松岡洋右とは、どのような人物だったのか。刻々と変わる世界情勢の中、いかなる選択をしていったのか。彼の生涯がわかる本をご紹介いたします。
松岡洋右は、1880年現在の山口県光市室積に生まれます。松岡家は維新前後まで「東は米倉、西は金倉」といわれるほど裕福な廻船問屋を営んでいました。しかし家運は傾き、彼が11歳の時に倒産しました。
松岡は13歳の時に渡米します。そこで小学校、高校と卒業し、大学はオレゴン大学法学部に入学しました。彼はクラスメートから「駆け引きにたけた、ポーカーの名手」と評されたそうです。優秀な成績での卒業を果たした彼は、オレゴン大学の同窓会誌にて「もっとも著名な卒業生、もっとも偉大な同窓生」と記されることとなります。
帰国してからの松岡は、1904年に外務省に入省。外交官として中国やアメリカなどで勤務しました。
1931年、日本は満州事変をうけて軍事行動を開始し、中国東北部のほとんどを占領。翌1932年3月には満州国建国を宣言させます。この建国については、無効とさせたい中国と、認めさせたい日本とがぶつかり、中国の提訴をきっかけに国際連盟臨時総会が開かれます。
この時、松岡は日本の首席全権に任命され、一時間以上にわたって英語で演説しました。しかしその結果は「満州国の建国を認めない」というもので、松岡は会議途中で退席。その後日本は国際連盟を脱退しました。
日本は国際的に孤立し、その頃欧州で孤立が見えはじめたドイツと、そしてイタリアと防共協定を結びます。その後、ドイツから日本に協定をより強い結びつきの「同盟」にしようという提案がなされました。日本がその検討をしている間に、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、ポーランドに侵攻。第二次世界大戦がはじまります。
「欧州情勢複雑怪奇」という言葉を残して、当時の平沼内閣は総辞職。1940年、近衛文麿内閣が発足し、松岡は外務大臣になりました。同年、ドイツから提案されていたとおり「日独伊三国同盟」を結びますが、この同盟これが彼を「第二時世界大戦のきっかけとなった人物」といわしめる原因となります。
1941年、日本が真珠湾攻撃をし日米が開戦。この時松岡は「三国同盟の締結は僕の一生の不覚だった。」(『欺かれた歴史』から引用)と語っています。
1945年に日本は降伏し、翌年の5月に「極東国際軍事裁判」、いわゆる東京裁判が開かれました。松岡は肺結核の悪化により3日しか法廷に足を運ぶことはなく、6月27日、66歳で病死しました。
1:頑固な少年だった
少年だった頃の松岡洋右には、気の強そうな雰囲気を持っていたそうです。アメリカ上陸早々の彼を見たキリスト教伝道師で、後に彼から「第二の父」と呼ばれるようになった河辺貞吉は、彼に対して「見るからにきかん気が強そうだった」という言葉を残しています。
また、在留邦人の大人を相手に宗教論を吹っかけはじめた彼を見た時には「大変な小僧がやってきた」と驚いたそうです。
2:部下に怒鳴りつけられたことがある
ある時、松岡外相の次官であった大橋忠一に「自分ばかり偉がる大臣は、大馬鹿だ」と怒鳴りつけたことがあります。すると松岡は少し驚いたような顔をしましたが、薄ら笑いを浮かべただけでした。後日彼は会う人ごとに「大橋はよい。見どころがある。」と褒めちぎったとのことです。
自分に対する非難も受け止める度量があったのですね。
3:ウィンストン・チャーチルと手紙のやりとりがあった
松岡洋右は、数度にわり、当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルからの手紙を受け取っています。その内容には、「同盟国のドイツがソ連に攻め込もうとしている」ということや「米国が英国に味方し、日本が枢軸国側に参戦するならば、欧州の枢軸国同様日本を処分することが可能になってしまう」など、日本にとって非常に重要な忠告もあったそうです。
しかし、松岡はこれらの忠告をよく無視しています。
4:お喋りだった
松岡は話すことが大好きで、「朝から晩まで喋っていた」と言われています。また、当時のアメリカ駐日大使・ジョセフ・グルーはしばしば彼の元を訪れ、ドイツ、イタリアとの同盟を阻止しようと努めていたことがありました。
そのころのグルーが本国に宛てた「90%松岡、10%自分」という電報が残っています。つまり、松岡が1人喋り続けていたということです。
5:三国同盟の締結を後悔していた
1941年、日本は真珠湾攻撃をもって米国と交戦状態に入りました。当時の外交官・斎藤良衛が、千駄ヶ谷にある松岡の私邸を訪ねた際、松岡は彼に「三国同盟の締結は、僕の一生の不覚」、「自分は世界平和の樹立を目指していたけど、世間が自分を侵略のきっかけを作ったと誤解している」、「死んでも死にきれない」と泣きついたそうです。
6:亡くなる数時間前に、カトリックの洗礼を受けた
肺結核を患った松岡の主治医に井上泰代という女医がいました。彼はこの井上の影響で、カトリックへ強い関心を抱き、そして改宗するにまで至ります。亡くなる間際、井上によって授けられた彼の洗礼名は「ヨゼフ」でした。
「松岡洋右の外交は誤解されている」と本書は指摘しています。では、松岡とはどんな人物で、どんな目的、志を持っていたのでしょうか?
