明治天皇の暗殺を企てたとして死刑にされた幸徳秋水。謎の多い未曾有の大事件は秋水を含む12名の犯人の生命とともに幕を閉じました。明治時代の思想家であり、無政府主義者、社会主義者のジャーナリストはいったい何を思い、何を語ったのでしょうか。
幸徳秋水(こうとく しゅうすい)は1871年11月5日生まれで本名を傳次郎(でんじろう)といいます。9歳にして儒学を学び、1887年に上京し、のちに自由民権運動の中江兆民の門弟になりました。
紙幣の百円札にもなった板垣退助が社長の「自由新聞」などに勤めて新聞記者を目指し、後に権力者のゴシップ記事などを扱う「萬朝報(よろずちょうほう)」の新聞記者になります。
日本軍の起こした横領事件である「馬蹄銀事件」を追求し、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行して帝国主義を批判するなど、ジャーナリストとしての名を上げていき、非戦論を訴えていく「平民新聞」を創刊しました。
刊行物は常に政府の方針とは合わず、ついに新聞紙条例違反で逮捕・入獄されます。この頃からアナキズムに目覚め無政府主義者になっていきました。
1910年に明治天皇の暗殺を計画したとされる「幸徳事件」の犯人の一人として逮捕され、翌年には死刑判決が下ります。約一週間後には刑が執行され39歳の若さでこの世を去ることになるのです。
天皇、皇后、皇太子の命を奪ったり、危害を加えたりすること、もしくは計画することを大逆事件といいます。幸徳事件もこの大逆事件のひとつですが、一般的に大逆事件=幸徳事件といわれるほどこの事件は代表的なものになりました。
幸徳事件では、1910年に宮下太吉が爆発物取締罰則違反で逮捕され、捜査の結果、天皇暗殺計画を企てていたことが判明して26名が逮捕されます。このうち、秋水を含む24名に死刑判決が下りました。
この幸徳事件、本当に秋水は関わっていたのでしょうか。実は政府の策謀による冤罪説はいくつもあり、思想家に対する弾圧のひとつであったとも考えられています。
裁判は傍聴なしで行われ、再審もしないというもので、刑の執行も一週間足らずで行われています。いくら天皇暗殺の事件としてもスピード裁判すぎますし、むしろ真実を明らかにするためには裁判は時間が掛かるものではないかという声もありました。
真実はどこにあるかは定かではありませんが、幸徳事件は謎の多い大逆事件なのです。
1:幸徳秋水は陰陽師の子孫だった?
幸徳家は奈良を根拠地とした安倍晴明の末裔の家であり、もとは「幸徳井(かでい)」と呼ばれる姓でした。そのため、秋水は陰陽師の子孫にあたる血筋だといわれています。
2:秋水の名を師匠から譲り受ける
秋水の師匠は日本の自由民権運動の祖ともいえる中江兆民です。もともと兆民が秋水を号として名乗っていましたが、愛弟子の傳次郎に、その号を譲ったため幸徳秋水が誕生したのです。秋水は兆民が亡くなった後に追悼で『兆民先生・兆民先生行状記』という伝記を書いています。
3:代表的な一文「嗚呼、自由党死すや」
秋水の名を世間に広めた一文として有名なのが、この「嗚呼、自由党死すや」です。憲政党が伊藤博文と結びつき、立憲政友会を結成した時に「萬朝報」に書いた記事の一文です。
政友会の立ち上げの際のドタバタは、自由新聞にいた頃の社長として縁があった板垣退助の政治生命を事実上、断つことにもなりました。
この政治劇には、かつて自由民権運動を指示していた秋水にとって許せないことも多く、熱のこもった文章になったのだと考えられます。
4:足尾銅山鉱毒事件で、明治天皇への直訴状の草案を書く
日本で初めての公害事件といわれた足尾銅山鉱毒事件で栃木の政治家である田中正三が政府の対応があまりに遅いために天皇に直訴したことがありました。この直訴状の中身を依頼されたのが秋水でした。
天皇への直訴は命賭けの行動ですから、秋水はその決意を汲み取り快諾して徹夜で書き上げたといいます。直訴自体は成功しませんでしたが、田中正三の行動はマスコミに取り上げられ事件は明るみに出ることになりました。
5:日露戦争を期に「萬朝報」と決別
日露戦争の開戦前は戦争反対を訴える新聞紙も多かったのですが、開戦後はむしろ賛成の傾向が強まりました。「萬朝報」さえも例外でなく、これを期に秋水は朝報社を去ることになりました。
6:夫婦仲はかなり冷え込んでいた。
幸徳事件の後、獄中に妻の千代子が面会に行きましたが、秋水は手作りの弁当にも手をつけないほどでした。それほど夫婦関係は冷え切っていたらしいです。幸徳事件の首謀者の一人とされる菅野須賀子と秋水は同棲中でもあり、逮捕時の湯河原でも一緒でしたので、千代子との夫婦仲は最悪だったと予測されます。
