嘉納治五郎にまつわる6つの逸話!講道館柔道の創始者である柔道の父とは

更新:2021.11.10

「柔道の父」の異名を持ち、近代における日本スポーツ界の礎を築いた男、嘉納治五郎。スポーツを単なる勝ち負けを争うスポーツとしてではなく、精神鍛錬の道として説き、教育者としても尽力した彼の生涯に迫ります。

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柔道の父と呼ばれた教育者、嘉納治五郎

嘉納治五郎(かのう じごろう)は、1860年に、摂津国(現在の兵庫)で幕府の用達として、建築や海運など幅広く営む旧家に生まれました。両親はともに教育熱心で、彼は幼い頃から学問に勤しみ、9歳で上京してから最初に入った書塾では、漢学や書道のほか、英語も学んだそうです。

これは、この時代としては開明的なことで、後に彼が国際人として活躍する基盤となりました。学問に秀でていた彼は、どちらかといえば文官向きの教育を経て、1877年に東京大学文学部に進学し、さまざまな分野で日本の近代化に貢献したフェノロサに師事します。

ここで彼は、哲学や心理学を中心に学び、これらは後の彼の思想形成に大きな影響を与えました。そして、かねてからの希望であり、なかなか学ぶ機会を得られなかった複数の柔術の流派に入門し、文武両道の日々を過ごすのでした。

卒業後、学習院の教師となった嘉納治五郎は、上野の永昌寺に住み、その一部を道場とし、かの有名な講道館を設立します。自身が学んださまざまな流派の長所を取り入れつつ、独自の思想を体系化していくなかで、次第に彼の「柔道」は注目を浴びるようになっていきました。

また、教師でもあった彼は、教育の場においてもさまざまな改革を行い、旧式の教育体系を大きく変えていきました。以後、柔道家、教師、文部省参事官など、国内外を問わずマルチな活動を続けた彼は、1909年の時、アジア人で初めてのオリンピック委員に就任します。以降、外交官さながらの渉外能力によって、自身が興した講道館柔道を世界に広めるほか、彼はスポーツを介して、海外との共栄を図るべく奔走し続けました。

そして、彼がその生涯を終える最後の年である1938年、史上初めて、欧米以外の国で初の開催となる東京オリンピックの招致に成功します。しかし、1940年に開催されるはずだったこの大会は、第二次世界大戦へ向かって行く日本と、諸外国との関係悪化の影響により、政府が権利を返上し、幻の大会となってしまいます。

彼は、国際情勢がきな臭くなっていくなかで、最後までこのオリンピックの開催を気にかけていました。そして、エジプトでのIOC(国際オリンピック委員会)の会議に参加した帰路、現在もその姿を横浜港に残す氷川丸の船上で、肺炎のためその生涯を終えるのでした。 

嘉納治五郎にまつわる6つの逸話!

1:若い頃はいじめられっ子だった

嘉納治五郎は、12歳の時に親元を離れてから東京大学に進学するまで、寄宿舎での生活を送ります。この寄宿舎には、各地から維新前の名残により、武術をしっかり身につけた少年たちが集まっていました。

彼はこの頃のことを、学問では負けなしという自負があるものの、虚弱体質であったため、しばしば馬鹿にされたと回顧しています。この苦い経験が、後に彼が柔道家としての道を歩む原動力となったことは、言うまでもありません。

2:開明的な彼の発想を海外に発信される

嘉納治五郎が校長として熊本の中学に赴任した際、『怪談』の執筆で有名なラフカディオ・ハーン(後に帰化して小泉八雲を名乗る)を英語教師として招き、交流を深めます。日本に来る前から日本好きであったハーンは、日本の素朴さに惹かれると同時に、産業革命から資本主義に向かっていくなかで、効率性が重んじられつつある当時の流れを危惧していました。

そのなかでハーンは、柔道の精神にかつての日本らしさを見出し、高く評価しています。彼は、柔道は自衛の術であり、相手を殺める急所を心得ながら力に物を言わせず、相手が向かってきた時のみに使う、正当防衛的なものだと理解していました。

さらに、日本の近代化の成功の秘訣は、この精神にこそあるとまでいい、欧米の文明を利用しつつ、自国の良いところは残すべきであると述べています。これらは、彼による著書『東の国から・心』に「柔術」として記され、当時の海外の多くの人々が講道館柔道を知ることとなりました。