外交官として彼とともに働いてきた著者が、彼の実像に迫ります。
- 著者
- 斎藤 良衛
- 出版日
- 2012-07-21
著者の斎藤良衛もまた外交官で、中国の天津に赴任した時以来、松岡とは親しい仲にありました。
「松岡攻撃になるが、これがかえって彼に喜ばれるような気がする。松岡は、ああした男であったにかかわらず、自分に対する非難を聞くのを喜ぶ良さを持っていた。」(『欺かれた歴史』より引用)と語っているところに、2人の気の置けない親しさが伺えます。
本書では松岡の外交を中心に、彼の考えや業績について詳しく綴られています。行間のないぎっしりと詰まった文章ですが、簡潔な文体なので難なく読み進めることができるでしょう。
「直截な物言いで誤解されやすい松岡の真の姿を知ってほしい」「松岡の失敗は自分の失敗だ」と言い切る著者が、思いを込めて書き記した一冊です。
松岡の生涯をエピソードなど交え、わかりやすくまとめた作品です。
この作品もまた『欺かれた歴史 - 松岡洋右と三国同盟の裏面』のように、「戦争を引き起こした張本人」として彼を「悪」とする昭和史の定説に真っ向から挑んだ内容となっています。
- 著者
- 福井 雄三
- 出版日
- 2016-02-23
日独伊三国同盟を締結し枢軸国側と連携するなど、太平洋戦争の元凶のように松岡は言われていました。東京裁判の早い時期に病死してしまったので、自らのことを語る機会もなく罪を一身に背負わされたしまった、と著者は考えます。
松岡はいかなる構想で外交していたのか、その生涯をたどりながら真意を探ります。
時系列にまとめられたわかりやすい構成の本作は、松岡洋右の人となりを知るガイドラインになってくれるでしょう。またこれから昭和の歴史を学ぼうとする人には、当時の世界情勢を把握するのにも最適の入門書です。
著者・三好徹は松岡の生涯を「夕陽に向かって怒濤のように破滅へと進もうとする日本を、外交の力で変えようとして、果たさなかった」と語っています。
彼はどのような外交をしようとしたのでしょうか。
- 著者
- 三好 徹
- 出版日
第一次世界大戦後から第二次世界大戦まで、独伊などの枢軸国やソ連と同盟や協定を締結してきた松岡洋右とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。また、日本に真の外交はできなかったのでしょうか。
作者は松岡を通して日本の外交について「世界情勢というのは二国間だけの問題ではない」、「自国中心の考え方だけをしていては、周りの状況が見えない」と考えており、また「松岡の生きた時代を過去の歴史とせず、現在との繋がりを感じてほしい」と綴っています。
受身ばかりの偏った歴史を学ばず、史実を元に自分の考えを持ちたい。そんなふうに考えさせてくれる作品です。
外相時代の松岡洋右が若手の外交官にこういったことがあります。「外交官というのは、ともかく仕事のためには何でもしなきゃいかん。自分の家族と別れて遠路はるばる赴任しなければならないことも多い。仕事のために犠牲にすることも多い。それなのに外交官なんかによくなったなぁ。」(『私が最も尊敬する外交官』から引用)
松岡洋右は幕末の志士を多く輩出した山口県の出身です。大志を抱いて仕事に邁進していたのかもしれません。