墓も同じところには入っておらず、秋水と千代子は隣接した墓に眠っています。大罪人である秋水とは別の墓にしたいというのもわかりますが、それだけの理由ではないでしょう。
7:幸徳秋水は死んでも鉄格子に入れられていた
幸徳事件の犯人として処刑された秋水の墓は戦前まで鉄格子で囲われていました。墓には監視も付き、墓参りにどんな人間かくるか見張られていました。
天皇暗殺を計画した重要犯人として死んでからも政府に目をつけられていたのです。
大逆事件で死刑にされる9年前の幸徳秋水の作品を山田博雄が現代語に訳しています。愛国主義、軍国主義、帝国主義について論じられており、複雑な構造をわかりやすく分析しています。
獄中での遺稿になった「死刑の前」も収録され、年譜も掲載されていますので、秋水の生涯についてふれることができるでしょう。
武力をもって海外と接する日本に対し、秋水は何を主張していたのでしょうか。現代語訳でわかりやすく読むことができる一冊です。
- 著者
- 幸徳 秋水
- 出版日
- 2015-05-12
明治時代の思想家というと少し怖いイメージもあるかもしれませんが、当時の日本の背景とか世界の情勢を考えながら読んでいくと秋水の言いたかったことが少し見えてくるでしょう。
本書では文学的な表現も多く、ジャーナリスト、思想家、作家としての秋水の文章のセンスも感じ取れる作品になっています。
死刑直前、未完となった「死刑の前」も読むことができ、まるでドキュメンタリー作品のような重厚感もある一冊となっています。
中江兆民は日本で最初の衆議院議員の一人で、自由民権運動の指導者でもありました。兆民は号で「億兆の民」の意味になります。
幸徳秋水はこの中江兆民に師事しており、1901年に死去した兆民への追悼作品として本作を書いています。彼の兆民に対する思いがたくさん詰まった伝記です。
「兆民先生行状記」はスケッチ風に兆民の姿を捉えていますが、長きに渡り仕えてきた師匠の足跡をふり返ります。
- 著者
- 幸徳 秋水
- 出版日
- 1960-07-25
中江兆民は明治を代表する思想家でありますが、なかなか豪快な人柄で昼間から芸者遊びをしたり、下半身裸で札束をばら撒いたりするといったエピソードも残っています。
土佐出身で先輩の坂本龍馬に頼まれてタバコを買いにいくなどの逸話もあり、まさに明治維新から日本を見続けた一人です。
幸徳秋水に自分の号を譲るほどでしたので、師弟関係は厚かったと思われます。秋水が師匠への思いを筆に託した作品となっています。
3人の思想家に焦点を当てて政治的思想と人物を研究した一冊。明治を代表する自由民権運動の中江兆民、社会主義者の幸徳秋水、大正時代の民主主義者・吉野作造のそれぞれの思想や役割を緻密に分析しています。
秋水については自由民権主義に始まり、社会主義者となった思想家として紹介。大正時代への橋渡しという役割を担った人物として、時代背景とともに書かれています。
コンパクトに内容がまとめられ、主としている思想がわかりやすく書かれているので3人の思想家を比較しやすい構成になっています。
- 著者
- 林 茂
- 出版日
- 1958-02-17
日本の民主化の実現は戦後からになりますが、近代日本の思想家たちが熱く語った思いは次の時代へ伝わっていったと感じ取れます。
明治時代に入ったとはいえ、まだ幕末の勢いが残っており、新しい明治政府への期待が大きかったことが、骨太の思想家たちを生みだしたのでしょう。大正時代に入っても民主化への道は遠くにありました。
厳しい弾圧のなか、理想の国の姿を思い浮かべた人たちの姿が少し見えるような本です。
幸徳秋水の代表作といわれる一冊です。1903年の日露戦争開戦前に主戦論が騒がしく叫ばれるなか、社会主義を唱え、戦争反対の立場をとった力作です。社会主義の文献としては、日本では初のものとされています。
秋水は社会主義は一面において民主主義と同様の平和主義を意味するとしており、国家の開戦に対する方針に疑問を投げかけます。
- 著者
- 幸徳 秋水
- 出版日
- 1953-02-05
日露戦争開戦が現実になりつつある1903年に初版が刊行されたこともあり、日本の主戦論に対する非難が色濃く表れた作品になっています。
日本が戦争への道を選びはじめるなか、思想家として信じる道を示していく秋水。日露戦争の開戦は朝報社を辞めるきっかけになり、彼の人生を大きく左右させていきました。
幸徳秋水が生まれたのは明治の時代に入ってからわずか3年の1871年です。明治維新により生まれかわったばかりの日本が激動の時代であったことは間違いないでしょう。
幸徳事件がどこまで真実だったかわかりませんが、明治の事件のひとつとして非常に印象に残るものだったと思われます。幸徳秋水の書籍を読みながら日本や平和を考えるのも、たまにはよい時間かもしれません。