり、ドイツ語の文法や表記を統一するという役割までも果たしたのです。

5:修道院制度を批判し、結婚した 

当時修道士たちは、剃髪し、財産を持たず、結婚せず、ただ祈り働いていました。しかし、ルターは従来の修道院制度を批判し、修道士であることを放棄していたのです。そのことをもっともよく表している出来事のひとつが、結婚でした。

ある日、修道院から脱走してきた修道女たちが、彼に保護を求めました。本来、かくまうだけでも重罪ですが、なんと彼はそのうちのひとり、カタリーナと結婚したのです。家庭は共同体の始まりであり、信仰に生きる実践だと彼は考えたのでした。2人は6人の子をもうけ、家族の触れ合いのなかから、家庭での信仰の手引き書ともいえる著作もつくられています。 

宗教改革につながった彼の活動にまつわる、意外な事実3つ!

 

ルターの宗教改革とプロテスタントの誕生は直線的に結び付けられることも多いですが、彼はもともとカトリックのリフォームを目指していただけでした。彼自身、生涯にわたりカトリックであるという自覚のもと歩んだのです。プロテスタントという名は古いカトリック主義に「抗議する者」という意味からきていて、それがカトリックと分離した教派として積極的に使われるようになったのは、彼の死後の話です。

ここからは、後の宗教改革につながっていく彼の活動についての逸話を紹介します。

1:善行ではなく、ただ信仰のみによって救われると発見した

彼は、人間が救われて天国に行くためには、どのような可能性があるか考えました。キリスト教の救いとは「義とされる」、つまり神との関係が正しいとされる、ということです。ルターは修道院での修行や贖宥状の実態を見て、人間側の努力や善行によって自分は「義とされた」という確信を持つことは不可能だと考えました。自分で自分に保証を与えることはできないからです。 

彼が聖書から発見したのは、神は自らを信じる者を義とするということでした。救いは人間の努力のすえに得られるのではなく、神が自ら与えるものだ、ということです。救いは受動的で、必要なのは信仰のみであるという彼の考えを「信仰義認」といい、修道院の塔の小部屋で得たことから、この発見は「塔の体験」と呼ばれています。

2:「95ヶ条の論題」がドイツ全土に広まったことに驚いた

95ヶ条の論題は、ルターが討論会を開く案内として個人的に送ったもので、全国的な広がりになることはまったく意図していませんでした。しかし、当時活版印刷技術が発達したこともあり、14日ほどのあいだにドイツ全土に伝えられたのです。

彼自身が以下のように述べています。

「広く読まれていることは、私が望んだことではありません。また私はそのようなことを意図したことはなかったのです。私はただこの町の人々とまたせいぜい近くの学者たちと議論し、その意見によってこれを取り下げるか、あるいはみなに認めてもらうかを判断しようと考えたのです。ところがこれが何度も印刷され、翻訳もされているのです。ですから私はこれを公にしたことを今後悔しています」(『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』より引用)

3:異端審問の際も自説を曲げなかった

1521年1月3日付で破門となった彼は、神聖ローマ皇帝カール5世により、その年の帝国議会に召喚され、審問を受けました。そこで自説の放棄を迫られましたが、拒否。聖書の言葉に服し続けること、教皇も公会議も信じないことを明言し、最後に「ここに私は立つ」と言ったと伝えられています。これにより彼は異端であると断定され、追放が決定されたのです。

 

わずか20ページ、マルティン・ルターの主要著作

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」
「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」(『キリスト者の自由・聖書への序言』より引用)

本書では、この2つの命題を掲げ、彼の考えが分かりやすく述べられています。

著者
マルティン・ルター
出版日
1955-12-20

『キリスト者の自由』は彼が書いた多くの著作のなかでも、もっとも大きな反響を呼んだもののひとつです。

原著ではわずか20ページですが、信仰のみに生きることなど、彼の考えのエッセンスがつまっています。教会や教皇批判など、現権力を否定する見解があることから、ローマ教会は撤回を命じますが、ルターは拒否しました。それが対立のきっかけともなります。

彼の著作として、まず読むべき一冊です。

ルターによる政治、教育論

追放された彼が著した、政治、軍事、教育に関する3編。どのように現世的な権力と信仰を結びつけて考えたのか、現代政治、教育にもつながる良書です。

著者
マルティン・ルター
出版日
1954-01-25

「現世の主権について-我々は之に対して何処まで服従の義務を追うか-」
「軍人もまた祝福された階級に属し得るか」
「ドイツ全都市の市参事会員に対する勧告-キリスト教的な学校を設立し且つ維持せよ-」(『現世の主権について―他二篇』より引用)

このタイトルと副題の通り、現実世界と信仰世界がどのように結び付くのか、聖書主義に基づく彼の考えが述べられています。 

国家の権威はあくまでも世俗的なものに限られる、対外的な戦いはあらゆる他の手段を尽くしたうえで認められる、市民階級主導の人文主義的教育が必要である、など当時の社会制度の矛盾や人々の混乱に答えを与えた彼の言葉は、今の私たちにも生きるヒントとなるでしょう。 

宗教改革がもたらしたものとは

前半ではルターの改革を追いながら、彼とプロテスタントのつながりを再考しています。

そして後半では、彼の死後から現代まで、プロテスタントがどのように発展し、解釈されてきたのかを考えており、プロテスタンティズムを知るための入門書です。

著者
深井 智朗
出版日
2017-03-21

「ルターが宗教改革をはじめ、カトリックを批判し、新しい宗派プロテスタントをつくりだした」、という認識が間違っていることがよく分かるでしょう。

あくまでも彼はカトリック信者で、そのリフォームを目指していたのです。しかし、時代によって意図せざる結果が導かれていく過程は、個人の意思を越えて歴史が作られたというひとつの大きな事例となりました。

また、ナチスドイツがどのようにプロテスタンティズムを政治利用したかなど、政治と宗教の切っても切れない関係が多く描かれています。

研究者が描くルターの一生

宗教改革を専門に研究し、ルターの著作を数多く翻訳している著者が、「ことば」に焦点を当てて彼の人生を追います。

著者
徳善 義和
出版日
2012-06-21

彼の生い立ちから修道士となるまで、神の道に入った後の講義と研究、そして宗教改革といわれる彼の取り組みを、史料とともに読み説く一冊です。

「聖書のみ」という信念を貫き、研究、発信し続けた彼の生き方がとてもよくわかります。

マルティン・ルターの95ヶ条の論題から500年。現代の課題は?

ルターの書簡や著作を読み解きながら、聖書、家庭など、章ごとに彼の人生を紹介していきます。

著者
小田部進一
出版日
2016-09-23

後に宗教改革と呼ばれる彼の行動から500年たった今、改めて彼の人生や思想にふれようという一冊です。

膨大な史料のなかには彼の人柄が表れている書簡もあり、彼の人間像を立体的にとらえることができます。

ルターを学ぶと、ただひたすら自分の信じた道を貫いただけで、革命をおこそうとか、民衆を先導しようとか、そんな気持ちはなかったのだとよくわかります。時代が、彼を改革者にしたのです。そんな背景も含め、宗教と政治について考え抜いた彼の著作にぜひ触れてみてください。

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