3:「偶力」を柔道の原理とした

武道と聞くと、力も強く、敵に向かっていく攻めの技こそ重要と考えられがちですが、嘉納治五郎は逆の発想で、「偶力」こそ柔道の原理だとしました。「偶力」とは、物理学でいうところの、互いに大きさが等しい、反対の方向に作用する力のことです。治五郎は、これこそ柔道の原理であると分析し、「敵の力をもって勝つ」方法を説きました。

これは、体の小さい者や女性であっても勝つことのできる術でもあり、治五郎自身も小柄であったがゆえに到達できた極意かもしれません。後に、彼の弟子で講道館四天王ともいわれた山下義韶も、この原理により、ホワイトハウスで行われた他流試合において、自分の体重の2倍以上もある相手に勝利したといいます。

4.自身の信念を優れた弟子に引き継ぐ

嘉納治五郎による講道館柔道は国内外に広く理解され、その精神は多くの優れた弟子たちへ引き継がれました。1886年、幕末長州の志士であり子爵でもあった、品川弥二郎の海外赴任の留守居を頼まれた治五郎は、富士見町(現在の千代田区)に講道館を移転させます。

彼はここで、「講道館四天王」と呼ばれる最強の男たちと修練を積みました。そのなかで、会津藩家老であった西郷頼母の養子であり、四天王の一人の西郷四郎は、富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルにもなりました。

治五郎はこの富士見町での日々を、もっとも講道館が盛んであった時期と称え、「かつて全力を尽くして戦わねばならぬような多数のものに申し込まれたことがない。」と、後に自著で語っています。

5.指導者への教育を勧める

嘉納治五郎は、講道館が成熟するにつれ、段位制の導入などの体系化や、簡潔で誰もが理解しやすい人間哲学を理念に掲げるなどの工夫のほかに、柔道教師の教育にも目を向けるようになります。講道館の修行者たちは、教師として養成された者はいないにも関わらず、海軍兵学校や警視庁、その他の教育機関に採用される者もいました。

彼は、これらは修行者の元々の素養や努力によるものであると考え、自身が校長を務め、当時教師の養成所でもあった東京高等師範学校(現在の筑波大学)に体育科を設置するなど、優れた指導者を生むための環境を整えました。

6.柔道家から教育・思想家へ

明治維新後の改革で、それまでの日本の文化や道徳が失われるなか、新しい方向性も定まらず人々は混乱を極めていました。国際人でもあった治五郎は、さまざまな国や宗教に触れるなかで、日本には特定の道徳というものが存在せず、その危うさを感じるようになります。

1890年に発表され、現在でもしばしば議論がなされる教育勅語に関して、彼は道徳の統一だと賞賛しました。しかし、信じる宗教が違えば道徳の解釈も異なるので、あくまでそれら全ての人に通じる根本原理でなければならないとも述べています。

嘉納治五郎はその生涯において、数多くの教育機関の設立や運営に関わるなど、教育者としても力を注ぎましたが、教育や柔道を介して彼の思想の根底にあるのは、人々の「心」の混乱の解消でした。

柔術から柔道へ。講道館が掲げる精神とは

 

講道館や嘉納治五郎の名を聞くと、どうしても体育会のイメージが拭えない方もいるでしょう。しかし、むしろ彼は理論的な見地から、柔道や、ひいてはスポーツ全般によって、爆発的な維新の革命を終え、停滞感漂う日本人の精神の向上を目指しました。
 

彼は、柔道とは、目標をなすための精神を高めるものであり、技術の鍛錬は手段であると説いています。さらに、修身法、練体法、勝負法という体系により、それまでの武術としての役割が強かった柔の精神を、人間教育として世に広めようと努めました。

ここでは、講道館が掲げている、治五郎のふたつの教えをみていきましょう。

講道館の精神①「自他共栄」

講道館が掲げる精神のひとつに、「自他共栄」というものがあります。これは、人生において、他者との融和は自己の利益にもなり、お互い幸福になる道であるという意味をもっています。治五郎は、この精神こそ、人類の利益になると考え、教育者としては、留学生の受け入れを日本で初めておこなうなど、積極的に国際交流のきっかけを作りました。

1936年、ベルリンオリンピックの際に行われた武道会でも、彼は自他共栄について言及しており、当時のオリンピックは、個人と文化を高めるというより、それぞれの国のナショナリズムが強く出ているため、柔道がそこに加わることは好ましくないとも語っています。

彼が柔道やスポーツを介して望んだことは、政治や国家、人種に左右されない、全ての人の精神の向上だったのです。

講道館の精神②「精力善用」

幼い頃、幕府の仕事が多忙なため、なかなか家に帰らない父の代わりに、治五郎は日々のほとんどを母と過ごし、彼女の影響を色濃く受けました。母は厳しく実直で、よく他人に尽くす人でもあったと彼は語っています。

