平民宰相といわれた原敬元首相。日本政治の歴史を振り返るうえで欠かせない人物は、どのようにして生まれたのか。それを探るための本をご紹介します。
原敬は1856年生まれ。裕福な上級武士の家系で、そのまま幕府の天下泰平が続いていれば原家も平穏に暮らし、以後の原首相も誕生しなかったでしょう。
明治維新の波にのまれた原家は、家禄を大幅に削減され、家計が大分苦しくなってしまうのです。父親も亡くなり、母親が女手ひとつでやりくりしていました。
原は東京での苦学のすえ新聞記者になりますが、全国を取材するなかで、地方の厳しい現状を目の当たりにします。それまで日本の政治は、士・農・工・商といった族籍に縛られ一部のものだけで動かしていました。彼はその点に大きな疑問を持ったのです。
このようにして、偉大なる政治家の下地ができあがっていきました。
1918年に内閣総理大臣に就任。薩長藩、公家出身ではない初の平民宰相となります。爵位を受けないことへのこだわりを、彼は生涯一貫して守りとおしました。
原は戊辰戦争で実家に大きな痛手を受けており、個人的な恨みをもっていることは想像に難くないですが、彼はそういった感情よりも高次元の精神性を持ち、国家の将来を考えていったのです。
彼の主な政策は、地方の活性化のための鉄道路線の建設や、高等教育の充実があげられます。さらに、軍部の勢力拡大を懸念して、それを抑止するべく人事を考えました。
日本の政治史で大きな役割を果たした原ですが、最後は東京駅の丸の内改札付近でひとりの青年により暗殺され、その生涯を閉じました。
1:苦学の遍歴がある
原敬は若いころパリ公使館勤務を命ぜられていますが、それは、彼がフランス語にも長けていたからです。どのようにして技能を身につけたのでしょうか。彼の苦学の遍歴を見てみると……
まず、14歳で藩校「作人館」に通い、寄宿舎生活を始めます。15歳で上京して「共慣義塾」という英学校に通うも、家計の事情で送金が止まってしまい、辞めることになりました。自力で何とか勉強を続けようと考え、16歳でカトリックの神学校に入ります。
その後19歳で三叉学舎に入塾、20歳で司法省法学校に入学するも、問題を起こし退学処分となりました。それから中江兆民のフランス学塾に入塾して、フランス語を身につけたのです。
2:新聞記者になって、北海道・東北巡遊で目にしたもの
原が秋田県で疲れを癒すため、とある民家で濁酒をくださいとお願いをしたところ、断られてしまったといいます。
濁酒は疲れた身体を癒すため、農家で自家製造している薄粥みたいなもので、到底酒とはいえないようなものでした。にもかかわらず農家の人たちは、原を役人と疑い、酒税をとられるのではと考えて断固拒絶していたのです。
このエピソードから原は、実地を見聞することは大切だと感じたようです。
3:母親への感謝と女性関係
原は特に母親を大切にしていたようです。母親の面倒をよく見るようにと前妻の貞子に厳しく言っていましたが、彼女の母親に対する態度に満足がいかず、それも離婚原因のひとつだったようです。
2人目の妻となる浅に対しても、正式な妻になる前から母親の面倒をお願いしていたといいます。母親との相性や面倒見といった点で浅は申し分ない女性でしたが、字が読めなかったこともあり、原の精神的世界の共有という意味では、さらに別の女性に頼っていたことも明らかになっています。
1:内閣総理大臣就任2年後には、辞意を漏らしていた
原が内閣総理大臣に就任して2年後には、閣僚の問題が多数出てきたり、原本人が考えた政策もやり終えたりして倦怠感を感じはじめ、山縣有朋など周囲の者に辞意を漏らしていたようです。
しかし周囲の者から3年は続けなさいと言われ、内閣発足からほぼ3年が経つ時期で、皇太子がヨーロッパ外遊から帰って来るタイミングを見計らい、辞意を表明しようと意思を固めていました。
2:爵位の称号を拒否し、質素な邸宅に住んだ
原は死に際しても、爵位を頑なに拒否していたと言われています。薩長藩閥政治家がはびこっていた時代でしたが、彼は日本の将来を見据えて、その者の属性ではなく個人の能力で適正に評価されるべきという考えを強く持っていました。
故郷である盛岡の大慈寺にある墓石には、原の姓名以外に勲位などの記載はなく、徹頭徹尾「平民宰相」としての国民のなかにありつづけることを守りとおしたのです。
また原の邸宅は、総裁の邸宅としては政友会内部でも問題になるほど貧弱なものでしたが、妻は身分相応であるとして、断固譲りませんでした。
3:暗殺を予期していた⁉
原は1921年11月4日に、ひとりの青年によって暗殺されたのですが、その数ヶ月前に遺書をしたためていました。
家族に対して、自分の死後も質素に生活を続けることや、嗣子である貢の結婚相手については、厳粛な血統正しい人と結婚してほしいということまで言及していました。
日本の歴史に名を遺す偉大な総理大臣だった原敬。彼のような偉人に対する尊敬の念は、読者にとってはともすると距離を作ることにも繋がります。
しかしそんな政治家たちの裏話を聞くと、少し身近な存在に感じられるのではないでしょうか。
- 著者
- 佐高 信
- 出版日
- 2010-03-26
著者はテレビ番組にも出演しているジャーナリストで、原敬と、彼に関わった人について多くの裏話が綴られています。
嗣子の貢が旧制一高の受験に3度失敗した際、思いやりのある言葉をかけていたエピソードなどからは、原の父親としての側面も垣間見られるのではないでしょうか。
また、原家の応接間にあった掛け軸がニセモノであることに気づいた者がそれを指摘すると、「くれた人はホンモノと思っている、その好意を掛けているのだ」と言った話からは、彼の人柄を感じることができます。
本書は、原の人生が網羅されているといっても過言ではありません。生まれてから幼少期、そして暗殺されるまでが詳細に書かれています。
- 著者
- 伊藤 之雄
- 出版日
- 2014-12-11
「ああ世の中はわからぬものだ、人生浮き沈み、よしこの家運挽回をしてみせる」(『原敬 外交と政治の理想』から引用)
明治維新で家計が逼迫した際、原敬は弟にこのように言ったそうです。
著者は原の日記も詳細に調べ、政治家としての側面だけでなく家族や友人などのエピソードも交えて、彼の人生を詳細に描いています。
2012年、長く続いた自民党政権が崩れ、民主党(現 民進党)が政権奪還するという大きな政治の動きがありました。政権交代時には、世の中が大きく変わるのではと期待した人も多かったのではないでしょうか。そしてその後、政治に対する期待外れな印象を持ってしまった方が少なからずいたはずです。
初期の原敬の政治を振り返ることで今の政治が目指すものが見えてくるのではないでしょうか。
- 著者
- 松本健一
- 出版日
- 2013-09-13
「大正時代に最初の政党内閣を組織した原敬は、西洋近代文明を議会、民主主義、政党政治で具体化、定着させた。藩閥政治を抑え軍閥政治の危険性を見抜き軍部が天皇の名を利用し独走するのを防ごうとした。」(『原敬の大正』から引用)
これは、著者が原敬の政治生涯を要約したものです。ここに集約されているように、彼はこれまでの政治世界の問題点を見つけ、変革を起こし、さらには先に起こるであろう流れを予測してその予防線を張ったのです。
原敬の政策を見ると、地に足の着いた手堅い政策で、軍部の動きも掌握して人事を考えていることがわかります。時代の流れを読んで政策や方針を考えた政治家の功績から、学べることがあるのではないでしょうか。
ご紹介している本のなかでは、内容が読みやすく学生にもおすすめの一冊です。
- 著者
- 季武 嘉也
- 出版日
- 2010-05-01
最初は母親が蔵を売って勉強の費用を用立ててくれ、それをもとに上京して勉学の道に向かいますが、その後は実家の仕送りをあてにできなくなり、彼自身で道を切り拓いていったことがわかります。
10代にしてかなり自立していた様子がわかるでしょう。彼が政治家になるまでどのような軌跡をたどったかが描かれており、若い人にも参考になる部分があるはずです。
いかかでしたでしょうか、学生時代歴史の教科書で見て、原敬の名前だけは知っている!という方、ぜひ読んでみてください。政治の世界は堅いイメージで一見とっつきにくそうですが、彼が政治家になるまでの道筋をたどると、人生のヒントがたくさん詰まっているように思います。