これが後に、講道館で「自他共栄」とともに掲げる「精力善用」の基盤になったといえるでしょう。これは、鍛錬において身につけた全てを社会のために用いるという意味で、彼自身、柔道家として、また教育者としてそれを生涯かけて実践しました。

 

2人の「父」たちの生涯を探る

本書は、日本における、「柔道の父」嘉納治五郎と、「野球の父」安部磯雄の2人の生涯をたどった一冊です。

徳川幕府瓦解の後、日本が国民意識や教育をどのように創りあげていくか右往左往していた頃、先見的な思想をもって、スポーツという思いもよらぬ分野から、国民のアイデンティティ形成を試みた2人の父たちがいました。

著者
丸屋武士
出版日
2014-09-26

2人に共通していることが、経済活動にしろ、文化交流にしろ、現代こそ当たり前のこととして浸透しているけれど、当時としては新しかった、グローバルスタンダードの思想をもっていたということです。

本書ではそういった、スポーツの父として今日でも敬愛の対象となっている彼らの、政治的な視点から見た功績を覗くことができ、スポーツやその他の文化の価値をあらためて考えることができるでしょう。

嘉納治五郎の思想の極意が学べる一冊

スポーツや芸術は民衆のものであり、政治からは関係のないものとして見られがちですが、時として国同士の関係を揺るがすほどの能力をもつこともあります。

嘉納治五郎本人によって記された本書は、彼が青年期に受けたごくありきたりな経験が、後に国民教育の形成を担うほどの思想にまで大きく膨れ上がっていく過程が描かれています。

彼が柔道やスポーツを、どのように国家のなかで生かそうとしたかをとことん知ることができるので、治五郎について知りたい方はぜひ手に取って頂きたい一冊です。

著者
嘉納 治五郎
出版日
1997-02-25

彼は優れた柔道家であると同時に、教育者でもあり、また思想家でもありました。

西欧の文化を次々に取り入れ、さまざまな思想や道徳感で混乱に陥っている日本をどのように再構築していこうとしたか、彼自身の逡巡も含め知ることができる貴重な内容となっています。

柔道精神の生かし方

自身も柔道家である村田直樹により、嘉納治五郎の思想が分かりやすく読み解かれた一冊です。

「柔道」や「講道館」と聞くと、どこかスポ根や体育会系のイメージがあり、苦手という人も多いでしょう。しかし、ここでは講道館柔道の持つ道徳的な部分も詳しく取りあげられており、日常生活でも実は活用できる内容となっています。

著者
村田 直樹
出版日
2001-03-01

治五郎は、柔道を世界に広めるにあたり、その極意を技術のほか、簡潔な言葉で語りました。

そのひとつに、「技より入って道に進め」というものがありますが、これは柔道のみならず、料理にしろ、恋愛にしろ、多くの人が何かをなすうえで実践できるものではないでしょうか。

昨今、「お金持ちになる方法」や「モテる男になる方法」といったようなハウツー本が溢れていますが、それらより手っ取り早く真理を学ぶことができ、思わず背筋がピンと伸びるような気持ちになれるでしょう。

嘉納治五郎の残した精神を知る

彼の柔道やその他の教育活動における、現代まで続けられている功績を挙げればきりがありません。彼の活動の根底に一貫して流れていたものは、日本国民のみならず、人類の共生という大きなものでした。

治五郎は、まるでむさぼるように日本が急激な西欧化をはかるなか、日本の独自性を世界に発信することで日本の精神を守ろうとしました。

著者
出版日
2011-06-01

それらは、強いナショナリズムによるものではなく、彼はむしろそれを嫌悪し、国家間がお互い共生していくためには、お互いをまず開示し、妥協案を模索することが必要とも語っています。

本書では、そうした国際人としての彼が残した、現代の私たちも活用すべき精神基盤を多く知ることができるでしょう。

いかがでしたでしょうか。晩年はオリンピック委員として、それらが国際平和への架け橋となることを願い奔走した彼ですが、皮肉にも彼の死後からまもなく、世界は第二次世界大戦の渦に飲み込まれます。

彼が唱えた柔道やスポーツ、その他の文化における自他共栄の精神は、今日の私たちにも深く浸透し、引き継がれていますが、テロや難民など、国際社会でさまざまな問題が頻発している今だからこそ、あらためて考える必要があるような気がしてなりません。

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